招潮子 陸

     陸.


 階段を駆け下りた。一階の職員室は、昼休みの終わりを前にして教師たちの出入りが多い。

 廊下の向こうからふたり連れの男性がやってくるのが見えた。片方は化学担当の東城。もう片方、長身の人物に、悠乃は突進する。

「新木……?」

 燐太郎は驚いたようだった。長い前髪の陰で見開かれた、燐太郎の目。いまは色素が薄い以外に格別変わった点はない。が。

 知ったことか。

 たとえ何色をしていようと、瞳孔のかたちがどうであろうと止まる気はない。

 悠乃は息を弾ませたまま、ずっと上にある燐太郎の顔を見上げた。

「――助けてください」

 口に出したとたん、視界がにじんだ。

 燐太郎が困惑したように隣の東城へ顔を向け、東城は燐太郎の肩に手を置いて小声で言う。

「ただことじゃなさそうですよ。ここは二年三組の担任に」

「曲直瀬先生じゃなきゃ駄目なの!」

 悠乃は東城の声を遮って訴えた。頬が熱い。右の手のひらが熱い。

 燐太郎がなにものなのか、そんなことはどうでもいい。だって、いまも遥の身になにか起きているかもしれないのだ。悠乃の知るなかで、こんなに対処できそうな人物は、彼をおいていない。

「遥を助けて、先生」

 目元をぬぐってもう一度言うと、燐太郎はなんともいえない顔をしていた。

 眉尻を下げ、口が半開きになっている。彼は何度か口を開閉したあと、目を伏せた。癖のある髪をわしわしとかきまわし、深くため息をつく。

「……まずは説明していただこうか。話はそれからだ」



     ◆◇◆



 か細い声をあげ、列車が走り出す。

 二両編成の列車に乗客は遥ひとりだった。窓越しにうかがってみたが、前方の車両にも誰もいない。

(貸し切りみたい)

 半ば開いた窓から、生暖かい風とともに潮の匂いが流れ込んでくる。遥は浮き立つ気分のままスマートフォンを取り出して、曇り空の下に広がる紺色の海を撮影した。

 ついでに時間を確認すると、午後一時すぎだ。学校では五時間目が始まっているだろう。着信やメッセージの受信はないようだ。

 線路は海のきわを縫ってゆく。山側に目をやると、一段高くなった位置に民家が並んでいる。どれも木造で小さく、ずいぶんと古そうである。人影は見当たらなかった。

 トンネルをくぐった。抜けたところで列車ががくんと揺れる。連結箇所を乗り越えたのだろうか。そのあとも列車はしばしば小刻みに揺れ、時折大きくかしいだ。

 遥は窓から線路を覗き込む。

(……荒れてるなぁ。あんまり整備とかしてないのかな)

 薄日に照らされた線路は、枕木の隙間に雑草が生えている。なかにはかなり背の高い草もあるようだ。少なくとも東京では見たことのない風景である。これはこれで趣きがあるかもしれない。

 線路は海ぎわから少し離れて、浜辺と防砂林を挟んだ高台をたどっている。黒い影のような民家が、左右に続く。

(空き家ばっかり……?)

