招潮子 漆
漆.
重いものが胃のあたりにわだかまっている。
列車はふたたび海際を走っていた。山側の家々は、相変わらず空き家ばかりだ。いつの間にか濃い灰色の雲が空にたれこめ、あたりは薄暗い。海も濁った色に変わっている。
少し前方、海の一点が銀色になっている箇所があった。
(なんだろう?)
遥は半開きの窓から覗き込んだ。
海面が激しく波打っているようだ。魚でもいるのだろうかと思ったが、よく見る前に通りすぎてトンネルに入ってしまった。
(……いまの)
遥は口元を押さえた。トンネルで視界が暗転する前、一瞬だけ目に入ったもの。
――無数の人間の手が、波間から突き出しているように見えた。
遥は見たものを振り払うように首を振ったが、一度わきあがった不安は消えてくれない。耐えられそうになくて、メッセージアプリを起動した。
『怖くなってきちゃった』
返信はなかった。
列車の速度が落ちてきた。見ればまた駅が近づいている。さっきの駅と違ってホームに屋根がついており、多少設備は整っているようだ。が。
(……なに、この
猛烈に生臭い。
魚屋のゴミ捨て場を二十軒分も集めたらこうなるだろうか。腐臭と潮の匂いが渾然一体となっている。
遥は吐き気を押さえるためハンカチを出して鼻と口に当てた。窓を閉めようと思ったのだが、錆びついているのか動いてくれなかった。
(前の車両なら、窓閉まってたり?)
座席を立ち、連結部のドアのレバーを引いてみる。しかしこちらも動かない。
整備不良にもほどがあるだろう。前方車両に移動できないのでは運転士に訴えることも不可能だ。覗き込んでみたものの、前方車両と運転席のあいだに黒いカーテンが引かれて運転士の姿は見えない。
列車がホームに滑り込む。
大量の紙が舞い落ちるような音が上から聞こえた。
「ひゃっ!」
思わず首をすくめて声を上げてしまう。
見上げると、数十羽の
列車のドアが開いた。
駅名標に『ひがしひらみ』とあり、次駅は『ひらみかいがん』と出ている。
(……帰っちゃおうかな)
その考えは、実はこれまでも何度か浮上しかけた。そのたびに気持ちを浮き立たせるメッセージが届いていたから抑えられたのだ。しかしいま、スマートフォンは沈黙している。
しかしこんな場所で降りても帰りの列車があるのだろうか。乗り換えて以来、反対方面の列車とは一度もすれ違っていない。
新たな不安を抱え、考えを決めきれぬまま遥はドアへ向かった。
「――ひ」
ドアの前で息を呑む。
目の前のホーム。
コンクリート製のそれは、フジツボでびっしりと覆われていた。
何年ものあいだ誰も通ってすらいないかのように。
電子音が聞こえた。ひどく場違いに思えた。しかも一度ではない。何度も鳴っている。
「なに? なんなの?」
遥は取り出したスマートフォンを確認し、取り落としそうになった。
『約束だったよね?』
――なぜ。
遥が帰ろうと考えていることに、反応したかのようなメッセージ。
メッセージは次々に届く。
『約束だよ』
『十年たったから』
『一緒にいこう』
「や、やだっ……!」
遥はその場にしゃがみこんだ。電子音がたたみかける。
『約束だよ』『約束だよ』『約束だよ』『約束だよ』『約束だよ』『約束だよ』『約束だよ』『約束だよ』『約束だよ』『約束だよ』『約束だよ』『約束だよ』『約束だよ』『約束だよ』『約束だよ』
震える遥の鼻先でドアが閉じる。悲鳴じみた音をたてて列車が動き出す。
(あたし……)
メッセージアプリは、自分がアカウント登録をしている人の登録相手や携帯電話内に保存された電話番号に基づいて、友人の可能性があるアカウントを紹介する。思いもよらぬ人物と再会することもままあったから、疑問に思わなかったのだけれど。
だが、六歳当時の遥はもちろん携帯電話など持っていない。共通の友人もいない。
彼は、どうやって遥のアカウントを知ったのだろう。
(……誰とメッセージ交換してたの?)
