招潮子 伍
伍.
翌日は薄曇りだった。日差しはないが蒸し暑い、梅雨らしい日だ。
一時間目の授業が終わっていつものように廊下へ出ると、少し遅れて理沙が出てきた。理沙はどこか不機嫌そうに言う。
「遥が休みみたいなのよね。風邪でもひいた? ってメッセージ送ったんだけど、既読にならなくて。寝込んだりしてるのかしら」
悠乃はどきりとした。
そのとき、ワンピース姿の三十歳前後の女性が廊下の向こうから現れた。二年二組の担任、
「ねぇ、小野寺さん。古賀さんから今日お休みするとかって、聞いてる?」
悠乃と理沙は顔を見合わせた。
「連絡ないんですか?」
「そうなの。さっきお家に電話したんだけど留守みたいだったから、小野寺さんが知ってたらと思って」
「わたしもなにも聞いてないです」
理沙が言うと弓削は、そう、と言って少女のように頬に手を当てる。「なにかわかったら教えてね」
弓削が去ると、理沙は眉を寄せた。
「遥ってば、サボりってこと? らしくないわね。期末も近いのになにやってるのよ」
世間的にどうなのかは知らないが、白黎学苑の無断欠席率はきわめて低い。もちろん遥も過去に無断欠席をしたことはない。
「どうしちゃったのかな……」
「さぁね。でも、遥、最近おかしかったわよね」
悠乃は得体の知れない不安が、じわじわと胸を侵食するのを感じていた。
昨日の放課後、遥が半透明に見えたことを思い出す。あのあと悠乃も遥へ数度メッセージを送っていたが、返信どころか既読になる様子もない。
「……あの、理沙。遥のことで、気になることがあるんだけど」
「なによ、気になることって」
うまく説明できる自信はない。特に、手のひらに現れた目のこととか。それでもこの不安は、自分だけで抱えておくには重い。
しかし、悠乃が先を続けようとしたところでチャイムが鳴った。
十分間の休み時間はあっという間に終わってしまう。「あとで聞くわ」と言い置いて理沙が背を向け、悠乃も慌ただしく教室へ戻った。
◆◇◆
朝九時すぎの新橋駅は驚くほど混雑していた。
遥は人混みに押されてあちらこちらへふらふらと揺れ、壁際にはじき出されたり押し返されたりした。
(こ、こんなんで、目的地に着けるのかな)
通学路と関係のない駅を通るのは緊張する。まして授業が始まっている時間帯に制服で駅にいたら誰かに注意されるのではないかと、家を出るときは不安だった。けれど実際には、誰も遥などに注意を向けない。足早にゆく大人たちは己の目的地だけを目指し、他人など背景の一部にしか見えていないのだろう。
安心したような、心細いような気分になりながら、遥は人の海を泳ぐ。
遥が登校していないことは、もう学校で問題になっているだろうか。さぼるのが初めてなのでよくわからない。今日は母親は朝から出かけると言っていたから、親にも無断で休んでいるのはしばらくバレないだろう。
(ええと、東海道線だよね)
人の波にはうまく乗れなかったが、どうにか目的のホームにたどりつく。
熱海行きの列車は下り方面。上り方面ほどではないが、この時間はやはり混み合っていた。
通勤客に紛れて電車に乗り込みドアの近くに立つと、ビル群の上の曇り空が目に入る。陰鬱な風景だ。けれどこれから向かう先には、見渡す限りの青が広がっているはずだ。
遥は胸に期待をしのばせ、発車を待った。
◆◇◆
「遥が半透明だった?」
次の休み時間、悠乃と理沙は廊下の壁際で頭を寄せ合っていた。教室移動前のごくわずかな時間である。
「走ってく遥の後ろ姿から、向こうの壁が見えたの」
手のひらに出現した目のような疵のことは伏せた。それも異常事態ではあるが、たぶん本題に関係がない気がするのだ。
「信じられないとは思うんだけど……」
「悠乃にはそう見えたんでしょ? じゃあ、そういうことでいいわよ」
理沙は意外なほどあっさり納得してくれた。逆に悠乃が首をかしげると、理沙は言う。
「そういう話、何度か本で読んだことがあるのよね。わりとあるみたい。ほかにも、いないはずの人の声が聞こえたりとか」
「それってどういう意味なの?」
理沙は腕組みをして、わずかに言いよどむ。
「……その人の、死期が近い場合」「え」
