第肆帖 薔薇宿《そうびのやどり》

薔薇宿 壱

 油蝉が短い生命のかぎりを叫んでいる。

 午前七時。本殿へ朝一番の御饌みけと祝詞を捧げ、自分の朝食をすませた曲直瀬まなせ燐太郎りんたろうは、白衣はくえの袖をたすきがけにした。手には箒、足元にはバケツがふたつ。一方のバケツには雑巾、もう一方には榊の枝が挿してある。

 本日から燐太郎の副業先、白黎学苑も夏休みなのである。

 本業に専念できることになった彼がまず着手することにしたのは、社殿の大掃除であった。

 太陽はすでに絶好調だ。七月に入って降り続いた雨を取り戻そうとするかのように盛大に照りつけ、地表から水分を奪う。

 巨大三毛猫のウズメさんはとっくに姿を消した。境内の涼しい場所を見つけ出して寝ているに違いない。きっと摂社の木陰あたりだろう。

 人は、猫をうらやんでいるわけにはいかない。

「っし。やるぞ」

 浅葱袴の紐を締め直す。気合を入れないと、暑さで早々に萎えてしまいそうだった。




     壱.


 龍神を祀る水秦みなはた神社の社殿には、いたるところに龍がいる。

 榊の枝を棒の先にくくりつけ、向かい合う二匹の龍が彫刻された拝殿の欄間をはたいていると、近所に住む高木が九時前にやってきた。元会社役員の高木氏は、水秦神社の手伝いを長年してくれている貴重な人材である。

「おはよう。精が出るねぇ、若先生。本格的じゃないか」

「おはようございます。まあ、これが正式ですからね」

 燐太郎は手を止めずに答える。社殿の清掃はふつうのハタキではなく、榊の枝を使うことになっているのだ。とはいえ兼業神職の燐太郎はそこまで手間をかけていられないので、現在は節目のときのみで勘弁してもらっている。

 高木は社務所の引き戸を開けながら言った。

「暑いのに朝から大変だ」

「時間が早いほうが涼しかろうと思ったんですがね。これだと大差なさそうですな」

 燐太郎は手の甲で額をぬぐった。汗が頬をつたって落ち、白衣が背中にはりついてくる。近年の東京は、夏場は三十度を超えるのが当たり前になってしまった。

 高木は「熱中症に気をつけてよ」と笑いながら社務所へ入っていく。燐太郎は、拝殿の屋根の端から覗く太陽を見上げた。

(こりゃあ、注意せんとほんとうに危ないな)

 こんな日は冷房の効いた部屋で昼寝でもしていたいものだが、ぼやいても始まらない。近隣の老人を中心にぽつぽつ参拝客もやってきている。彼は外向きの微笑と会釈を向けつつ、床掃除にとりかかった。

 予定外の『客』が現れたのは、それからしばらくしたあと。

「曲直瀬先生、おはようございます! こちらにいらっしゃると聞きました」

 燐太郎は耳を疑った。

 雑巾をしぼって慌てて拝殿前の高床へ出ると、声の主が賽銭箱の前で手を振っていた。

 ブルーと白のストライプのワンピースを着て麦藁帽子をかぶり、白いトートバッグを肩にかけている。髪のふたつ結びはいつもよりやや低い位置だ。以前の私服よりは若干大人っぽいが、高校二年生に見えるかというと微妙なところである。

「……新木。なんで」

 燐太郎の教え子、新木悠乃しんきゆのが笑う。

「先生、神社に来れば相手してやる、って言ってたじゃないですか」

 暑さのためではなく目眩がした。

 そういえば言った気がする、いや、言った。

 期末試験の少し前に悠乃の友人を襲った奇怪な事件のあと、悠乃が燐太郎を追いかけ回すことはなくなった。

 それで油断していたわけだが、一学期最後の授業後に真面目くさった顔をした悠乃が近づいてきたと思ったら、「東洋文化研究会の会報の原稿を書くため、水秦神社のことが訊きたい」と申し入れてきたのである。

 とっさに断る理由が思いつかなかった。それで学校では困るが神社へ来るなら暇なときに答えてやらなくもない、と言ってしまったのであった。

 しかし、ほんとうに来るとは。

(そういえばこういうやつだった……)

