誘魂翅 壱(2)

 翌日は雨の交じる曇りだった。梅雨が近いのだろう。燐太郎は一年生から三年生までの教室を行ったり来たりしながら、ときおり庇をたたく雨音を聞いて一日を過ごした。

 昨日杏子に聞かされた話がふと意識にのぼったのは、三年生に平家物語の解説をしているときだ。よりにもよって八歳の安徳天皇が母親の建礼門院とともに壇ノ浦で入水自殺する箇所で、である。

(……俺はなにを考えてるんだ。縁起が悪すぎる)

 燐太郎は頭を振って不穏な連想を追い出した。

 辻翔馬のことも気になるが、彼には目下、別の悩みがあるのだった。

 放課後。授業を終えた燐太郎は東棟の廊下の壁に背中をくっつけ、本部棟から続く渡り廊下の様子をうかがっていた。

 こんな特殊工作員のようなことをしているのには理由がある。

「――曲直瀬先生、どこですかー? まーなーせーせーんーせー」

 渡り廊下の向こう側から少女の声が聞こえ、燐太郎は素早く角に頭を引っ込めた。

「せーんーせー。お話きかせてくださいなー」

(まずい……!)

 確かめるまでもない。あの声は、二年生の新木悠乃しんきゆのだ。

 赴任以来、燐太郎はことあるごとに彼女につけまわされている。特に長い休み時間や放課後が危険である。相手をしてやればいいようなものだが、彼女は確実に、燐太郎の触れたくない話をするのだ。それが困る。

 足音を殺し、美術室と工作室の前を通り抜ける。位置関係からして、廊下の端から校庭に出られるはずだ。迂回して職員室へ戻り、荷物を回収して帰ろう。そうだ、それがいい。

 燐太郎は最後の数歩を一気に駆け抜け、こそこそと校舎から脱出した。



     ◆◇◆



 悠乃は燐太郎に撒かれてもめげなかった。彼女はふたつに結んだ髪を揺らして方向転換する。

 東棟は二階から上が、文化部の部室として使用されている。放課後のこの時間帯、吹奏楽部の楽器や演劇部の発声練習をはじめとする音で溢れていた。

 悠乃は階段を駆け上がる。目的の部室は四階の奥から三番目だ。『東洋文化研究会』と手書きされた紙が、ドアに画鋲で留めてあった。

「理沙、理沙ー!」

「聞こえてるわよ。あんまり大きな声を出さないでちょうだい」

 教室を縦に三分割した細長い部屋に、長机を囲んでパイプ椅子が置かれている。手前の椅子に生徒がふたりいたが、ひとりはスマートフォンをいじり、もうひとりは漫画を読んでいた。悠乃が現れても顔を少し上げただけである。

「あー、悠乃ちゃんだー。ここに来るなんて珍しいねー」

 小野寺理沙おのでらりさは長机の一番奥、出入り口に向かい合う席に座っていた。そのひとつ手前の席で古賀遥こがはるかが手を振っている。

 悠乃が勝手に遥の向かいに座ると、理沙はノートPCの画面から視線だけ悠乃へ向けた。PCの近くには『東洋文化研究会会報 東風TONG POO』と表紙に記された冊子が積んである。

「会報の原稿書いてるの?」

 再び画面に目を戻した理沙が、「そうよ」と言う。

「今年は部員が少ないから、理沙ちゃんがたくさん書かなきゃいけないんだー」

「そう思うなら遥も書きなさいよね!」

 理沙に睨まれた遥は、なにがおもしろいのか「にゃはは」と笑った。

 どの学校にも活動目的のよくわからない部活があるもので、白黎学苑ではこの東洋文化研究会がそれにあたる。毎年文化祭で会報を発行しているのだが、内容は大正琴の歴史からおいしいカレーの作り方まで混沌を極める。理沙と遥はその部員だ。なお、部長然としている理沙だが、部長は別にいるらしい。