 窓硝子が割れている家も多くある。もとの色がわからないほど錆びついた自転車が、雑草で埋まった庭に放置されている。柱が折れているのか、傾いている家もあった。

 次第に不安になってきた。ほんとうにこの列車で合っているのだろうか? 乗る前にたしかめた行き先には『平見海岸』と書いてあったのだが。

 列車が徐々に速度を落とし、やがて軋みとともに停車した。

 車外を見ると駅のようである。吹きさらしのコンクリートのホームに駅名標を立てただけの簡易なつくりだ。錆に著しく侵食された駅の名は、かろうじて『たかすぎ』と読めた。

 ふと遥は気づいた。駅に到着したのに、アナウンスがなにもない。そういえば最初の発車のさいも、路線名や行き先の案内がなかった気がする。そんなことがあるのだろうか。

 遥はメッセージアプリを起動した。

『たかすぎって駅についたよ』『誰もいないしアナウンスとかないんだけど大丈夫かな?』『あってる?』

 返信がきた。

『大丈夫だよ』『駅で待ってるからね』

 そのあいだに列車は弱々しく車体をふるわせ、ふたたび発車していた。

 返信には『了解』と吹き出しのついたスタンプを送っておいたが、置き去りにされる駅の様子が、遥の気持ちにしみのような影を落とした。



     ◆◇◆



 後悔は、昨日の帰宅後にやってきた。

 燐太郎が悠乃の質問攻勢に手を焼いていたのは事実である。異神や異界について詳しいことを教えたくないと思っていたのも事実である。

 けれど、脅すような態度をとる必要はあったのか。

 夢見が悪くて朝から気が立っていたのだ。それが表に出てしまったなら、単なる八つ当たりだ。教師以前に歳上の人間としてどうなのか。

「いかん。いかんぞこれは」

 彼はひとしきり頭を抱えた。その結果ウズメさんの食事を出すのを忘れかけ、爪による制裁を受ける事態に至ったのであった。

 だからさっき、悠乃が飛びついてきたときには驚いた――謝らねばならないと、思っていたから。




 しかし謝罪の機会はまだ与えられそうにない。

 放っておくとどこまでも燐太郎を引っ張っていってしまいそうな悠乃に声をかけてとどめ、移動で空いていた一年生の教室に入った。

 本鈴が鳴っている。五時間目に担当授業がないのはよかったのか悪かったのか。いずれにせよ、悠乃が次の授業に出る気がないのは明らかだ。一緒にいて授業をさぼらせるなど言語道断、連れ出された経緯も含め職員室で待っているだろう叱責を考えれば頭が痛いが、もはやつきあうしかあるまい。

「遥ってのは二年二組の古賀だな。なにがあった? 全部話してもらおう」

 燐太郎は腕組みをして教卓に寄りかかり、半べそから回復した悠乃が、数日前からのできごとを話すのをじっと聞いた。

 彼女の語った話は、奇怪と呼ぶにふさわしかった――少なくとも、異界の関わりを疑う程度には。

「いま、手のほうは?」

 悠乃が燐太郎と比べてふたまわりは小さい手を差し出す。右手のひらには彼女が言ったとおり、目のかたちに似た火傷のような痕が出現して痛々しい。

「なるほど」燐太郎は自分の顎を撫でた。「ふつうの疵じゃあないな」

 確実にわかるだろうが、これ以上悠乃を驚かせるのは気が引けた。

 悠乃の疵が痛みだしたのはこれまでに三度。いずれも古賀遥が関係している。もし遥が異界のものと関わっているとすれば。

常世とこよの気配に、反応してるのか……?)

 悠乃が右手を開きながら、おそるおそる尋ねた。

「これ、治るんでしょうか」

 痛みもさることながら、傷痕が残れば女の子にとっては一大事であろう。しかしそれに対しては燐太郎も「わからん」としか言えなかった。

「ともあれ、考えるのはあとだ。いまは古賀のことだな。電話から変な音がするって?」

「そうです! 波の音がするんです。ざざーんって」

 それはなにを意味するのか。試してみるしかない。

「もう一度かけてみてくれ」「えっ」

 悠乃はびくっと顔を上げた。

「聞かにゃあわからんだろう?」

「こ、怖いです! 先生がかけてください!」

 悠乃がスマートフォンを押しつけてきた。

 花柄のケースを装着したそれに触っていいものか一瞬戸惑ったが、持ち主がいいと言っているのだから構わないのだと思い直す。表示されたままになっていた番号へコールした。

 はじめは、ありふれた呼び出し音が聞こえるだけだった。

 燐太郎は目を閉じる。

 聴覚に意識を集中する。五感が研ぎ澄まされていく。集中が一定の段階を超え、感覚が。その瞬間を、とらえた。幻の雨音が響く。

「ははあ。こいつは……」


 それは、波の音というより海鳴りだった。


 どろどろと轟くような、荒れた海の音だ。もはや呼び出し音は彼方へ消え失せ、海鳴りしか聴こえない。

「……こりゃあたしかに、どうにもだな」

 燐太郎はつぶやいて、尋ねた。

「古賀は海に縁があるのかね? 生まれが海の近くだとか」

「東京生まれだったはず、ですけど……家は海のほうじゃないです」

「ふむ。海に関わるなにかに、どこかで魅入られたかな」

「なにか、って、もしかして」悠乃はうかがうような目をする。

異神アダガミさ」

 悠乃が息を呑む。

 燐太郎はスマートフォンを悠乃に返し、言った。

「そのまま電話をかけ続けてくれ。電話は離れた場と場をつなぐ。古賀がどこにいるにせよ、意味はあるはずだ。呼びかけろ。まどろっこしいが、それしかない」

「呼びかける? 遥は電話に出ないのにですか?」

「前に言っただろう。ことばは口に出せば、現実になるんだよ」

 悠乃はまだ不安げな顔をしていたが、こくりと頷いてふたたびスピーカーを耳に当てる。

「ひええ、なんだかさっきより波の音が大きくなってます!」

「気にせんでよろしい」

「そんなぁ!」

 情けない声を出しつつも、悠乃はスマートフォンを放り出したりはしなかった。空いているほうの手を拳に握り、「よ、よし」とつぶやく。

「……遥」

 細い声で名を呼ぶ。

「遥。どこにいるの? 遥、おーい、遥」

 呼びかける悠乃に向かい合い、燐太郎の唇が旧い詞を紡ぎ出す。

「――ひふみよ、いむなや、こともちろらね、しきる、ゆいつわぬ、そをたはくめか、うおえにさりへて、のます、あせえほれけ」

 波は寄せては返す。抵抗せず、その波に乗るが如く。高く低く、詞が空間を揺らしてゆく。

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