 拝殿から下りていくと、悠乃は言った。

「今日はお時間ありますか? お話聞いてもいいでしょうか」

「あー、新木。悪いが見ての通り掃除でな。お前さんの相手はしてられん」

 悠乃は「ありゃあ」と言って表情を曇らせたが、すぐになにか思いついた顔になる。

「お手伝いしましょうか!」

 燐太郎は悠乃をまじまじと見た。

「その格好でかね?」

「駄目ですか」

「肉体労働だぞ。疲れるし確実に汚れる。いろいろ決まりもあるし、触ってほしくないものもある。正直、手を出されると困る」

 言ってから表現がきつかったかと不安になったが、悠乃は堪えた様子もない。

「了解しましたっ。それじゃ、お掃除が終わるまで待ちます!」

 悠乃は小走りで参道脇のベンチに駆け寄り、そこにちょこんと座った。

 なにを了解したというのか。太陽が悠乃の麦藁帽子をじりじりと灼いている。半袖から覗く白い肌が、日差しのもとではなんとも頼りなく見えた。

「……こんな場所で待ってたら熱中症になる。屋根があるほうがいいだろう」

「はいっ」

 勢いよく立ち上がった悠乃が、サンダルのかかとを軸にくるっと振り向く。

「あ、お参り、お参りします! このあいだ来たときは忘れちゃったし」

「それなら、おきよめが先だ」

「手を洗うんですよね。作法教えてください!」

 悠乃は青銅の龍が水を吐く手水舎に走っていく。暑いのに元気なことだ。

 これが若さか、などと思いながらあとを追う燐太郎を、拝殿から木製の龍たちが見下ろしていた。




「おや、悠乃ちゃん。先生に会えたみたいだね」

「おかげさまで!」

 燐太郎について社務所に入ってきた悠乃を見て、高木がにこにこ笑っている。以前悠乃が押しかけてきたときにも思ったが、打ち解けすぎではないだろうか。

 座敷では古びたエアコンが必死で働く音がしている。

 高木の持ってきてくれた冷たい麦茶を出すと、悠乃は大きな目をきらきら輝かせた。

「やっぱり似合いますね、着物。いまの、袖を押さえるのとか、板についてるって感じです。学校で見る曲直瀬先生より、ずっといいです」

「そりゃあどうも」

 言外にスーツが似合わないと言われた気もしたが、気にしないことにする。ネクタイより袴のほうがつきあいが長いのだからしかたない。

「しかし本気で待つのかね? いるぶんには構わんが、なにもしてやれんぞ」

「大丈夫です! そんなこともあるかなと思って、本を持ってきました。先生のことも高木さんのことも、邪魔しませんから」

 悠乃はトートバッグから新書本を取り出してみせた。翻訳の児童文学のようだ。

 ふと、頭をよぎる。

 ――怖くないのだろうか。

 初対面から、燐太郎は悠乃の前で少しばかり普通でない技能を使った。先日の古賀遥の件でもそうだ。なのに悠乃は、燐太郎を恐れる様子がない。

 燐太郎の能力は、人に知られれば珍しがられ、たいていは気味悪がられ、ときに利用される。

 おかしなものが聴こえたり、視えたりすること。異界の住人――異神アダガミに対処する方法をいくつか知っていること。それらは彼の人間関係を狭めることこそあれ、広げたことなどなかったのに。

 燐太郎の物思いは高木の声で破られた。

「なんか、変な音しないかい?」

「ん、そんなことは……してますね」

 悠乃もこくこく頷いている。

 金属を叩くような立て続けの大きな音は、部屋の隅に設置された据え置き型のエアコンが発していた。

「なんだなんだ。長年使ってるがこんなの初めてだぞ」

「わりと一大事じゃないかい?」

 風量調整のつまみを回しても電源を入れ直しても変わらない。どころか音は大きくなる一方だ。低く唸るような音まで聞こえ始めた。本体が熱い。

 燐太郎は、本体の横板を平手で叩いてみた。

「……あっ」

 とどめだったらしい。

 連日の酷暑に耐えかねたか。前世紀の遺物であるエアコンは、ぷすんという哀しげな音を断末魔にして、とうとう稼働を止めたのであった。以後はうんともすんとも言わない。

「これ、直せば直りますかね……」

 燐太郎がつぶやくと、高木が自分の首を撫でながら言う。

「どうかなぁ。ずいぶん年代物じゃなかったかい」

「少なくとも俺が生まれたときからあったような」

「ロッキード事件のときにはあった記憶がある」

「もはや骨董品じゃあないですか。よく動いてたな」

 その場で電気屋に電話する。やはり、見てみないと直るかどうかわからないし、費用もなんとも言えないという。明日来てもらえることになったが、しかし。

 電話を切り、燐太郎はがくりと肩を落とした。

 この真夏にとんだ災難だ。エアコンが停止したためすでに室内は暑くなってきている。

「……あのぅ」

 天井を仰げば、あちこちに染みのある傷んだ天井が目に入った。

(寂れてるのは、否定できんのだよなぁ……)

 水秦神社の設備が老朽化してきていることは実感している。社殿も社務所も、修繕すべき箇所はたくさんあった。

 問題はひとつ。金だ。

「あのぅ」

 かつての賑わっていたころならいざ知らず、いまの水秦神社は行事も少なく、目立つ観光資源があるわけでもない。宮司の燐太郎は「いるだけ」で、無人社ではないという程度だ。燐太郎自身の生活だって、ほぼ白黎学苑の副業でまかなっているのだ。

