招潮子 弐

     弐.


「助かりました。ありがとうございます」

 燐太郎は丸椅子に座ったまま頭を下げ、最近新調した扇子で顔を扇いだ。

「どういたしまして。お困りのようだったので」

 デスクの前で微笑むのは、化学教師の東城とうじょう伊織いおりだ。

 薬品棚に囲まれた化学準備室は男ふたりを収容すると狭いが、緊急避難場所に文句は言えない。

 東城は白黎学苑の男性教師の中で燐太郎ともっとも年齢が近い。それでも六、七歳は上のはずだが、二十代で通用する風貌だ。ノーネクタイでピンクのワイシャツに白衣を羽織った彼は、童顔でどこか小動物めいた雰囲気がある。

「さっきの、二年三組の新木さんですよね。熱烈だなぁ。曲直瀬先生はモテるんですねぇ」

 さも感心したように東城が言う。燐太郎は「いや、モテてるというわけでは」と言いかけ、口をつぐんだ。悠乃が燐太郎を追いかけ回す理由は明白なのだが、説明するのは憚られる。

(なーんで忘れてくれないかねぇ……)

 燐太郎はひとりため息をついた。

 人の記憶には自浄作用がある。常識と合致しない異様な記憶は、強引にでも前後のつじつまをあわせて「なかったこと」にしてしまう。

現世うつしよことわりを守るための作用だろう、と爺さんは言ってたが)

 悠乃が燐太郎と出会うきっかけになった四月のできごとは、充分に異様だった。本来なら忘却による防衛作用が働いてしかるべきなのに、なぜか悠乃はあの日のことを憶えているようなのだ。その理由がわからない。

「……僕は、曲直瀬先生が逃げたのは間違ってないと思います」

 燐太郎が考え込んでいるのを別の意味に取ったのか、東城は笑みを引っ込めて言う。

「生徒は贔屓や特別扱いにすごく敏感ですからね。下手を打つと、お互いに傷が残ったりします。仲良くなることより適切な距離を維持することのほうが大事だと思いますよ」

 誤解がある気がするが、先輩のありがたい言葉である。「肝に銘じます」と神妙に燐太郎は頷いた。

 燐太郎の反応に満足したように、東城はまた笑う。よく笑う男だ。

「曲直瀬先生、珈琲飲みます? インスタントですけど」

「ありがとうございます。ご相伴にあずかります」

 電気ポットのスイッチを入れた東城が、不意に燐太郎を覗き込んできた。

「……あの、東城先生、なにか?」

 顔が近い。なんなのだこの距離は。

 燐太郎の戸惑いをよそに、東城はにまっと口角を上げる。

「ふふふ。僕ね、曲直瀬先生と話したかったんですよ。曲直瀬先生のおかげで僕が雨漏り対応班を卒業できましたからね、感謝してるんです。貴重な男子同士、仲良くしましょう」

 わざわざ「仲良くしましょう」などと言ってくる人間は珍しい。いい年をして「男子」というのもどうかと思う。やはり少しばかり調子の狂う相手だ。

 とはいえ白黎学苑の教師は七割方が女性で、三割の男性のうち四十歳未満は数人しかいない。要は、東城は燐太郎を歓迎してくれているということだろう。

 そう解釈することにして「こちらこそ」と言うと、東城は若々しい目元に細かな皺をよせて笑った。

 電気ポットから湯気が立つ。

「お困りのこととかあったらなんでも聞いてくださいね! 僕もまだまだ修行中なのでわかんないこといっぱいありますけど、曲直瀬先生のためならがんばって答えちゃいます」

 東城がマグカップを差し出しながら言う。またしても燐太郎は反応に困り、「はぁ、どうも」などと言う羽目になった。

 少し焦げくさい珈琲の匂いが、化学準備室に香った。



     ◆◇◆



 古賀遥の家は幸先町から山手線と京成線を乗り継ぎ、隅田川と荒川を渡った先の葛飾区にある。ほとんど住宅しかないエリアだ。短い商店街を囲んで密集する家並みの上に、静かな夜が下りている。

 ぬいぐるみに囲まれた自室のベッドに寝転がって、遥はスマートフォンの画面を見ていた。

 立ち上げているのはメッセージアプリだ。ある人物からの、一連のメッセージ。

 遥は指先でスクロールして、最初のメッセージを表示する。

『はるかちゃん』

 メッセージはそこから始まっていた。受信日時は四日前、土曜の夜。

『久しぶりだね』『僕のことおぼえてる?』

 自室で漫画を読んでいた遥は、受信したメッセージを見て首をひねった。

 本来なら送信者のアカウントに設定された名前が表示されるはずのスペースは、空白になっていた。アイコンの写真もない。

 悪戯だろうと無視せずに『だれ?』と返したのは、名前を呼びかけられたからだ。遥のアカウントは『Hal1017』で、名前は出していない。アイコンも犬のキャラクターのイラストを使っている。