不吉な響きだ。悠乃は思わず理沙の顔をまじまじと見た。理沙も自分の言葉をよくは思っていないのか、目をそらしながら続ける。
「あるのよ。いるはずのない場所に無言で立ってたり、半透明に見えたりした人が、実は亡くなってたなんて体験談が。心霊現象なんてほとんどは人間の感覚の誤作動よ。だけど、第六感としかいえないような意味のある誤作動が起きることもないわけではない。文化圏にかぎらず、世界各地で同様の報告があるのが興味深い点ね」
「わたしの見たのが、それだっていうの?」
不安が解消するどころかふくらんでしまった。理沙は、なだめるように悠乃の腕に触れる。
「本で読んだだけよ。同じ現象だと確信するほどの根拠はないわ」
「でも、遥が」
「風邪で寝込んでて、遥のお母さんが学校に連絡するの忘れて出かけちゃったのかもしれないでしょ」
「……うん」
「それより、次美術でしょ。早く行かないと遅刻するわよ」
悠乃は頷いた。心配だが、いまできることはない。
◆◇◆
横浜駅を過ぎると、電車内は急激にすいた。
遥は四人がけのボックス席の窓際に座り、外を眺めていた。見知らぬ住宅地の風景が流れていく。家の密集具合は都内と大差ないようだ。
遥は鞄のポケットからスマートフォンを取り出した。
メッセージアプリを立ち上げる。とくに新しいメッセージはない。少し考えて、入力した。
『さっき横浜を過ぎたよ!』
東戸塚のマンション群が見えるころ、返信があった。
『もうすぐ会えるね』『待ってる』
なんだか胸の奥が温かくなった気がして、遥は浮かんでしまう笑みを押さえるのに苦労した。不思議な感覚だ。小学生のころ、親切にしてくれたクラス委員の男の子に感じた気持ちに似ていたけれど、もっと甘くて、どこかきゅっとするような感じもある。
遥は慣れない感覚を胸のなかで転がしながら、彼を思った。
昨日あの写真を見つけ出してから、ずっと思い出せなかったのが嘘のように、彼の記憶が溢れ出していた。
――だいじょうぶ?
そう、彼の第一声はそれだった。
家から遠く離れ、東京から来たばかりで地元の子になじめず、浜辺で泣いていた遥に声をかけてくれたのだ。
しばらく家に帰れないのだと言うと、彼は言った。
――そっか。僕と同じだね。
寂しげな微笑が大人みたいで、不思議な人だと思った。彼は遥が泣きやむまでそばにいて、夕日の沈むころ、祖母の家まで送ってくれた。
――あしたも、またあそべる?
遥が尋ねると、彼は嬉しそうに笑った。
「ふへへ」
ついに声が漏れてしまった。慌てて口元を押さえて周囲を見回したが、ほかの乗客が気に留めた様子はない。
遥は真面目くさった表情をつくりなおし、窓の外の風景に視線を戻した。
◆◇◆
悠乃は大急ぎで弁当を食べた。いつも一緒に昼食をとる仲の浅川と坂本が呆れ顔をするのも気にかけず、教室を飛び出す。
隣の教室へ駆け込むと、片隅で理沙がスマートフォンを耳に当てていた。悠乃の姿に気づいて理沙は顔を上げ、外国人のように肩をすくめて首を横に振る。
「遥に電話してたの?」
尋ねると、理沙は視線を落とした。
「そうよ。でも駄目ね」「つながらない?」「つながってるけど、出ないわね」
実は悠乃もさっきの休み時間に試してみたのだが、同じ結果だった。送ったメッセージが既読にならないのも変わりがない。
そのとき前方の引き戸を開けて、担任の弓削が教室に入ってきた。
理沙は慌ててスマートフォンを背中へ隠す。電子機器の電源は放課後まで切っておくのがルールだ。クラス委員である理沙が違反するのは、非常によろしくない。
「小野寺さん、ちょっといいかしら?」「はっ、はい!」
後ろ手にスマートフォンを悠乃へ押しつけ、理沙は担任に呼ばれていった。
ひとり残されるかっこうになった悠乃は、教室と廊下のあいだへ移動しつつ、手のなかの二台の機器を眺める。
懲りずに自分のスマートフォンでメッセージアプリの通話機能を起動して遥のアカウントを呼び出してみたが、やはり呼び出し音が鳴るだけだ。続いて遥の電話番号を表示し、電話をかけてみる。
プルル、プルルという機械的な音が耳を打つ。
(遥……)
取り越し苦労かもしれない。しかし半透明に見えた遥を思い出すと、どうにも落ち着いていられないのだった。耳元では呼び出し音が虚しく鳴り続けている。
(――ん?)