「どうしたもんか……」

「あのぅ、すみません、先生!」

 見れば授与所につながる戸口で、悠乃が背伸びをして両手を振っている。そういえば存在を忘れかけていた。

「どうしたね、新木。俺はいま貨幣経済について思いを馳せてるんだが」

「それは壮大な……じゃなくて、お客さんです!」

「――客?」

 授与品を求めてきたのか、それとも祈祷の希望者か。

 悠乃の向こう側、授与所の窓からこちらを覗いている人物は、どちらも違うように見えた。

 四角い顔。角刈りめいた短髪。どことなく名古屋城のしゃちほこに似ている。

 顎の感じなどを見れば若い。燐太郎より二つ三つ上だろうか。しかしぎょろりとした目から放たれる眼光は歴戦の剣豪か、マフィアのボスのような貫禄を醸し出していた。ワイシャツとスラックスを身につけ、ジャケットと革の鞄を脇に抱えている。

 四角い男は、燐太郎を睨むように見て言った。

「あんたが、曲直瀬さん?」




 香椎宗介かしいそうすけと、男は名乗った。

「伯父から相続した屋敷を、雑司が谷に持っている」

 室内はひたすらに暑い。扇風機が頑張っているが、麦茶のグラスが瞬く間に汗をかいた。

 座布団に胡座をかいた香椎は、名乗るなり先の発言をした。

 まさか財産自慢でもあるまい。燐太郎は、はぁ、と間の抜けた声を出して扇子で顔をあおいだ。香椎が続ける。

「単刀直入に言うとだな、そこが『出る』らしい。そういう噂になっている。迷惑してるんで、どうにかしてほしい。これが、用件だ」

 そこまで言って香椎は麦茶を飲む。燐太郎は確認のために尋ねた。

「出る、と申しますと」

「幽霊に決まってるだろう」

(――なるほど。ずいぶんと久しぶりだな、この手のは)

 懐かしい、と頭をよぎりかけたのを振り払って燐太郎はまた顔をあおぎ、軽く呼吸を整えた。

「ええと、香椎さん。どこからお聞き及びかは存じませんが、うちはただの神社です。そういったご依頼はお受けしておりません」

 香椎の太い眉が寄る。

「だって、あんた曲直瀬だろう。水秦神社の曲直瀬に頼めば、妙なことを解決してくれると聞いたぞ」

「どなたからです?」

 横柄な男だ。燐太郎の返答もしぜんそっけなくなる。

 授与所の椅子に並んで座った高木と悠乃が、聞き耳を立てている気配がする。香椎は太い声で言った。

「死んだ伯父だよ」「失礼ですが、亡くなられたのはいつで」「三年前」

「ははぁ、なるほど」だいたい理解した。「それは、昨年亡くなった先代のことをおっしゃっていたのでしょう。わたしは先代の孫です」

「なんだ。道理で若造だと思った」

 香椎は苛立たしげにハンカチで汗を拭き、小さく舌打ちする。香椎もたいして年齢は違わないように見えるが。

「じゃあ、妙な力のある巫女がいるってのは?」

 胸を突かれた感覚をおぼえたが、押し殺す。

「……そちらも、いまはおりません」

「まるっきり駄目じゃねぇか」

 初対面でこの態度とはいったいどんな職業なのだろうと思いつつ、燐太郎は畳に手をつく。

「ご期待に添えず申し訳ありません。ほかを当たっていただけたらと存じます」

「……ほか?」

 引き下がってほしかったが、香椎の声はかえって凄みを増した。

 顔を上げると、堅気とは思えない眼光と目が合う。

「あのな曲直瀬さん。俺は霊とかそういうもんは元来信じないんだ。だから除霊やらなんやら言ってる霊能者のたぐいも信用してない。そういう連中には関わりたくねぇんだよ。あんたの爺さんが、伯父の友人だっていうから来たんだ」

 香椎は乱暴に麦茶のグラスを置いた。

「くそっ、暑いなかわざわざ来たってのに。この調子じゃ、先代や巫女さんも眉唾だな」

 ――まずい。

 燐太郎は冷静だった。みずから警告アラートを発したのはその証拠だ。

 ただ彼の意思に反して眉根が寄り、目を眇めてしまっただけである。

 香椎が手で顔をあおぎながら言う。

「つってもしょうがねぇか。できねぇんじゃな」

 燐太郎は自分のすべきことを理解していた。

 もう一度「申し訳ございません」と言って頭を下げて、さっさと帰ってもらうのだ。それから、困った人だったねえと高木と話して、終わりにすればいい。

 理解している。理解していた。のだ。けれど。


「――できんとは言っとらんでしょうが」


 燐太郎は冷静だった。

 ああ、言っちまったなぁ、と。

 他人ごとのように、自分にツッコミを入れる程度には。

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