十年前の遠い日。曇天。海鳴り。白い手。
たしかに彼はそこにいたはずなのに、差し出された手の先が記憶のなかで像を結ばない。
また電子音が鳴った。
「もうやだ……!」
遥はスマートフォンを投げ捨てようと手を振り上げた。そこで、いままでと音が異なることに気づく。海外の動物アニメのテーマ曲。着信だ。
画面に表示された名前は『ゆのちゃん』。
通話ボタンを押した。耳に届く、声。
『遥!』
◆◇◆
中学の三年間、四月は憂鬱だった。
――新木さんって、なんで
そんな言葉が耳に入ったのは、中学に入学して一週間たったころ。
クラスメイトに話しかけても、どこかよそよそしい態度を取られるとは感じていた。そういうことか、と思った。
その後もいじめにあったりしたわけではない。ここは自分の場所ではないのだと知っただけのことだ。
悠乃は本を読んでさえいられたら困らないが、クラスに友人がいないと不自由なことは多い。クラス替えのたびに地味な子たちのグループにあたりをつけ、こっそり紛れ込むようにして三年間を過ごした。
状況が変わったのは、高校生になってからだ。
――体育館ってどこにあるの?
たしか、そんな会話だった。入学式の三日後くらいか。体育の授業の前だ。
眼鏡をかけた中背と、なんだかふわふわした長身の二人組のクラスメイトが声をかけてきたのだ。
白黎学苑の体育館は中高共通で使っていて、道を挟んだ中学側の敷地にある。悠乃は体育館までふたりを案内した。
――ありがとう。新木さんがいてよかったわ。わたしたち、この学校のことなんにも知らなくて。
眼鏡のほう、小野寺理沙が言った。
彼女たちは高校から白黎学苑に入ってきた、いわゆる『外部生』だった。
外部生は学年の三分の一程度を占めるのだが、クラスの中心となるのは中学から通っている『内部生』のグループで、生徒会などの主要な役割も内部生がとりしきる。外部生は卒業まで
長身のほう、古賀遥は、はじめて会話したその日に尋ねてきた。
――新木さん、下の名前なんていうのー?
悠乃が答えると、遥はふにゃっと笑って言った。
――じゃあ、悠乃ちゃんだねぇー。
それから三人は、なにかと一緒に行動するようになった。
中学時代、おとなしい子たちに混ぜてもらって弁当を食べているときなどは『間借り』している気分だった。
だから新しくできた友達は、悠乃にとって、とても新鮮だったのだ。
「遥……おーい、遥。返事してよ……遥」
悠乃は呼びかけ続ける。
耳に当てたスピーカーからは不気味な海鳴りが聞こえていた。ときおり音が大きくなり、まるで嵐の海にいるような気分になる。
けれど、目を上げると燐太郎がいる。ゆるやかになにごとかを唱え続ける彼の低い声は、意味はわからなくとも、悠乃を少しだけ落ち着かせた。
「早く返事しないと、靴下左右で違うのはいてきたこと、遥のクラスで言いふらすからね」
また海鳴りが大きくなる。悠乃は負けじと声を高めた。
「遥ってば! 戻ってこなかったらお菓子理沙と食べちゃうんだからね! 遥ー!」
波の音の合間に。
かすかに、声が聞こえた。
「……遥!」
ざっ、とノイズが走る。音が明瞭になった。
『悠乃ちゃん!』
◆◇◆
「悠乃ちゃん!」
遥はすがりつくように声を上げた。涙が出そうになった。悠乃の声がたまらなく懐かしい。
「悠乃ちゃん、悠乃ちゃん、あのね、あたし」
『――古賀か?』
突然男の声が聞こえた。驚いたが、この声は聞き憶えがある。しかし誰だったか思い出す前に男が続けた。
『無事かね? いまどこだ』
「ぶ、無事です! ええと、神奈川……だと思います、平見海岸っていう」
『地名はいい。いま、身に危険が迫ってるか? イエスかノーで頼む』
強引な言い方だ。けれどこの通話は悠乃の携帯につながっている。信じるにはそれで足りる。
「いまはノーです。でも、変なメッセージに呼び出されて……電車に乗っちゃって。どの駅にも誰もいないし、変な臭いするし、烏は飛んでるし、気持ち悪い場所ばっかりで……」
『降りられるかね?』
「次が終点、みたいです」
さっきの駅『ひがしひらみ』の駅名標を信じるなら、終点の『ひらみかいがん』は次だ。
『マジか。……よく聞いてくれ。古賀、お前さんは相当まずい状況にいる。変なメッセージに呼び出されたと言ったな? その相手はたぶん、人じゃあない』
普段なら笑うところだろうが、いまの遥にはすとんと腑に落ちた。あのメッセージには不審な点が多すぎる。それになぜ気づかなかったのか、自分でも理解できない。
『どんな手段でもいい、いますぐそこを離れろ』
