誘魂翅 肆
肆.
水秦神社の先代宮司、曲直瀬
いずれのものがいつから言い出したか不明ながら、現世に穿たれた常世の痕跡を『楔』という。
現世の生きものは常世の気配を感じ取り、それと知らぬまま楔を避ける。霊場を畏れ、幽霊屋敷を不気味がるのは、いずれも同じ理屈なのだ。
楔の穿たれた場所は
義臣は言ったものである。
――よく心得ておけ、燐太郎。現世のものは、現世の理のうちに生きるもの。おまえとて例外ではない。
燐太郎は走る。
悠乃のおかげでだいたいの場所はわかった。児童公園の近くの、酒屋の脇。
町内スピーカーから夕方五時を知らせる『夕焼け小焼け』が聞こえた。日はまだ高く、雲のふちに見えるわずかな橙色だけが薄暮の気配を示している。
目的の酒屋は住宅地の中にあった。半分コンビニのような、町の酒屋だ。
燐太郎は六缶入りビールを眺めるふりをして左隣の一戸建てと酒屋とのあいだを確認したが、隙間はほとんどないように見えた。
一方、反対側のマンションとのあいだは細い通路になっていた。入り口に金属の扉がはまっている。扉は十歳の子どもなら乗り越えられそうな高さだ。
(ここか……?)
そのとき、道の対面からズボンにサンダル履きの老婦人がやってきた。ビーグル犬を連れている。燐太郎は怪しまれないように酒屋の前に移動した。
不意に、犬が民家に向かって吠えだした。「こーら、やめなさい、いい子だから」婦人がなだめながらリードを引き、犬は鼻を鳴らして飼い主に従う。
犬と老婦人が去ってから、燐太郎は店先を離れる。
左隣の民家は二階建てでずいぶん古いようだ。表札は出ているが、人が住んでいるのかいないのか、家の様子からは判別できない。伸びすぎた庭木が酒屋とのあいだを埋めている。
燐太郎はふたつの建物のあいだを観察した。隣家の門柱。庭木。酒屋の壁。
(やはり)
目が滑る。
ちゃんと見ているつもりなのに、一瞬欠落したような――動画の「コマ落ち」のような感覚が挟まる。この現象を、燐太郎は知っている。
「……ひふみよ、いむなや、こともちろらね、しきる、ゆいつわぬ、そをたはくめか、うおえにさりへて、のます、あせえほれけ」
正確な意味の伝わらぬ、古い
詞は、音だ。音は意味より前に立ち現れる。発された韻律が、世界の様相を変える。
もう一度、民家と酒屋のあいだに目をやる。
ふたつの建物の隙間に、細い路地が口を開けていた。突然現れたわけではない。そこにあったのに見えなかったのだ。
路地の奥は暗くて見通せない。五月の終わりの日の長い時期だというのに、そこだけが黄昏の様相であった。現世と常世の輪郭を曖昧にする、魔のひそむ時間帯の。
燐太郎は深く息を吸い込み、ゆっくり吐き出す。
「っし」
気合を入れるように唇をなめ、彼は一歩を踏み出した。
悠乃は走る。
「なんだかひどい扱いをされた気がする……!」
燐太郎がお金だけ置いて先に行ってしまったため、追う前に会計をしなければならなかったのだ。それでもたついているうちに、燐太郎の姿は周辺から消え失せていた。
だが彼の行き先は想像がつく。きっと小学生たちの話にあった路地へ行ったのだ。彼がなにを調べているのか、その目的も意図もさっぱりわからないのだが。
「わたしの集中力をなめてもらっては困るの、だっ」
幸先通り商店街からはずれてしまうと土地勘がないので手間取ったものの、検索エンジンとGPSの助けも借りて、悠乃は問題の酒屋とおぼしき店を見つけた。しかもその前にたたずむ長身の姿は。
「先生!」
悠乃は燐太郎に駆け寄った――はずだった。
「あ、あれ?」
いない。さっきまでたしかにそこにいたと思ったのに。
酒屋の右隣、マンションとのあいだは金属の扉で仕切られた路地になっていて、扉は施錠されていた。反対側の民家とのあいだはなにもない。
「ぬあー! また逃げられた!」
店頭で地団駄をふむ悠乃を、酒屋のバイトの学生が不気味そうに見た。
◆◇◆
路地に足を踏み入れるとにわかに周囲は暗くなり、街の音が消えた。
白山通りの車の音も、商店街の放送や音楽や人の話し声も、すべてうしろへ置き去りにされる。
眼前に続く細い道。それは暗闇に白く浮かび上がり、ありうべからざる場所へと導く。
「なるほど。まごうかたなき楔座だ」
路地の左は民家、右は酒屋に挟まれている。しかし奇妙に現実感のない風景だ。建物の壁はそこにあるのだが、古い写真のように色褪せて遠く見える。
燐太郎は慎重に路地を進んだ。踏み出すたびに道は頼りなく揺れ、吊橋を渡っているかのような気分になる。地面がべたついているようで、靴が離れるときかすかに引っ張られる感覚があった。
やがて、道は分岐した。しかも五つにわかれている。分かれ道は小学生たちの話になかったが――
(ときと場合によって様相が変わるなんざ、珍しくもない)
問題はどの道が正解かということだ。燐太郎は眉間に皺をよせて五叉路を観察した。
分かれ道のひとつになにかが落ちている。灰色の紙くずのようなもの。
近づいてかがみこむと、蝶の死骸だった。揚羽蝶に似た大きな蝶だ。
燐太郎は蝶の落ちていた道を選んだ。
道は徐々に狭くなった。いつしか左右に迫っていた壁は消え失せている。
