誘魂翅 伍
古来より洋の東西を問わず、蝶は霊魂の象徴、あるいはその運び手とみなされる。
顕著なのがギリシャ神話に登場する美女の名前「プシュケー」で、これは『魂』と『蝶』をともに表す語だ。
キリスト教圏では蝶は復活を示し、日本でも盆時期の蝶には仏が乗っているなどといわれる。逆に、地域によっては死霊とみなして忌避される例もある。
春になるたび、
伍.
玄関の
同時に耳に飛び込んでくる少女の声。
「――というわけなんです! ひどいと思いませんか!」
「そうだねぇ。それは若先生が悪いねぇ。せっかく生徒さんが会いに来てくれたのにねぇ」
「でしょう! 高木さんからもなんとか言ってください!」
うな、と相槌をうつような猫の声も聞こえる。
まずい。なにかとてもまずい事態になっている気がする。そう思った瞬間に座敷の襖が開いた。
「あっ! ほら、やっぱり帰ってきてますよ!」「ほんとうだ。よく気づいたね、悠乃ちゃん」
「げ」燐太郎は閉めたばかりの引き戸に手をかけたが、巨大な三毛猫に回り込まれて足が止まる。そのあいだに悠乃が座敷から飛び出して腕をとられた。
「もー、どこ行ってたんですか! まだお話したいことがあったのに、さっさと先行っちゃうから追いかけるの大変だったじゃないですかー!」
それが狙いだったのだが、意図が伝わっていないのはいいのか悪いのか。
悠乃は燐太郎の腕をぐいぐい引っ張って座敷へ引き上げようとする。
「ちゃんと先生のお手伝いしましたもん! それなのにわたしの話を聞いてくれないなんてずるいです!」
「待て待て、せめて靴を脱ぐあいだくらい待ってくれ」
片腕を悠乃に保持されているので片手だけで靴を脱いでいると、悠乃が「ああっ!?」と頓狂な声を上げた。
「たっ、たっ、大変です! 先生怪我してる!」
「ああ」さっき大蜘蛛の糸に貫かれた左手首の傷だろう。
「たいしたこたぁない。絆創膏貼っときゃあ」「だめです! ちゃんと手当しないと化膿してひどいことになりますよ!」
悠乃は怒ったような顔を燐太郎にぐっと近づけて言った。
燐太郎が上がり框に腰掛けているため、いまは悠乃の顔のほうが上にある。生気に満ちた大きな目をかこむ睫毛が驚くほど長いことを、燐太郎は知った。なめらかな頬が、内側からの血色で淡い紅色に染まっている。
そのとき、引き戸がふたたび開いた。
きりりと結ったポニーテール、Gジャンの下のタンクトップから覗く豊かな凹凸。
辻杏子は、社務所の玄関先で悠乃に腕を掴まれている燐太郎と、彼に顔を寄せている悠乃を交互に見た。
杏子の細い眉がきゅっと寄る。
「……
燐太郎は頭を抱えた。
「翔馬の目が覚めたわ」
杏子はそう言った。
それから彼女は、燐太郎を玄関の隅に引っ張っていって小声で質す。
「あのさ。……あんた、なんかやった?」
「さぁ?」燐太郎は肩をすくめた。
杏子はなにか言いたそうにピンクのグロスを塗った唇を動かしていたが、やがてため息をつく。
「ま、いいや。そういうわけだから、いちおう言っとこうと思って」
「知らせてくれてありがとう。安心したよ。よかったな」
燐太郎がそう言うと、杏子は口をへの字にして上目遣いで彼を見た。杏子にしては珍しい顔だ。彼女はその表情のまま言う。
「……今日、来てくれてありがと。美鈴さんが、もう一度ちゃんとお礼言っておいてって……あと、殴ってごめん」
燐太郎は口元をゆるめた。
「アンズに殴られた回数なんざ、もう憶えとらんよ。いまさらだ」
「! う、う、うるさいわね!」
杏子は携えてきた紙袋を燐太郎に押しつけて背を向けた。
「もう帰るのかね?」
「翔馬が起きたばっかでばたばたしてんの! 兄貴と美鈴さんがつきっきりだから、お店のほうはあたしと母さんでやんなきゃ」
「そんな忙しいときにわざわざ来てくれたのか?」
杏子は肩越しに振り向いて、思いきり苦い顔をした。
「燐太郎がメッセージ見ないからでしょうが!」
「日が長くなったねぇ」
ようやく夕焼けに染まりはじめた空を腰高窓から眺め、高木がのんびり言った。彼の前にはお茶とともに抹茶プリンが置かれている。杏子の手土産だ。