「でっ、でも……電車動いてるし……」
言いながら、遥はおかしな音が聞こえてきているのに気づいた。
轟々と。どろどろと。地を揺るがすような、低く重い響きが聞こえている。それに連動して電車の車体も揺れているようだった。見回すと、窓の向こうの真っ黒い空で雲が蠢いているのが見える。
不意に、大きく電車が揺れた。
「ひっ……!」『どうした!?』「で、電車が揺れて。なんか、変な音がするんです……!」
音はだんだん大きくなる。電車の揺れも激しくなる。
『飛び降りろ! 取り込まれるぞ!』
『無茶言わないで! 遥が怪我したらどーするんですかっ!』
男の声の後ろで悠乃の声がした。近くにいるのだろう。
遥は顔を上げた。鞄を肩に担ぎ直す。
片手で窓に手をかけた。動かない。一瞬だけ考え、通話をつないだままスマートフォンを鞄へ放り込む。
今度は両手で窓を揺する。やはり動かない。
視線を動かす。車両ドアの脇に吊り下げられたものが目に入った。小型の消化器。
それに飛びついた。外れた。噴出口のほうをつかんで山側の窓に叩きつける。一度。二度。三度。
六度目で硝子に罅が入った。さらに打ちつける。やがて遥が通れるくらいの穴が開いた。
消化器を放り出し、窓の穴に飛び込んだ。耳元で
窓枠を蹴って、遥は中空へ飛び出した。
全身を衝撃が襲う。地面で身体が跳ね、したたかに背を打って呼吸が止まる。
「い、痛った……!」
痛みが収まるまでじっとしていたかったが、渾身の力でもって遥は立ち上がる。幸いにして腕も脚も折れてはいなかった。鞄を探って再びスマートフォンを取り出す。
『――し! もしもし! 遥!』
電話の向こうは切迫した悠乃の声に代わっている。急に黙ってしまったので心配をかけたのだろう。「はい! はい!」遥が答えると、『よかった……』とくぐもった声が聞こえた。
『なにがあったの?』「飛び降りたー!」『ええ!? 大丈夫!?』
「大丈夫だよぅ、どこも折れたりとかしてな……」
途中で絶句したのは、しゃべりながら周囲を見回して目に入ったもののせいだ。
遥の背後。列車の進行方向。
いま遥がいるのは、線路が大きくカーブしている箇所だった。線路は海ぎわの断崖ぎりぎりに湾曲し――
数十メートル先で、巨大な黒い渦に呑み込まれていた。
地表近くから湧き上がった渦は上空の雲とつながり、竜巻のようだ。
さっきまで乗っていた二両編成の列車が黒い渦に潜り込んでいく。
駅、だったのだろうか。黒い竜巻から、かろうじてホームらしきものの端が覗いている。
「なに、あれ……」
竜巻がずるりとほどけ、一部が黒い触手のように伸びてこちらへ向かってきた。
「ひ……!」
『逃げろ! 古賀!』
ふたたびの男の声に指示される前に、遥は駆け出した。線路に添って、来た方へ向かって。
「ひゃ!」
突然脚が引っ張られ、遥は転倒する。見れば足首に黒い触手がからまっていた。いや、掴まれていた。触手の先端は――人の手のかたちをしていた。
「約束だったよね」
その声は、遥の耳のすぐ傍で聞こえた。
『
足首の圧力がゆるんだ。遥は宙をかくように立ち上がる。
そのあとは無我夢中だった。
スマートフォンを片手に握りしめ、遥は走った。ひたすらに、走った。荒れた線路を踏み越え、トンネルをくぐって。
気づいたら、線路が増えていた。
前方にホームがいくつも並行して並んでいる。見憶えのある風景だ。
さっき乗り換えた駅だろう。右手に民家の屋根が並び、その向こうに海が広がっていた。
「ちょっときみ、線路に入っちゃ駄目だよ!」
制服の駅員が駆け寄ってきた。
遥は自分の身体を見下ろす。片方の靴をなくし、手も足も傷だらけ、痣だらけだ。でも、生きている。
涙がこぼれた。
「えっ……ど、どうしたんだい。なにか事故でも!?」
中年の駅員が慌てている。遥は首を横に振った。
「大丈夫です……」
拳で涙をぬぐう。相手が駅員ならば、伝えねばならないことがある。
「あの、あのっ、あたし、そこの線路を通る電車に乗ってたんですけど、電車が竜巻みたいなのに呑み込まれて……!」
「線路? 廃線跡のことかい?」
駅員が首をかしげた。
「……廃線?」
「もう十年近く前になるかな。廃線になって少ししてから土砂崩れがあってねぇ。すぐそこのトンネルから向こうは、行けなくなってるんだけど」
そんな馬鹿な。
遥の頬を、潮風がなぶる。いつの間にか曇り空は晴れ、穏やかな波の音が聞こえた。
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