招潮子 参

     参.


 翌日は久々に晴れた。

 二時間目を前に、陽光差し込む教室で悠乃は自分の鞄をあさっていた。

「あれ……あれ? あれれ?」

「どうしたの、新木さん」

 隣の席の浅川が尋ねる。悠乃は困惑した笑いを浮かべた。

「英語の教科書、忘れちゃったかも」

「あら。見せてあげてもいいけど、和田先生、忘れ物に厳しいわよ」

「大丈夫。二組の友達に借りてくるよ、ありがとう」

 悠乃は廊下へ出た。隣のクラスを覗く。理沙の姿はない。教室の後ろのほうでほかの生徒としゃべっていた遥が、悠乃に気づいた。

「悠乃ちゃんだーっ。理沙ちゃん探してるのー?」

 遥は長身に似合わぬぱたぱたという足音をたてて寄ってくる。

「実は英語の教科書忘れちゃって。借りてもいい?」

「いいよぉ。取ってくるから、待っててねー」

 昨日の放課後は様子のおかしかった遥だが、いま見る限りいつも通りのようである。少し気になっていた悠乃はほっとした。

 遥が教科書を持って戻ってくる。

「はい、どーぞ」

「ありがとう! 授業終わったら返しに……」

 教科書が床に落ちた。

 悠乃はよろめく。右手を、逆の手で押さえて。

「痛っ……ていうか熱っ!?」

「え? え? 悠乃ちゃん、どうしたの!?」遥がおろおろと両手を泳がす。

 右手のひらに引き攣れるような痛み。

 子どものころ、好奇心にかられてコンロにかかった薬缶やかんに触ってしまったときの感覚に似ていた。慌てて手のひらを見れば中心が赤く腫れている。両端の尖った横長の楕円のかたちに表面の皮膚がめくれ、痛々しい艶を晒す。

 しかし。

「あ……れ?」

 火傷のようなきずは、見る間に消え去った。

「……悠乃ちゃん、大丈夫? 痛いの?」

 遥がおそるおそる覗き込んでくる。そのときには、悠乃の手はもとの白い肌に戻っていた。痛みもなくなったようだ。

 悠乃は何度かまばたきをし、首をかしげる。

「痛かったんだけど、なんか治った……みたい」

 悠乃は落ちた教科書を拾い、不安げな遥に笑ってみせた。

「ごめん、落としちゃった。授業終わったらちゃんと返しにくるから」

「う、うん。それはいいんだけど……ほんとに大丈夫?」

「大丈夫、だと思う」

 チャイムが鳴った。悠乃は遥への礼もそこそこに自分の教室へ走って戻る。

 席につくと同時に英語教師の和田が入ってきて、授業が始まった。

(さっきの、なんだったんだろ?)

 シャープペンシルを持つ右手を見る。

 痛みも、赤い痕も、跡形もない。

 ――右手。

 飴色の窓枠越しに外へ目をやった。桜の木はすっかり緑色で、豊かな葉を六月の風に揺らしている。

 その様子に、薄紅のもやのような花の姿が重なる。

 四月のあの日。果ての見えぬ桜の林で悠乃は怪異に出会った。薄紅のワンピースの少女、鈴のをつれた奇怪な行列、地を奔る泥。

 ――あんたが持ってきちまったもんを返せ。

 かすれ気味の低い声が言う。

 悠乃はあのとき「お返しします」と言った。それに応えて襲ってきた泥は悠乃の右手に突き刺さり、奇妙な幻を見せたのだ。

 全身を蹂躙された感覚を思い出し、悠乃は小さく身震いする。

 もう一度、右手のひらを見た。

(曲直瀬先生に訊けば、なにかわかる?)

 あの日、この世ならざる桜の林にいた燐太郎。

 気のせいかもしれない。しかしさっきの痛みはふつうではなかった。根拠はない。けれど、もしあの桜の林に連なるだとしたら――燐太郎が、痛みの正体を知っている可能性はあるのではないか。

(今日は見つけられるかなぁ)

 昨日の放課後は燐太郎を西棟付近で見失った。西棟廊下のドアは施錠されているから、あれも不思議といえば不思議である。

「どこ行っちゃったんだろう……」

「――なにがですか?」

 すぐそばで女性の声がした。

 顔を上げると、英語教師の和田がいた。両腰に手を当て、冷ややかな目で悠乃を見下ろしている。

「わたくしは、新木さんの興味がどこへ行ってしまっているのか気になるのですが。お聞かせいただけますか?」

 教室にくすくす笑いが起きる。悠乃は言い訳を探し、頭脳を高速で回転させ始めた。



     ◆◇◆



 燐太郎は穏やかな心持ちで目を細める。珈琲の香りは格別だ。たとえインスタントであっても。

「今日も曲直瀬先生が遊びに来てくれて嬉しいなぁ」

 東城伊織は上機嫌に見えた。燐太郎も愛想笑いを返す。

 昨日、化学準備室を辞すとき、東城は「また来てください」と言った。てっきり社交辞令と思っていたのだが、さきほど白衣をひるがえして職員室に現れた彼は、燐太郎の肩に手を置くなり「珈琲飲みに来ませんか」といささか強引に誘ったのであった。

