招潮子 肆

     肆.


 ――指輪のありかをぴたりと言い当てられましてねぇ。驚きました。

 ――古道具市で買ったお皿が悪さしてると言われて。半信半疑だったけど、手放したら、不運続きがおさまったのよ。

 知らない、けれどいつか聞いたはずの大人の声がする。

 ――さすがは雨降りの巫女さま。妙子たえこさんの再来ですよ。血は争えないな。

 拝殿の木戸の、細い隙間から。

 こちらへ背を向けて正座するのは、白衣はくえ緋袴ひばかまの少女だ。細いうなじが、つややかなおかっぱ頭から覗く。

 向かい合う大人が身振りをまじえてなにかを説明している。少女は頷いたようだった。


 場面が変わる。いまよりいくぶん小綺麗な、これは社務所の座敷だ。

 ――まだ子どもなんだ。無理はさせんでいただきたい。

 祖父、曲直瀬義臣の声だ。晩年ではなく、堂々と背筋を伸ばして周囲を睥睨していたころの。

 よく見えないが、祖父は何人かの集団を前に話をしているようだった。

 ――わたしは平気よ。困ってる人の助けになるならいいじゃない!

 弾むような少女の声。銀鈴の響き。

 胸が痛い。


 空っぽの布団。枕元に残された小太刀。揃えられた雪駄。

 縁側から目が痛くなるような夏空が見えた。

 ――おまえが……まさか、どうしてなんだ、燐太郎。

 じりじりと待つだけの時間が無為に過ぎ、祖父の背は日に日に小さくなった。


 鳥居の向こう、夕日ににじむ町を背に、ほっそりした影が振り向く。

 十代終わりごろの姿だ。最後に見たときと同じ。緋色の袴。白い着物の合わせ目に、しずく型の透明な石が光る。

 顎の長さで切った髪を夕風がなぶった。瞳が悪戯っぽく輝いている。花びらのような唇が開いて、名を呼ぶ。

 ――燐。

 ――ねえ燐。もしわたしになにかあったら、燐がこの神社を護るのよ。




しずく


 自分の声で目が覚めた。

 見慣れた木の天井は北側の四畳半、自室のものだ。

 燐太郎は、天井を見つめたまま浅い呼吸を繰り返した。心臓が激しく打っている。

 枕の横で覗き込むのは三毛猫のウズメさんだ。ふてぶてしい顔が、心なしか心配そうに見える。

 雨戸の隙間から細い光が差し込んでいる。ふたつの目覚まし時計と充電中のスマートフォンはいずれも五時二十三分、起床時間の七分前を示していた。

 身体を起こすとTシャツが冷えた汗ではりつく。布団から這い出し、文机の上の灰皿を引き寄せる。

 煙草に火をつけるまでに燐寸マッチを二本無駄にした。

 肺のなかを煙で満たして、燐太郎はようやく自身の居所を思い出した。

「……畜生。なんてひどい目覚めだ」

 ゆるい癖のある髪をかきまわす。

 嫌な夢を見た。原因は明白である。昨日の放課後に東城から聞いた話のせいだ。

 七年経っても記憶は少しも薄れてはくれない。わかっている。

 あれは、己の罪だ。

 燐太郎は煙草を灰皿に押しつける。とにかく歯を磨いて、ねばつく口のなかをどうにかしたい。それから潔斎がわりのシャワーを浴びて、浅葱袴に着替えて、拝殿へ御饌みけを持っていく。

 長年繰り返してきた朝の勤め。せめてそれを変わらず果たすことが、自分に残された義務だ。

 燐太郎は立ち上がった。巨大な三毛猫があとに続いた。



     ◆◇◆



 雨のそぼ降る木曜日、六時間目の終了を告げるチャイムが鳴る。とたんに教室がざわめきで満たされるのは、お嬢さま学校たる白黎学苑とて常と変わりない。

 悠乃は席で伸びをした。荷物をまとめて鞄を肩にかけながら、これからの算段を考える。

 図書館へ行くか、東洋文化研究会の部室に行くか、燐太郎を探すか。

 あれから右手の異常は起きていない。時間が経つにつれ、気のせいだったのではないかという疑いが徐々に大きくなっていた。わざわざ燐太郎に尋ねるほどのことではないような気もする。

