招潮子 捌
捌.
かつて海は、しばしば死後の世界と同一視された。
記紀神話の主要な神のひとりである
また、海はマレビト――彼方より訪れて思わぬ幸運を運んでくる、
海は気まぐれに災いと恵みをもたらす。人知の及ばぬものだ。
四方を海洋に囲まれるこの国では、海はもっとも身近な異界のひとつであったのだ。
◆◇◆
横浜駅に姿をみせた遥は、ひどい有様であった。
駅員に借りた便所サンダルをはき、カーキのような茶色のような、変な色のレインコートを羽織っている。汚れたセーラー服を隠すためであろう。右の膝から
悠乃と理沙は人混みをかきわけて走り出し、遥に飛びついた。
「遥ぁ! 無事でよかったよおおお!」
「もう、遥ってば、なにやってるのよ! いい加減にしてよね!」
「悠乃ちゃん、理沙ちゃん。いっぱい心配かけて、ごめんねぇー」
再会を喜び合う少女たちを、燐太郎は腕組みをして遠巻きに眺めた。
なぜ担任の弓削ではなく彼に、横浜くんだりまで迎えに行く役が押しつけられているのか。なぜ悠乃と理沙がついてきているのか。そのあたりは深く考えないことにした。
組織においての美徳は謙遜だが、組織で生きるうえでの必須能力は鈍感さである。そういう意味では、学校もまた組織なのであった。
結局遥は思いつきで学校をさぼり、遠出した挙句に土手から落ちて軽い怪我を負った、ということになった。
(こんないい加減な説明でも、そんなこともあるかもしれんと納得できちまう。思春期ってやつは恐ろしいな)
自分もその年頃を抜けて十年も経っていないくせに、燐太郎はしみじみと顎を撫でた。
遥を京成線に乗せ、品川方面へ帰る理沙を見送り、山手線内回りに乗る。
新橋駅を取り囲む新旧のビルのうえには、濃い赤紫の夕焼けが広がっていた。帰宅ラッシュ時間にさしかかって電車内は混み合っている。
「新木は、家、どっちなんだ」
ドア横に立つ悠乃と人波のあいだに入るようにして吊革をつかみ、燐太郎は尋ねた。
「わたし埼京線です。池袋まで行って乗り換えます」
「ん? そっち方面なら、ここから宇都宮線のほうが早いんじゃあないのかね。赤羽で埼京線に乗れるぞ」
なぜか悠乃は口ごもった。
「あの、わたし、先生と……じゃなくて、先生に、その」
ごにょごにょと要領を得ないことを言ったあと。
悠乃は、狭い車内で小さくぺこりと頭を下げた。ふたつに結んだ髪が揺れる。
「ありがとう、ございました」
窓ごしの夕日が、悠乃の白い頬を朱色に染めている。伏せた長い睫毛が淡くきらめく。
「遥を助けてくれて……ちゃんとわたしの話を聞いてくれて、ほんとうにありがとうございました」
悠乃は顔を上げ、はにかんだように笑った。
「曲直瀬先生がいてくれて、よかった」
正直なところ。
燐太郎は、たいへんに面食らっていた。
白黎学苑にやってきてからのひと月半ほどは、悠乃から逃げ回る日々でもあった。異神や異界のことを知られたくなかったからだ。
それが今回は、やむを得ない事態だったとはいえ彼女の前で特殊な知識と技をしこたま披露してしまった。はたしてなにを言われるやらと、内心恐れていたわけだが。
(こんな素直な態度に出られたら、逆に困るじゃあないか)
燐太郎は指先で頬をかいて視線をうろうろさせ、いや、まあ、どういたしまして、などと胡乱な答えをつぶやいたあと、言わねばならないことがあったのを思い出す。
「その……昨日の放課後、すまなかったな。感じ悪かっただろう?」
悠乃は数度まばたきして、「あ」と言った。
「いいんです。わたしもいままで、お話聞きたくて無理ばっかり言ってたし……それに先生、こうしてちゃんと助けてくれたじゃないですか」
「あー、いや、その」
ここまで言われると照れくさい。燐太郎は咳払いした。
「古賀が戻ってこられたのは、新木の声が届いたからだ。俺は少しばかり手伝っただけだよ」
笑みを深くした悠乃の表情が、ふと曇る。
「遥は大丈夫なんでしょうか。怖い思い、いっぱいしたはずです。引きずったりしないかな……」
「うーん、まあ、平気だろう」
「どうしてそう言えるんです?」
悠乃は首をかしげた。悠乃の手のひらの火傷痕は、いつの間にかきれいに引っ込んでいた。
燐太郎は、覗き込んでくる大きな目から視線をそらす。
山手線は高架にさしかかっていた。空の赤紫色が紺色と混ざり、金星を裳裾にブローチのように留めて、どこまでも続く屋根の海を見下ろしている。
「
◆◇◆
家に帰り着いて、遥は母親の対処に難儀することなった。
子どものように泣く母親を慰めるのは手間がかかった。これなら怒られたほうがよほどましだ。
「ほんとうに、ほんとうに、悩みとかないのね? お母さんに隠してるわけじゃないのね?」
「ほんとうだってばー。ただ今日は、そんな気分になっちゃっただけなのー」
押し問答を繰り返し、ようやく開放されて部屋に戻ったが、父親が帰宅したらもう一席あるに違いない。遥は深くため息をついた。
(でも、ほんとのことなんて話しても信じてもらえないよねぇ……証拠もないし)
遥はベッドに寝転がり、スマートフォンを取り出す。
アカウント名が表示されないメッセージは、きれいさっぱり消えていた――まるで、最初から存在しなかったかのように。
(不思議なことばっかりだったなあ。夢でも見てたみたい)
駅員に聞いた話によれば、平見海岸駅へ行くローカル線は、たしかに八年前に廃線になった。
しかし、かわりに海浜平見という東海道線の駅が内陸側につくられ、いまは住民はそちらの駅を利用しているというのだ。町の中心地は少しずれたが、遥が線路沿いに見たような空き家だらけになってしまったなどということはない。
遥が見た廃村の風景は、いったいなんだったのだろう。
「あ! そうだ! 写真!」
遥は勢いよく起き上がった。アルバムから抜き取ってきた十年前の写真。あれを見れば、今日のことが白昼夢ではなかったと証明できる気がした。
はたして勉強机の上に、写真はあった。
薄青の空。紺碧の海。手前で笑う、幼い遥。
「……なんで?」
写真に写っていたのは、遥ひとりだった。
「い、いたた……」
遥は両手で頭を抱えてしゃがみこむ。頭痛がする。そのうちに、違和感に気づいた。
(……あたし、今日、なにしてた?)
抜け落ちて、いく。
不審なメッセージ。二両編成のローカル線。海から覗く手。悪臭。黒い渦。
すべての輪郭が曖昧にぼやけ、砂が波にさらわれていくように、ぐずぐずと崩れる。
――約束だよ。
白い手のひんやりした感触が最後に意識に上り、消えた。
◆◇◆
「
都心の空に、しらじらとした月がのぼっている。
「忘れたいことほど、忘れられんのだよなあ……」
扇子ではらりと顔をあおぐ。開け放った縁側に煙が揺蕩った。
巨大な三毛猫が、んな、と鳴いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます