誘魂翅 弐
弐.
翌日、土曜日。午前だけの授業を終えて帰宅した燐太郎は、昼食後に外へ出た。
幸先通り商店街は賑わっていた。地蔵寺に参拝客が列をつくっているのを遠目に、スクールゾーンの表示がある路地へ入る。
住宅の隙間に店舗が挟まる道の奥、小学校向かいの『フラワーつじ』を覗く。
「……燐太郎」
接客中の杏子が驚いた顔をした。
「や、アンズ」
杏子が花束をつくりあげ、客の背に「ありがとうございました」と頭を下げるのを待つあいだ、燐太郎は店先を眺めていた。レジの奥で杏子の兄の辻貴志がこちらを睨んでいる。九歳違いの貴志は、燐太郎に対していつもこの調子だ。
フラワーつじは一九七〇年代に杏子の祖父が脱サラしてはじめた店である。以前は飾り気のない冷蔵ケースに花がぎっしりつめこまれた店だったが、杏子と兄嫁の美鈴が手を加えた結果、ドライフラワーやリースが天井から吊り下がり、木の棚や籐を編んだテーブルにブリキの花器がディスプレイされて、すっかりしゃれた風情になった。
「お待たせ」
店内に客がいなくなり、杏子がエプロンで手を拭きながら出てきた。
「急に訪ねて悪かったな」燐太郎は尋ねた。「……翔馬は」
杏子は首を横に振る。変化なし、ということだろう。あっさり目が覚めた、などという報告をひそかに期待していたのだが、そうはいかないようだ。
「――少し、様子を見てってもいいかね」
杏子は切れ長の目を瞬かせ、それから伏せた。「でも」
燐太郎は携えてきた紙袋を持ち上げる。途中の洋菓子屋で買ってきたクッキーだ。
「ただの見舞いだよ。話を聞いて気になっただけだ」
「……わかった。ありがと」
店舗奥へ向かうとき、レジ裏でリボンを切っていた貴志がぼそりと言った。
「誰かと思えば、拝み屋かよ」
燐太郎は肩をすくめる。
「そっちの商売はもうやっとらんよ」
「どうだか。おまえんちは信用ならねぇ。どうせ杏子がよけいなこと言ったんだろうが、翔馬になんかしたら許さねぇからな」
花屋の跡取りは剣呑な目をする。いまさら腹は立たず、かつての小心者の青年も父親になったんだなと、燐太郎は妙に感心した。かわりに杏子が眉をしかめる。
「あたしの客なんだから、そういうのやめてよ」
「杏子。おまえも友達は選んだほうがいい、でっ!」
「やめな貴志。小さいことぬかしてんじゃないよ」
貴志の首うしろにチョップを食らわせたのは、奥から出てきた兄妹の母親だった。
「久しぶり、燐太郎くん。いろいろあって散らかってるけど、ゆっくりしてってね」
還暦に至っても快活な笑顔をみせる母親には逆らえないようで、貴志はそれ以上なにも言わなかった。
杏子が先導する。
「親父は配達に行ってる。じーちゃんとばーちゃんは浅草へ出かけてるわ。……こっちよ」
翔馬は、一階の茶の間に敷いた布団に寝かされていた。貴志一家は二階に住んでいるのだが、目の届きやすい場所に移したのだろう。畳敷きに五十インチのテレビが不似合いな、八畳の部屋だ。
枕辺に横座りした女性が振り向く。翔馬の母親、
「あら、神主さんじゃない。今日も男前ねー」
貴志より歳上の美鈴は軽口を言う余裕があるようだが、頬のあたりに疲労の色が見えた。
「どうも。お邪魔します」
「もしかしてお見舞いに来てくれたの? 嬉しいなあ。翔馬も喜ぶと思う」
「どうでしょう。俺は嫌われてるようなので」
「最近、やたら大人につっかかるのよねー」
美鈴は笑った。乾いた笑みだった。彼女は翔馬の頬をつつく。
「……でもこの通り、減らず口も叩けなくなっちゃって。ぜんっぜん起きないのよ。どうしちゃったんだろうね」
手土産を受け取った美鈴は燐太郎に座布団をすすめて「お茶淹れるね」と立ち上がる。
「あたしも手伝ってくる。待ってて」
杏子が美鈴を追って台所へ消え、燐太郎は眠る子どもと一緒に残された。
(さて、どうするか)