 予定を決めきれぬまま生徒が行き交う廊下へ出ると、ちょうど古賀遥が隣の教室から出てきたところだった。

「あ、遥」

「……悠乃ちゃん」

 悠乃は小さく首をかしげる。遥の雰囲気が違う。具体的にはっきりとはいえないが、焦っているように見える。普段はのんびりすぎるほどのんびりしているのだが。

「悠乃ちゃん、あのね、今日ね、あたし部活行かないから」

 遥は無理につくったような笑みを浮かべた。これも彼女らしくない。

「え? う、うん?」「また明日ねー!」

 遥は悠乃の肩にぽんと触れてから、背を向けて廊下を駆け出していく。

 体育がおそろしく苦手な遥は走りかたに特徴がある。重心がゆらゆら左右に揺れるその背を、悠乃は釈然としない気持ちで眺めた。

 突然、右手のひらに痛みが走った。

「あつっ……!」

 昨日と同じ熱さを伴う痛み。右手を見、悠乃はぎょっとする。

(なに、これ)

 浮かび上がった火傷のような疵。

 両端が尖った横長の楕円形、その中心が、ぷくりと半球状に盛り上がっている。全体の形状は――

 思わずひっと声を上げそうになった。

 右手が、悠乃の意思によらず自然に持ち上がっていく。手のひらを前に向けて、かざすように。

 手に生まれた異形の目が見つめる先を、視線で追う。

 悠乃は自らの目を疑った。

 廊下の壁は白い漆喰だが、腰くらいの高さまで飴色の板が張ってある。その継ぎ目が、走り去る遥のセーラー服の背中の向こうに見えているのだ。


 