「この部屋、辺境じゃないですか。寂しかったんですよねぇ。話し相手がいるっていいなぁ」

「俺なんぞと話して楽しいもんですかね。お邪魔じゃあないんですか?」

 ともあれ、この化学準備室は悪くない。なにしろ西棟の一番奥にある。東城の言うとおりの辺境だ。新木悠乃からの逃亡を続けている燐太郎にとって絶好の隠れ家ともいえる。不満といえば煙草が吸えないことだけである。

 部活にいそしむ生徒たちの声や足音が、扉と廊下を隔ててこだまのように聞こえている。

 東城は破顔した。

「邪魔なら誘いませんよぉ! ちょうど休憩にしようと思ってたんです。曲直瀬先生、思った通りおもしろいし」

「おもしろい……ですかね」

 デスクの上には生徒の実験結果らしき提出物が積んである。あらかた赤ペンが入っているようだったので、休憩というのは嘘ではないのだろう。

 しかし燐太郎は別段話題が豊富なわけではない。昨日ここで話したことといえば、幸先通り商店街の喫茶店や古本屋やラーメン屋のことばかり。いったいなにがお気に召したのか、奇矯な人物もいたものである。

 薬匙に山盛りにした砂糖をたっぷり二杯ぶんマグカップへ投入しながら、東城が言った。

「曲直瀬先生は、いつも帰り早いですよねぇ。おかげであんまり話す機会がなくて」

 教師は長時間労働である。私立高の白黎学苑はましなほうだが、授業開始前に登校して朝会と授業準備、授業後も部活の顧問やら生徒指導、見回りなどの業務が分担され、会議も頻繁に入る。採点などの作業は持ち帰りにせざるを得ないことも多い。

 しかし燐太郎は、白黎学苑においてそのいくばくかを免れていた。

「そういうお約束なんです」ブラックの珈琲を手に燐太郎は答える。「家業があるもんですから」

「家業? やっぱり幸先通りの? 道理で商店街に詳しいと思いましたよ。どちらのお店なんですか?」

 矢継ぎ早に尋ねてくる東城の勢いについ苦笑した。

「店じゃあなくて……神社です。都電脇の」

 東城の目が丸く見開かれる。

「知ってます知ってます! あちらがご実家なんですか? すごいなぁ! するとえーと、住職さん……はお寺か」

「宮司です。継いだだけで大したことはしとらんもんで、先祖に申し訳ないような状態ですがね」

「それでもすごいですよ! 僕より若いのになぁ、えらいなぁ」

 感心したように東城はしきりに頷き、珈琲をすする。

「――昨日もお話ししましたけど、僕、この町の雰囲気が好きなんですよねぇ」

 それは聞いた。彼は学生時代に幸先町に住んでおり、卒業後しばらくは都内の別の学校にいたが、幸先町が好きで白黎学苑に勤めることにしたのだという。やはり奇特というべきだろう。

「学生のころは目的もなく散歩しまくったりして。曲直瀬先生の神社にも何度か行きました。『雨降り神社』ですよね」

「そう呼ぶ人もいますな」

 東城はうんうんと頷き、問うた。

「じゃあ、雨降りの巫女さんとは、どういうご関係なんですか?」


 呼吸が、止まった。


 口の中に乾きを感じた。

 珈琲をあおる。熱い。苦味だけが残った。

「……姉です」

 声のわずかな震えには気づかれなかったようで、東城は嬉しげに両手をあわせている。

「そうなんですか! わー、不思議なご縁だなぁ。もう十年くらい前になりますけど、よく見かけていました。少しだけお話ししたこともある。赤い袴が似合ってて、可愛かったですねぇ。いまでもその、占いとかされてるんですか?」

 感情を籠めずに答えた。

「姉は――もうおりません。うちも占いやら失せ物探しやらをお受けするのはやめました。いまは、ただの町の神社ですよ」

 それを聞いた東城の眉が、八の字を描く。

「そうですか……何百年も受け継がれている大事なお役目なんだって巫女さんは言ってましたけど。歴史が途切れてしまうのは、寂しいですねぇ」

 過去の言葉を東城がなぞるのに耳を塞ぎたくなったが、どうにか耐えた。代わりにこれまで繰り返してきた説明を口にする。

「時代の流れってもんでしょう。もはや神憑かみがかりを期待する人も、多くはありませんので。少なくとも俺は、町の片隅でひっそりやってるのが性に合ってますよ」

 東城が、もう一度残念そうに「そうですか」と言う。

 燐太郎は、話を終わらせる方法だけを考え続けていた。



     ◆◇◆



 ベッドの上でスマートフォンを眺める。

 まもなく二十二時になる。今夜もメッセージは来るのだろうか。きっと来るだろう。

 小さな電子音。来た。

『約束思い出したかな?』

 肝心なことは、なにも教えてくれないメッセージだ。まるで儀式のようだと思いながら、遥は返信を入力した。

『約束っていつのこと?』

 さらなる返信は、五分も経たずに届く。

『十年前』直後に追加のメッセージ。『海が荒れてた日だよ』

 ――海が、荒れていた日。

 曇天。唸る風。海鳴り。差し出された白い手。

「う……」

 頭痛がする。遥はスマートフォンを放り出し、布団を頭からかぶった。

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