「もう来月は夏至ですからね。早いもんです」
「む。動かないでください、先生」
燐太郎は座敷に胡座をかき、その横で悠乃が彼の左手に消毒をしていた。大げさだと思ったのだが、悠乃がやると言って聞かなかったのである。
悠乃は消毒した上から丁寧に絆創膏を貼った。「完成です!」
燐太郎が礼を言うのに嬉しげに笑って、悠乃はいそいそと座布団へ移動する。ウズメさんが悠乃の膝に前足をのせた。どうやらウズメさんは彼女を気に入ったらしい。
悠乃の前にも、抹茶プリンがスタンバイしていた。
「……さっきパフェ食ったじゃあないか」
「甘いものは別腹なのです! いくらでも食べられます!」
悠乃は満面の笑みでスプーンを取り上げる。
「おお、いい食べっぷりだねぇ。もうひとついくかい?」
「いただきます!」
悠乃のパフェ消費速度を思い返すとほんとうにいくらでも食べそうな気がしたが、抹茶プリンのおかげで悠乃が「先生に訊きたいこと」を忘れてくれたので、燐太郎としてはありがたい限りである。できることならこのままずっと忘れていてほしい。
悠乃がふたつめのプリンを口に運びながら尋ねた。
「プリンを持ってきてくださった人、きれいな人でしたね。先生の……彼女さんです?」
「いや」燐太郎は首を横に振る。「幼馴染だよ」
「杏子ちゃんが若先生の彼女だったら、わたしも安心できるんだけどねぇ……」
高木の勝手な述懐は放っておく。
「ふぉー、幼馴染ですか。そういうのちょっとうらやましいです! 何年くらいのおつきあいなんです?」
「小学校からだから、二十年近いな」「二十年! すごい!」
燐太郎は目を細めた。杏子は子どものころから活発で気が強く、クラスを引っ張っていくタイプの子だった。インドアな燐太郎を外に連れ出していたのは、もっぱら杏子と、それから――
とりとめのない回想を遮ったのは、高木の声であった。
「おや。蝶が来ているねぇ」
「はっ、ほんとですね! 大きい!」
高木が指差した先。薔薇色の空を背景に揚羽蝶が飛んでいる。逆光で影になり、後部の翅が突き出した流麗なかたちが、夕景にシルエットとなって刻まれる。
「――知らず、周の夢に胡蝶と
「おっ、莊子だね」燐太郎のつぶやきに反応したのは高木だ。「さすがだ」
「いちおう、漢文も教えられるんですよ」
「いまのはなんです? どういう意味なんですか?」
悠乃が尋ねる。燐太郎はお茶をひと口飲んで答えた。
「簡単に言うと……昔の中国で、荘周という人が夢を見た。夢のなかで彼は蝶になっていたが、目覚めると荘周に戻っていた。さて、これは人が蝶になった夢を見たのか、蝶が人になった夢を見ているのか、いったいどっちなんだ、と。そういう話だ」
悠乃がスプーンを咥えて首をかしげる。
「どっちなんですか?」「わからん」「わからない?」
悠乃の頭がさらにかたむき眉が寄った。その様子がおかしくて、燐太郎は小さく笑う。
「これはそういう話なのさ」
◆◇◆
高木と悠乃が帰ったあとも、燐太郎はしばらく座敷にとどまった。
遠慮していた煙草に火をつけ、ゆっくり煙を吐き出す。背後に手をついて脚を投げ出した彼の眉間には、深い皺が寄っている。
「……楔座が増える、か。まぁ、ありえん話じゃあないんだろうが」
今日、大蜘蛛と遭遇したあの路地は、先代からうけついだ情報にはなかった。近隣の楔座はすべて把握しているはずなのだが。
とはいえ常世の事情は現世からは計り知れない。そういうこともある、といわれれば納得するしかない。
大蜘蛛を追い返し、翔馬は目覚めたのだから事件は解決したといっていいだろう。
だが、引っかかる。
引っかかるといえば、ほかにもあるのだが――一番の引っかかりは、いまのところ新木悠乃の存在である。
彼女はいったい、なにものなのか。
「どうにも、落ち着かんなぁ……」
燐太郎はしばし天井を眺め、うしろへ頭をかくりと落とす。
三毛猫のウズメさんが、んな、と太い声で鳴いた。
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