 廊下にいる生徒のなかで遥だけが、蜃気楼のように半透明だった。

「……うそ」

 事態を理解する前に、遥の背中は廊下を曲がって消えた。

 と同時に、手のひらの痛みが消えていく。もう一度右手を確認すると、目に似た痕はきれいになくなっていた。

 悠乃はしばらくその場に立ち尽くした。反対側から連れ立って歩いてきた生徒が、迷惑そうに脇へよける。

 それで我に返った。

 走り出す。廊下の角を折れる。いない。昇降口まで行って二年二組の下駄箱を確認すると、遥の外履きはすでになかった。

 外は雨が降っている。悠乃は少しだけ迷い、スマートフォンを取り出した。遥へ『大丈夫?』とメッセージを送る。

 少し待ってみたが、返信がないどころか既読にもならない。嫌な予感がする。

 悠乃は踵を返し、校舎へ取って返した。




 雨が降っていたのは好都合だったかもしれない。

 本部棟の四階へ上がる。職員室で教えてもらったとおり、生徒が誰もいなくなった三年一組の教室に、彼はいた。

 蛍光灯を消した室内は薄暗い。雨が庇をたたく音が、やけに耳についた。

「曲直瀬先生」

 声をかけると、脚立の上で天井を拭いていた燐太郎が振り向く。

「……新木」

 彼は悠乃の姿をみとめて視線を何度か左右にさまよわせたが、逃亡を試みるには脚立やらバケツやらが邪魔だ。あきらめたように小さく息をついて、脚立から下りてくる。

 悠乃は、燐太郎がこちらへ向き直るのをじっと見守った。

 燐太郎は眉間のあたりに警戒の色を浮かべていたが、無言の悠乃になにか感じ取ったのか。

「どうか、したのかね?」

 問いかける声は、思いがけず穏やかだった。それを耳にしたとたん、どういうわけだか目頭に熱を感じたが、力を入れてこらえる。

「……あの、わたし」

 なにから説明すればいいのだろう。

 手のひらに出現した目のような疵は、いまは消えている。遥が透けて見えたのも、気のせいかもしれない。

 漠然とした不安だけが悠乃のなかにあった。なぜ彼に頼ろうと思ったのか、その根拠もあやふやだ。

 薄暗い教室へ踏み出し、伝えるべき言葉に迷ったまま口を開いた。


「先生。異神アダガミの――」


 悠乃は失敗を悟った。

 その言葉を口にした瞬間、気配が変わったのだ。雨で湿った重苦しい教室の空気が指向性を帯び、いっせいに悠乃へ敵意を向ける。

 刺々しい拒絶。その中心に、燐太郎がいた。

「……っ」

 初めて会った日に踏んづけて以来、苛立たせたことも叱られたことも何度もあるが、こんな燐太郎ははじめてだ。

 約三十センチの身長差に威圧される。

 精悍な顔立ちから表情が消え去り、冷えきった目が悠乃を見下ろしていた。

 窓を背負った陰のなか、長すぎる前髪の下で、ふたつの瞳が光る。銀色の虹彩、縦に切れた瞳孔――もちろん錯覚だ。錯覚のはずだ。だが。

 思わず一歩下がる。怖い、と思った。

 悠乃のなかに疑問がわきあがる。いま気づいたのか、考えないようにしていたのか。

 四月のあの日、異界としか言いようのない桜の林で、どうやってここに入ったのかと燐太郎は尋ねた。それなら、

「新木」

 背筋がぞくりとした。低くかすれた声は乾いて、枯れ葉がこすれあうようだ。

「――憶えておいてくれ。俺は、その話はしたくない」

 ごめんなさい、と声に出せたかどうかもよくわからない。

 悠乃はさらに数歩後ずさるとぺこりと頭を下げ、それから廊下を走って逃げ出した。



     ◆◇◆



 帰宅した遥は、自室に向かわずまっすぐリビングに入った。

「ただいまー!」

「あら、遥ちゃん。今日は早いのね。部活は?」

 キッチンで棚の整理をしていた母親が、少し驚いたように言った。先週十歳になった妹のしおりはピアノのレッスンに行っているはずで、家のなかは静かだ。

 母親に適当に返事をしてリビングの飾り棚を開ける。そこには、分厚い大型本が二十冊近くもつまっていた。両親が冗談半分に「古賀家歴史書」と呼んでいるアルバム群である。

(十年前……このへん?)

 あたりをつけて三冊を抜き出す。

「制服着替えなさいよね、皺になるでしょう」「うん、あとでー」

 鞄をソファに放り出したまま、遥は作業に取りかかった。

 アルバムに貼りつけられた写真を、一枚ずつ丹念に見ていく。十年前のアルバムは父がデジカメで撮った家族写真をプリントアウトしたものが多いが、父が所属する経営者団体の集合写真や、遥が幼稚園で撮ってもらった運動会の写真などもある。

 ある段階から、大きな腹をした若い母の写真が増えてくる。栞を妊娠しているときであろう。一方、遥の姿は写真から消えている。

(近い?)

 けれど、めくってもめくっても目的の写真は現れない。赤ん坊の栞が写真に登場し、やがて、ノースリーブのワンピースを着た小さな遥が写真に戻ってきた。栞を囲んで、両親と遥、それから亡くなった祖母が笑っている。

(帰ってきちゃってる……この時期のはずなのに)

 遥は親指の爪を噛む。

「遥ちゃんったら。帰ったら着替える、鞄はお部屋に置く! ものぐさはお父さんに似たのね」

「ねー、お母さん。おばあちゃんの家って、どこにあったんだっけー?」

 遥の横のローテーブルにジュースを置く母親に尋ねた。

「神奈川よ。逗子のちょっと先。平見海岸ってところ」

「あたし、そこに預けられてたんだよねー? 十年前」

 十年前、という言葉を口にするのに少しだけ緊張した。

「ええ、そう。栞ちゃんが生まれるときだから、ちょうど十年ね。あの家もなくなっちゃったけど」

 夜ごとに届く例のメッセージについて、遥はひとつの仮説に至っていた。

 遥の『約束っていつ?』という問いに対する返事は『十年前』。

 十年前に身の回りで起きたもっとも大きな事件といえば、栞が生まれたことだ。

 メッセージは『今日は海がきれいだった』とも言った。栞の出産に際して遥が預けられた祖母の家は、海辺の町にあった。

 ならば『約束』がなされたのは、祖母の家に行っていた時期ではないかと踏んだのだが。

「お父さんが迎えに行ったら、日焼けしてて誰だかわかんなかったって笑ってたわ。地元の子に混ざって走り回ってたんですってね」

 遥は曖昧に頷く。雨の少ない空梅雨からつゆの年だった。泳ぐには早い時期だったが、海辺の町で見知らぬ子たちの仲間に入れてもらって、毎日遊んでいた。それは憶えている。しかし、問題の『約束』につながる記憶はない。