いや、壁だけではない。地面もいずこかへ消え去り、虚空のなかに道だけが続いていた。道はどうやら無数の糸をよりあわせてできているようだ。見渡せば、左右にも上下にも闇のなかに絡まり合う白い道が見て取れた。
「うーむ。準備不足だったか……?」
つぶやいて燐太郎は立ち止まり、自分の顎を撫でた。これほど本格的なものが町内にあったとは知らなかった。
そのとき、前方にぼんやり光るものをみとめた。
道はしだいに上り坂になる。その途中に、手のひらくらいの金色のものが引っかかっていた。目を惹いたのは、それが震えるように動いていたからだ。
近づくと、金色のものは蝶のかたちをしていた。じたばたと翅を動かしているのだが、道を形成する糸に絡め取られて動けないらしい。
燐太郎は少し考え、懐から扇子を取り出した。扇子の柄で、翅に絡んだ糸を切る。
「うおっと、待て待て」
糸を外しきらないうちに蝶が暴れる。しかし飛び去ろうとした蝶は残った糸に引っ張られて墜落し、ふたたび道に埋もれるように絡まってしまった。
「待てと言うのに」
今度は左手で蝶の翅を押さえながら糸を切った。一本ずつの粘着性はそれほど強くないようで、丁寧にやれば開放できそうだ、が。
――気づいたときには、気配は間近にあった。
「う、お、あっ!?」
なにが起きたのか理解できなかった。
強い力でうしろへ吹っ飛ばされたのだと気づいたときには数十歩ぶんを強制的に後退させられ、仰向けに倒れていた。下が柔らかいために痛みはない。
「なんだなんだ……?」
燐太郎は肘をついて上半身を起こしながら、出現したものの姿を見やった。
巨大な蜘蛛が、前方にうずくまっている。
高度な作業機械にも似た八本の脚。短い毛の生えた、こんもりと盛り上がる胴体。頭を覆いつくす複眼。
まごうかたなき蜘蛛である。
大きさが、牛ほどである点を除けば。
この世のものではありえない。常世の住人――
「……大物じゃあないか。
蜘蛛が跳躍した。
着地と同時に足場が大きく揺れる。道から転がり落ちそうになった。すんでのところでよりあわされた糸を掴んで踏みとどまる。
蜘蛛の複眼が至近距離に迫る。
燐太郎はたしかに、複眼がきろきろと動いて自分を見たと思った。
八本の脚を姿勢を低くしてかいくぐる。鋭い爪が空を切る。虚空にゆらめく道を両手両足でどうにかとらえ、這うようにして蜘蛛から距離を取った。
間違いない。向こうはこちらの存在を認識している。
(……さっきの、蝶は)
目算で二メートル先に金色の輝き。
まだ一部が糸に絡んだままの蝶が、懸命に翅を動かしている。燐太郎は蝶に左手を伸ばした。
「っ!」
鋭い痛みが走る。
彼の手首に飛来したもの。
それは糸であった。白く細く、闇に浮かび上がる蜘蛛の糸。
振り向けば巨大蜘蛛がいままさに糸を吐いたところだ。針のごとく手首に突き刺さった糸は、見る間によりあわさって太くなり、肘までを捕える。痺れに似た重い痛みが左腕を襲った。吸われている。
「く、そっ!」
動きをとめた燐太郎に蜘蛛が近づく。
闇のなかでなお
「く……」
燐太郎は自由な右手でジャケットの内ポケットを探る。
蜘蛛が最後の距離を一気につめる。白い糸の道が大きくたわむ。身体が虚空に放り出され、糸の巻きついた左腕一本で身を支える。下を見る気は起きなかった。
苦しい姿勢のままふたたびポケットに手を突っ込んだ。
しゅうしゅうと異様な音とともに生温かい呼気が鼻先にかかる。指先が硬い感触をとらえる。蜘蛛が前四本の脚を振り上げる。引っ張り出した小箱を開ける。
牙に囲まれた口。覗くのは無限の虚無、常世の深淵。
薬指と中指で箱を支え、取り出した一本を手首の返しだけで箱の横腹へ擦りつける。
闇に灯るのは、小さな小さな炎。
「――うぉーらぁっ!」
燐太郎は片手で着火した
火柱が上がった。
「……
巨大な蜘蛛が炎に巻かれる。張り巡らされた白い糸の道がちぎれ、熱で縮んでいく。
「
蝶を捕えていた糸が、火にあおられてほどけた。
金色の蝶が、はばたく。
「こいつは驚いたな……」
一匹だけではなかった。
炎に包まれる蜘蛛、崩壊していく巣。
糸で組み上げられた棲家が、常世の暗黒のなかへ崩れゆく。
それらを背景にして無数の蝶が一斉に飛び立ち、
気づけば路地のはずれに立っていた。
建物の様子がさきほどと異なる。どうやら路地の反対側へ抜けたらしい。
左手首に痛みを感じた。見れば手の甲側に針で突いたような傷ができ、血が滴っている。たいした怪我ではないが、戻ったら手当ての必要はありそうだ。
路地の出口は背の低い木戸で塞がれていた。燐太郎は少し迷ったのち、木戸をまたぎ越そうと脚を上げ――
中年男性のうさんくさげな目と目が合った。
「……あんた、誰?」
路地に接する民家の庭先で、
「……あ」
燐太郎は頬を引きつらせた。
――問い。この状況に対し、一般人に納得してもらえる説明は可能か?
――答え。不可能。通報不可避。
「も、申し訳ありません! たまたま迷い込みまして! すぐ失礼しますので!」
「あっ、あんた、ちょっと、待ちなさい!」
制止する声を振り切り、燐太郎は一目散にその場を逃げ出した。
ブロック塀に貼られた『不審者に注意!』のポスターが、晩春の夕風に吹かれていた。
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