夕立

 奥から二番目の部屋の襖は古びて、笹の葉の模様の一部がかすれて消えている。

「入るぞ」

 襖を開けた。夕暮れが近く、部屋は薄暗い。

「燐」

 雫は肩にカーディガンをかけ、布団に半身を起こしてこちらを向いていた。顔色が悪い。パジャマから覗く鎖骨はやけに尖って見えて、あいだに収まったしずく型の石だけが光っていた。

 燐太郎は、運んできた粥の盆を枕元に置いた。

「食えるか?」

 雫は少し考えるそぶりをみせた。それから人差し指を顎に当て、小首をかしげる。

「燐が、あーんしてくれるなら」

「はぁ!?」

 頓狂な声を上げて雫の顔を見ると、青白い顔のなかで口元が笑みを形作っている。

 燐太郎は額を押さえた。もう十八歳になったというのに、振り回されてばかりだ。近ごろとみに雫が寝つきがちになっても変わらない。

「やれやれ、勘弁してくれよ。もうまもなく成人だろうに」

 呆れつつ燐太郎は言った。雫は見透かすような目で、彼をじっと見ている。

「喋り方、ますますお爺ちゃんに似てきたわね」

「……せめて話を聞いてくれんかね」

 雫はころころと笑い、それから口を開けて顎を突き出した。

「ね、食べさせて」

 燐太郎は肩をすくめ、盆から体温計を取り上げる。

「先に熱を測れよ」

「はぁい」

 雫は体温計を受け取り、脇に挟んだ。

「……また、雨、降ってるの」

 薄い屋根をばらばらと叩く音がしている。燐太郎は「夕立だよ」と答えた。夏場の天気は崩れやすいのが常だ。

 軽やかな電子音が聞こえた。燐太郎は雫から体温計を受け取る。

「明日、社務所に出てもいい?」

「熱、下がっとらんだろうが。駄目だ」

 雫は不満そうに「えー」と言っている。

 燐太郎はため息をつき、くせのある髪をかきまわす。それから、ずっと気になっていたことを口にした。

「――あのな。もう、相談受けるのはほどほどにしろよ」

 雫はきょとんと燐太郎を見上げた。

「最近の不調、病院ではなにも問題ないって言われたんだろう? ……と、通じすぎてるせいじゃあないのか」

「燐」雫の眉が寄る。燐太郎は続けた。

「昔、『楔渡くさびわたりをしすぎると、帰れなくなる』って、さんざん言われただろう。爺さまも心配してる。婆さまだってそれで」

「燐!」

 雫がこちらを睨む――その瞳は薄暗がりのなかで、金色の燐光を放っている。一瞬ぞくりとしたが、燐太郎は雫の目をまっすぐに見返した。

 少しの間があって、雫が肩を落とす。

「……だって、困ってる人がいるんだもん。わたしが視てあげたら、解決するかもしれないのよ」

「だがな、雫」

「やらせてよ。だってわたし……わたしは、『雨降りの巫女』なんだもの。お婆ちゃんから受け継いだ、大事なお役目なんだから……」

 雫の伏せた目は、とくに変わったところのない黒に戻っていた。目尻の湿り気を見て燐太郎は口を閉ざす。

 夕立が、曲直瀬の家を、社務所を、境内を、社殿を、鳥居を、静かに濡らした。

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