「その、平見海岸の写真はないのー?」

「もしかしてそれを探してたの?」母親は眉根を寄せた。

「ないんじゃないかしら。おじいちゃんはもう亡くなってたし、おばあちゃんはあんまりカメラ触らなかったから。撮ってたとすれば、送ってくれてる可能性はあるけど……でも、どうして?」

 母親に不審なメッセージの話などするわけにはいかない。心配して大騒ぎをするだろう。

「なんでもない。ちょっと気になっただけー」

 遥は笑顔をつくり、アルバムを閉じて「着替えてくる」と言った。

「そう? ならいいけど。ちゃんと歴史書戻しといてね」

 母親は空になったグラスを回収し、キッチンへ去っていく。

 遥はため息をついた。授業中、この可能性に思い当たったときは確認せねばならない気になっていたのだが、結局なんの確証も得られなかった。いい加減、メッセージに囚われるのはやめるべきだろう。

 遥は分厚いアルバム三冊を重ねて持ち上げる。

「よいしょっ、と」

 そのときひらりと、なにかが落ちた。

 写真だ。貼らずに挟んであったのだろうか。遥はアルバムを一度ローテーブルに置き、絨毯に落ちたそれを拾い上げた。

「……!」

 息を呑む。

 写真の大半を青が占めていた。

 上半分は薄青の空、半ばから下が紺碧の海。

 海沿いの道だろうか。白いガードレールが海を真横に切り裂いている。その手前に子どもが、ふたり。

 ピースサインを出して元気に笑う女の子は、六歳の遥だ。

 その隣に立っている少年。年頃は遥と同じくらい。肌が白い。大人びた微笑を浮かべ、両手をうしろに回してたたずんでいる。

「あ……」

 遥の目のなかに一面の青が広がった。太陽。潮騒。生臭くて透き通った、海の匂い。




 ――あんまりとおくへいくと、おばあちゃんにおこられるよ。

 脱げかけたサンダルを押さえながら言う。少し先を行く少年が答えた。

 ――もうすぐだよ。

 夏は海水浴場になる浜辺のはずれは、岩場になっていた。浜と港のあいだを埋める岩場は海へ大きく張り出し、ときおり釣り人の姿も見られる。遥はでこぼこの岩場を、ときには両手も使って必死に辿った。足元で小さな蟹が蠢いている。

 立ち止まったのは、ほとんど岩場の突端だった。目前に、深い青の太平洋が広がっている。

 ――あったよ、はるかちゃん。見て。

 少年が岩場の一箇所を指し示している。

 近づくと、くろぐろとした岩の隙間に水がたまって、全長二センチほどの魚が泳いでいた。

 ――おさかな!

 遥が目を輝かせると、少年も嬉しそうに笑う。

 ――潮溜まりっていうんだ。満ち潮のとき、ここは海のなかなんだよ。潮が引くときに魚や蟹が置いていかれることがあって、こうして岩場のあいだに残ってる。

 それを聞いて、遥は悲しい気持ちになった。

 ――おいてかれちゃったの? かわいそう。

 そう言うと少年は少し驚いた顔をしたあと、とてもきれいな笑顔をみせた。

 ――はるかちゃんは、やさしいね。




 早めに風呂に入って、二十二時を待った。

 軽い電子音。

『はるかちゃん』『約束思い出した?』

 もう迷わなかった。

『思い出したよ』

 すぐに返信がある。

『そう』『きっと思い出すと思ってたよ』

 それに続くメッセージの内容を、遥は知っていたような気がする。


『約束の日がくるよ』


『わかった』

 そう入力して、ついでに犬がハートを飛ばしているスタンプもつけた。

 遥は満足した気持ちで、六日前からの一連のメッセージを眺める。ずっと引っかかっていた約束を思い出すことができたのだ。つい顔が笑ってしまう。

「はー、よかった!」

 心から思った。

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