第参帖 招潮子《しおまねき》

招潮子 壱

 風が強く吹いていた。

 曇天に灰色の雲が蠢き、海は空を映して暗く、波が轟々ごうごうと唸っている。

「――そうなんだ。明日、帰っちゃうんだね」

 返事の代わりに頷いた。波の音がうるさいのでそのほうが確実だと思ったのだ。

「きみがいなくなると、寂しいな」

 そんな状態なのに、少年の声はやけにはっきりと聞こえた。

 帰りたいわけではない。けれど昨夜祖母に呼ばれて、よかったね、おうちに帰れるよと言われたのだ。

 黙っていると少年は切なげに笑った。

「しかたないよね。まだ小さいし」

 変な言い方だと思った。少年の年齢も大差ないのではないか。

 些細な疑問は、少年の次の言葉で吹き飛んだ。

「もう会えないね」

 それを聞いてどうしようもなく悲しくなり、また来るから、と言った。ほんとうにまた来ることができるのかわからなかったけれど、ほかに言えることはなかった。

 少年は、端正な顔に笑みを浮かべた。

「わかった。約束だよ」

 彼は右手を差し出した。海辺の町に住むほかの子どもたちと違って、白くてきれいな手だった。

 少し戸惑ったが、テレビで見た握手の様子を思い出して、少年の手を握った。手はひんやり冷たくて、なんだかどきどきした。

「忘れちゃだめだよ」

 海鳴りが響いている。

「約束だよ。十年経ったら、きっと――」




     壱.


 今年の梅雨入りはやや遅かった。

 それでも六月も後半になると湿気の多い日が続き、白黎学苑はくれいがくえんの昭和初期に建てられた校舎はところどころ雨漏りを起こして、数少ない若手の男性教師である曲直瀬まなせ燐太郎りんたろうは、そのたびに補修業者が来るまでの応急処置に駆り出されることとなった。

 その日の放課後も燐太郎はさっさと退勤するつもりでいたのだが、職員室でベテランの女性教師に呼び止められた。

「二階の廊下で雨漏りしてると生徒さんから報告がありまして。こんなことばっかりお願いして、申し訳ないんですけれど」

「いえいえ。なにぶん体力くらいしか貢献できるものがありませんし」

 謙遜は組織における美徳である。

 雨漏りしている箇所の下にバケツを置き、床と壁を拭いて『雨漏り注意』の貼り紙を貼る。そうして戻ってきたところで、職員室を覗いている生徒を発見した。

 高い位置でふたつに結んだ髪。華奢で小柄な体格。新木悠乃しんきゆのだ。応対に出た若い女性教師と話をしているようだった。

 ――まずい。

 燐太郎は踵を軸にして方向転換する。

 先月、社務所への侵入を許したのち思うところがあったのか、しばらくのあいだ悠乃の「お話聞かせてください攻撃」は沈静化していた。しかしここ数日になって復活し、またしても長い休み時間には燐太郎の姿を探すようになっていた。

 悪い子ではない。それはわかっているが、彼女の望む話につきあってやる気もない。この世に異界の化物――異神アダガミが跋扈しているなどという話を、中途半端に一般人に教えるべきではないと思う。

 そんなわけで彼は、相変わらず彼女から逃げ回っているのだが。

「あ、曲直瀬先生!」

 見つかった。

 燐太郎は聞こえないふりをして本部棟の角を曲がり速度を上げる。礼儀にうるさい白黎学苑のこと、教師が率先して廊下を走るわけにはいかないが、脚の長さリーチの差がある。このまま速歩はやあしで隣接した西棟校舎まで抜け、迂回して職員室へ戻れば逃げ切れると踏んだ。以前、同じ手口で悠乃を撒いたこともある。

「曲直瀬先生ー! 待ってくださーい!」

 追ってくる声を無視して渡り廊下を進み、理系の特別教室が並ぶ西棟へ。手前が物理室、奥が化学室と生物室で、それぞれに準備室が備えられている。燐太郎は廊下つきあたりのドアノブをひねった。

 がちん、と硬い感触。

「……なんてこった」

 施錠されていた。

 開閉に鍵の必要な、シリンダー式だ。

「まーなーせせーんせー」

 悠乃の声は渡り廊下まで迫っている。燐太郎が観念しかけたそのとき、押し殺した男性の声が聞こえた。

「曲直瀬先生」化学準備室の引き戸が少しだけ開いて、白衣の腕が手招きしている。「こっちです、こっち」

 渡りに船。燐太郎は迷わず引き戸へ滑り込んだ。



     ◆◇◆



 東棟四階、東洋文化研究会の部室からは、雨の午後に沈む校庭が見渡せた。

「こんにちはっ!」

 新木悠乃は勢いよくドアを開けた。入り口近くで漫画を読んでいた一年生が悠乃に会釈をする。

 悠乃は東洋文化研究会の部員ではないのだが、二年生になってからしばしば部室に来ている。仲のよかった小野寺理沙おのでらりさ古賀遥こがはるかが別のクラスになってしまったので、ふたりが所属する部活に遊びにきているかっこうだ。

 細長い部室の一番奥で、理沙が黙々とノートPCに向かっている。悠乃はその隣に座るなり言った。

「進捗どうでしょう!」「うっさい」

 理沙が間髪入れずに言い、面倒くさそうに悠乃を見る。

「なーに、また邪魔しに来たわけ? わたし、見ての通り原稿で忙しいのよ」

 東洋文化研究会は毎年秋の文化祭にあわせて会報を発行しているのだが、今年は部員が少ないため、中心人物である理沙の執筆負担が大きくなっているのだ。なお会報の内容は、インド神話の考察から幸先町おすすめラーメン店の紹介まで多岐にわたる。