ふと、違和感を持った。その正体がなんなのか、悠乃は思案する。
そこへ理沙が戻ってきた。どうやら電話をかけていたのを見咎められたわけではないらしい。
「いよいよ本格的に行方不明だわ、遥」
理沙の表情は苦い。
「遥の家に連絡がついたらしいんだけど、朝、ふつうに登校したはずだって。また心当たりを訊かれたわ。こっちが知りたいわよ」
「――理沙」悠乃は眉間に皺をよせて言った。「遥って、呼び出し音変えてたよね?」
呼び出し音の変更サービスは多くの
「そういえばそうだったわね。電話なんてたいして使わないのに、物好きだって笑った憶えがあるわ」
「おかしくない?」
さっきからかけている遥への電話では、よくある呼び出し音が鳴っている。
「……変ね」
理沙が今日一番の真顔になった。
焦りに突き動かされるように、悠乃はふたたび遥へコールする。呼び出し音が鳴る。一回、二回、三回……十五回。
「あれ?」
なにか聞こえた。呼び出し音の隙間に。
スピーカーに強く耳をあて、音量を最大にした。やはり、ノイズのようなものが混じっているようだ。
「悠乃、どうかした?」「黙って」
ざざっ、と電波が混線したような音。それが一定間隔で繰り返される。
(なにかに似てる……)
理沙が隣でぶつぶつ言っているが、無視してスピーカーの音に集中する。
ざざっ……ざざっ……ざざっ……ざざっ……ざざっ……
繰り返す――繰り返す――寄せては返す。
「わかった!」
悠乃は声を上げた。
「はぁ? なにが?」
「わかったの! この音がなんの音なのか!」
「なんの話よ?」
そんな音が電話から聞こえる理由がわからない。わからないが、異常な事態が起きているということだけはわかる。
右手のひらが熱い。引き攣れるような痛みがある。
「ちょっと、悠乃! どこ行くの? もうすぐ予鈴鳴るわよ! ていうかわたしの携帯返しなさいよ!」
駆け出しかけた悠乃は数歩戻り、理沙に彼女のスマートフォンを押しつけた。それからまた走り出す。
目指すは本部棟一階。このタイミングなら、きっと捕まえられるはずだ。
◆◇◆
乗り換えるたびに列車は小さくなり、比例して乗客は減った。
これで四回目の乗り換えだ。跨線橋を渡って狭いホームに降り立つと、潮の匂いが鼻孔に満ちる。
(ここ……憶えてる!)
遥は鼓動が一段階速くなるのを感じた。
見通せば、線路は海沿いぎりぎりに敷設されている。防砂林や岩場のあいだを通って進む線路は、たしかに記憶のなかにあった。
軽い電子音が聞こえた。
『もうすぐだね』
メッセージが告げる。遥は嬉しくて『うん!』とハートマークつきで返信した。
弾む足取りで、ホームに停車していた列車に近づく。都内ではまずお目にかからない、二両編成の古い列車だ。
と、向かい側から腰の曲がった老人がひとりやってきた。老人は遥に目を留め、不思議そうに眼鏡を直す。
このへんでは見かけない制服だからだろうか。気にせずすれ違ったところで。
「……お嬢さん。どこへ行くんだね?」
地元の住民らしい、ラフな服装の老人だ。遥は元気よく答えた。
「平見海岸までです!」
行き先の地名を告げるのすらなんだか嬉しい。すっかり浮かれていた遥は、老人の顔に浮かんだ疑念の意味を、深く考える気にもならなかった。
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