実はこの期に及ぶまで、見舞い以上のことをするかどうか決めていなかった。燐太郎はそっと翔馬に近づいた。
少年は、たしかに眠っているようだった。
布団から頭と手の先がのぞいている。男の子とは思えないほど細い指。以前会ったときには貴志に似ていると思ったものだが、こうして目を閉じていると、まるい頬の線が美鈴と同じだ。
寝息は穏やかで、問題があるようには見えない。しかし眠りっぱなしということは食事もしていないわけだ。横になったままの姿勢も長ければ身体に負担になるだろう。
燐太郎は台所をうかがった。行動するなら、いましかない。
肉体の目を、閉じる。
それを行うのは久々だった。
集中するのは聴覚だ。受け容れるというほうが正確か。普段は無視しているが、耳の奥底で聴こえ続けるノイズ。そのなかに、
――かさり。
それは、古い家に住み着くなにものかの
(なんでもかまわん)
しょせん、引き寄せる手がかりにするだけだ。燐太郎は聴き取った音に全神経を向けた。
やがて耳は澄みわたり、奥山に降るような、静かな雨音が聴こえはじめた。
目を開ける。
視界が一変していた。
赤外線カメラの映像のように、色はほとんどない。台所のほうに光が視える。美鈴と杏子だろう。この視界には、生物が強い光となって映る。
ふたりが戻ってくる前に確認してしまわねばならない。聴覚だけならいいが、視覚を切り替えていると目立つのだ。
燐太郎は翔馬の寝ているほうへ目を向けた。
(……弱いな)
光が翔馬のかたちをして横たわっている。しかしその光はひどく淡く頼りない。ほとんど消えかかっている。
(なんだあれ?)
翔馬の首にあたる位置から、白く細い糸のようなものが伸びていた。目で追っていくと、それは部屋を出て廊下へ伸び、店舗のほうへ続いているようだった。もっと先まで視ようと、燐太郎は腰を浮かせる。
そのとき。
「おまたせー」
「……っ」
瞬時に、視界がもとの茶の間に戻った。部屋に色が蘇り、目の前で翔馬が寝息を立てている。糸はどこにも見えない。背後のローテーブルに、美鈴が茶碗とクッキーを並べていた。
杏子が燐太郎の顔を覗き込んでくる。
「どうかした?」「いや」
曖昧に答える。感覚を戻したとたんに強烈な疲労を感じたが、異変を知られるわけにはいかない。
(なんだったんだ、ありゃあ?)
翔馬の首から伸びていた白い糸。
燐太郎は少し考え、美鈴に声をかけた。
「……美鈴さん。翔馬がこうなる前に、なにか変わったことありましたか」
美鈴は茶を注ぎながら、小さく眉間に皺を寄せる。
「それ、お医者さんにも訊かれたんだけどねー。いつも通りだったと思うなあ。五時すぎに帰ってきて、ご飯食べて、お風呂入って寝たらそれっきり……」
美鈴の語尾が震えて、燐太郎は後悔した。こちらを見る杏子の視線が険しくなっている。もう少し違う訊き方をすべきだったかもしれない。
しかし尋ねてしまったものはしかたない。気づかないふりをして質問を追加する。
「帰りはいつも五時くらい?」
「そうね。夕焼け小焼けが鳴ったら帰ってくるように言ってあるから、だいたいそのくらいね」
「仲のいい友達はいるんですか?」
「いつも同級生の男子三人とつるんでるよ。公園か、だれかのうちでゲームしてるみたい。週一の塾も同じメンツで行ってるの」
二十分ほど滞在したあと、辻家を辞した。
店先まで見送りにきた杏子はむっつりと黙り込んでいたが、燐太郎が「それじゃ」と言うと鋭い目で睨みあげてきた。
「……どういうつもりよ」
「なにが」
「お見舞いだって言ったじゃない! 美鈴さんに根掘り葉掘り質問して、なに考えてるの? 平気そうな顔してるけど、一番つらいのは美鈴さんなんだよ!」
「あー……」燐太郎は頭をかいた。「すまん」
「こんの、無神経!」
杏子の肘は、きれいに腹に入った。
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