「邪魔だなんてつれないなー。ちゃんと理沙に言われたとおり、自分の記事の準備はしてるんだからね」

 そう言って悠乃は鞄をあさり、クリアファイルに挟んだ書籍のコピーやウェブサイトのプリントアウトを机に並べた。理沙は眼鏡越しにそれらを眺め、一枚を手に取る。

「関東における神仏習合と教派神道の成立……へー、けっこう調べてるのね」

「もっちろん! 基礎知識はつけておかないと、インタビューにも支障が出るし」

「言うじゃない。悠乃のくせに」

「調べてるうちにおもしろくなってきちゃった。神社って昔からあると思ってたけど、実は何度も制度が変わってるんだね!」

「そのへんはわたしもあんまり詳しくないのよね。歴史的側面から攻めるのは興味深いと思うわ」

 理沙に褒められて気をよくした悠乃は、薄い胸をそらす。

 部員ではない悠乃だが、なんやかんやあって東洋文化研究会の会報に載せる記事を書くことになったのだった。悠乃の記事のテーマは、学校からほど近い水秦みなはた神社についてである。

「それで、肝心のインタビューはできそうなの?」

 悠乃はすとんと肩を落とした。

「……まだ、わかんない」

「曲直瀬先生に断られたわけ?」

「断られてないっ!」悠乃はぶんぶんと首を横に振る。「……でも、逃げられてる」

「なにそれ。交渉以前の問題じゃない」

 悠乃はうつむいた。ふたつに結んだ髪が、叱られた犬の耳に似ていた。

「わたし、なんか嫌われることしたかなぁ……」

「どうかしらね。でも、押しが強すぎるんじゃないの。どうせ悠乃のことだから、お話聞かせてください! ってひたすら突撃してるんでしょう」

 悠乃はぎくりとした。

 そういえば、なんの話を聞かせてほしいのかすら伝えられていない気がする。燐太郎が白黎学苑にやってきた初日、勢いあまって「異神について教えてください」などと言ってしまったものの、悠乃がいま彼に尋ねたいことは少し違う。幸先町を長年守護してきた水秦神社と曲直瀬家に、純粋に興味がある。伝えられていないのは燐太郎が逃げているせいでもあるが。

 理沙は大人びたしぐさで髪を耳にかける。

「向こうは仕事――古文教えにきてるんだから。『雨降り神社』の宮司やってるのはある意味プライベートでしょう。踏み込むには、それなりに関係を築いてからじゃないかしら」

「そうか!」悠乃はぴょこんと頭を上げる。「仲良くなればいいんだ!」

 理沙は肩をすくめた。

「どっちが主目的なんだか」「へ? なんか言った?」「こっちの話」

 さほど興味もなさそうに理沙は言い、鼻を鳴らす。

「はん、どいつもこいつも色気づいちゃってさ。遥はあんな有様だし」

「そうだ。遥はどうしちゃったの? 静かだけど」

 ふたりの視線が同時に動く。

 その先で古賀遥が机に頬杖をつき、スマートフォンを眺めてため息をついていた。悠乃と理沙が見ているのに気づいた様子もない。

「最近ずっとああなのよ。スマホ見てばっかり」

「そうなんだ。変だね」

「遥が変なのはいつものことだけど、ああいう方面に変なのは初めて見るわね」

 悠乃は机を回り込み、遥の前で手のひらをひらひらと振った。しかし反応はない。悠乃は横から遥の顔を覗き込み、「はーるーかー」と呼ぶ。

「……あれー、悠乃ちゃん。来てたんだー?」

 遥は居眠りからさめたように、不思議そうに悠乃を見上げている。

「来てたんだって……さっきからいたよ。気づいてなかったの?」

「なははー、ごめんごめーん」

 変な笑いかたはいつもの遥だ。しかしそれも力がなく、ぼんやりしているように思える。心配になって悠乃は尋ねた。

「どうしたの、遥。なにか悩みごとでもあるの?」

「んー? べつに、なにもないよー? 悠乃ちゃんこそ、どうかしたー?」

 遥はスマートフォンをずっと顔の前から動かそうとしない。悠乃はそれが気になった。

「ゲームでもしてるの? 見てもいい?」

「ほわっ!」遥は変な声を上げ、スマートフォンをさっと机の上に伏せる。「な、なにもないよ。ないないない」

「ほっときなさいよ、悠乃」

 さめた声色で理沙が言う。

「えー、でも、遥、変だよ?」「いいから」

 釈然としないまま席に戻った悠乃に、理沙が強い調子で囁く。

「あんなの男関係に決まってるじゃない」

 悠乃はいっぱいに目を見開いた。口を開閉し、理沙を見て、遥を見、それからまた理沙を見る。

「……ほんと?」

「携帯眺めて挙動不審とか、ほかにないわよ」

 理沙は解釈に自信があるようだ。いつも通りのクールを装っているが、鼻の穴がふくらんでいる。しかし悠乃には違和感があった。

「そうかなぁ。うちの学校じゃ男子と出会う機会なんてないよ」

「いくらもあるでしょう。友達の紹介なり、ネットなり」

「でも、遥だよ?」

 理沙は眉をしかめ、口角を下げて、なんともいえない顔をする。

「悠乃がそれ言うわけ」

 言われた意味がわからずに悠乃が首をかしげると、理沙は呆れたようにため息をついてノートPCの画面に視線を戻した。




 悠乃と理沙がこそこそ話し合っているのも気に留めず、遥はスマートフォンの画面を眺めていた。アイコンを押してメッセージアプリを立ち上げる。今日何度めの確認になるのか思い出せない。

 新着メッセージは、なし。

「……はぁー」

 憂鬱なため息をつく。

 遥は昨夜届いたメッセージを開いた。表示される文面は、ごく短い。


『もうすぐ、約束の日だね』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る