 しばらくして送られてきたのは、こんなメッセージだ。

『思い出して』

 ノーヒントでそんなことを言われても困る。遥は『わかんないよ』と送った。

 相手の返事は不可解だった。

『大丈夫』『きっと思い出すから』

 遥は少し怖くなった。相手の正体も、意図もわからない。そのまま放っておくことにした。

 次にメッセージが来たのは翌晩だった。前の日と同じ二十二時すぎ。

『はるかちゃん』『僕のこと思い出した?』少し間があって『今日は海がきれいだったよ』

 海とはどういうことだろう。ヒントのつもりなのだろうか。

「僕」と言っているからには男性のような気がするが、遥の男性の知り合いは少ない。従兄も小学校からの親友の弟も、こんなメッセージを送ってくる必要がない。

 遥は『だれなの?』と送った。しかし相手の答えは『まだ思い出せないかな?』

 これでは埒が明かない。向こうは遥のことを知っているのかもしれないが、まともに会話ができないなら悪戯と同じだ。

 そう思ったのだが、次の夜、つまり昨夜もメッセージは来た。前日、前々日と同じく『はるかちゃん』と呼びかけから始まるメッセージが。


『もうすぐ約束の日だね』


 遥は眉根を寄せた。気になるメッセージだ。

 だいぶ迷って、返信はやめた。相手の思惑に乗るようで癪だったのもあるし、これ以上相手をするのはよくないように思えた。




 返信をしなかったことで、かえって引っかかりができてしまったのだろうか。

(約束ってなんだろう?)

 翌日学校に行っても、それがずっと頭につきまとっていた。休み時間のたびにメッセージを見てしまう。

「古賀さん。校内では携帯電話の電源を切ること。改めないようなら没収します」

「はわっ! ごめんなさい!」

 教室移動中に教師に注意され、遥はぺこぺこと頭を下げた。

 白黎学苑も生徒の所持する情報機器の取り扱いには苦慮していたが、いまのところ授業時間内は電源を切る、というルールで落ち着いている。

 一緒に廊下を歩いていた理沙が囁きかけてくる。

「遥ってば、気をつけなさいよ。没収は脅しじゃないんだから。去年、坂口さんたちが三人まとめて携帯取られたの憶えてるでしょう」

 遥は素直に頷いた。

(うー、だめだなぁ……)

 気になって学校でもぼんやりしがちとなれば、謎のメッセージを送ってきた相手の思う壺だろう。

 理沙が続けて尋ねる。

「誰かからの連絡でも待ってるわけ?」「え」

 とっさに答えることができなかった。

 待っている? そんなはずはない。けれど。

 口ごもった遥の様子になにを思ったのか、理沙は不意に黙った。

「……あー、そう。そういうわけ。なるほどね」

 理沙は勝手に納得している。その顔を見て遥は気づき、慌てた。

「あ、違うの理沙ちゃん、そういうのじゃなくて」

「無理に話さなくていいわよ。でもほどほどにしなさいね」

 わかったような顔で理沙は手をひらひら振る。遥はなんだか恥ずかしくなって、次の言葉を呑み込んだ。

 正体のわからない人物からの不審なメッセージをブロックもしていないのは、なにかを期待しているのだろうか。相手は男性と思われるし、そう取られてもしかたないのかもしれない。

「……はぁー」

 ため息はさらに深くなった。




 帰宅したあとも遥の迷いは晴れず、結局、こうしていまもベッドの上でスマートフォンを手に煩悶している。

 手元で甲高い電子音が鳴った。

(やっぱり)

 来ると思っていた。これまでと同じ、要領を得ないメッセージ。

『はるかちゃん』『約束思い出した?』

 遥は返信を打ち込む。ほんとうにこれを送っていいものか、少し迷った。が、結局ボタンをタップする。

『約束ってなに?』

 次のメッセージはなかなか届かなかった。

 最初こそじっと受信を待っていたが、十分、十五分と経過するうちに焦れてきた。

「むうう……」

 遥はうなりながらベッドの上で何度も転がる。それからがばっと起き上がった。

「やっぱり悪戯じゃないのさぁー!」

 なんだかばかばかしくなった。悩まされるべきものではなかった気がする。どこの誰だか知らないが、思わせぶりなことを言って遥をからかったのだろう。

 階下から母親の声が聞こえた。

「遥ちゃん、お風呂入っちゃってよ。お掃除できないでしょー」

 はーい、と返事をして遥は立ち上がる。よくわからない経験をしてしまったが、風呂に入ってすっきりしよう。変なアカウントはブロックして忘れてしまえばいい。

 風呂から戻ってくると、暗い部屋のベッドでスマートフォンのインジケータが点滅していた。

 手に取って遥は小さく息を呑む。空白の送信者からのメッセージ。

『また来るから って』『はるかちゃんが自分でそう言ったんだよ』『思い出した?』


 ――また来るから。


 たしかに言った、気がした。

 あれはいつのことだったか。誰に言ったのだったか。

 遥は、濡れた髪の冷たさを感じるまでベッドの横に立ち尽くした。

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