 原稿をたくさん書かねばならないと聞いた悠乃は、にんまり笑う。

「実は、そんな東洋文化研究会のみなさんに耳寄り情報を持ってきたのです! 会報のネタになること間違いなし!」

 悠乃は揉み手をしながら言った。身を乗り出したのは遥だ。

「ふぉー! 耳寄り情報だね!」「耳寄り情報だよ!」「さっさと言いなさいよ」

 無意味に鸚鵡返しをする悠乃と遥。一方の理沙はクールである。

「それでは、東洋文化研究会の会報の記事にぴったりなネタをご紹介!」

 悠乃は咳払いをして薄い胸をはった。

「――白黎学苑の地元、幸先町の水秦神社の調査。どう?」

「却下」

 理沙は画面へ視線を戻す。肩透かしを食らった悠乃は、机に両手をついて上半身を乗り出した。

「なんで! ちょっと調べたけど、おもしろい話がいっぱいあるんだよ! 何百年も続いてる雨乞いのお祭りがあって雨降り神社って呼ばれてたとか、巫女さんにすごく力があって地元で信仰を集めてたとかっ」

 理沙はため息をついてPCを閉じ、悠乃を眼鏡越しにじっと見た。

「あのね、悠乃。わたしが雨降り神社のこと知らないわけないでしょう。地域のサイトに載ってるくらいなんだから。宮司家の子孫がうちの教員だってことも知ってるわよ、古文の曲直瀬先生でしょ」

 悠乃が最近調べたことくらい理沙はとっくにインプット済みであったらしい。理沙のさめた口ぶりに少しばつが悪くなって、悠乃は首をすくめる。

 パイプ椅子によりかかり、理沙は脚を組んだ。

「――あそこは、ガチなやつよ」

「ガチ、って?」

「雨降り神社の『ミコ』は、悠乃が思ってるようなものじゃないわ」

「どういうこと?」

「『ミコ』と呼ばれる存在に二種類あるってことは知ってるかしら?」

 悠乃は首を横に振った。その返答になにを思った風でもなく、理沙は続ける。

「ひとつは、職業としての巫女みこ。神職の補助を仕事にしている緋袴の女の人。そこそこの規模ならどこの神社にもいるわ」

「もうひとつは?」

巫覡ふげき。儀式を通じて神と語り合い、己の身体に神霊を下ろして、神のことばを伝えるシャーマン」

「シャーマン……」

 日常生活で聞く機会のない言葉が出てきた。理沙は眼鏡の位置を直しながら言う。

「雨降り神社のミコは後者。占いや予言、病気治癒を行う巫覡がごく最近までいたの。五年前だったか十年前だったか……とにかく、そのくらいまで」

「そんなに最近!?」

「たしかにテーマとしては興味深いわ。でも、研究対象にするには最近の事物すぎる。言い方を変えれば生々しすぎるのよ。健在な関係者が多い中で、不正確な情報を載せるわけにはいかないわ。うちはオカルト研究会じゃないからね」

 なんでもありの学生雑誌にも、守るべきスジはあるということなのだろう。理沙の言うことには説得力があった。

 そこで、黙ってやりとりを聞いていた遥が口を挟む。

「でも理沙ちゃん、ここに書いてあるよ?」

 遥が指差しているのは会報の表紙。「東洋文化」に「リエンタルルチャー」とルビがふってあり、漫画のような吹き出しで「オカ研」と記されている。とたんに理沙は苦い顔をした。

「それは昔の部員がふざけて書いたのよ! そのせいで活動方針がブレブレで困るのよっ!」

「ていうかー」遥は両手で頬杖をつき、悠乃を覗き込む。「悠乃ちゃんは、曲直瀬先生とお話ししたいだけだよねー?」

「ふぁっ!?」

 声が裏返った。

「うんうん、わかるよー。曲直瀬先生、背高いし、イケボだもんねー」

「なに、そうなの悠乃、そういうことなの? うちの活動をダシにしようという魂胆?」

「え、あ、ちがっ、ちがう、いや違わないけど違うっていうか、そういうんじゃなくて!」

 なにを言っているのか自分でもわからなくなってきた。

 たしかに下心はあった、だがそれは遥や理沙が言うようなものではない。

 悠乃が燐太郎に訊きたいのは、妖怪――彼がいうところの異神、異界の話だ。あの四月の日、自分の身に起きたこと。その詳細としくみを、悠乃は知りたいのだ、が。

「……まあなんでもいいけど」

 理沙が気が抜けたように伸びをして、パイプ椅子をきしませた。

「そんなに言うなら自分で記事書けば? できがよければ載せてあげる。ただし、取材にあたって部として責任は持たないわよ」

「それいいー! 悠乃ちゃんの書いた記事、わたしも読んでみたいなーっ」

「え、え、え?」

 悠乃が顔の熱さをもてあますうちに、話は勝手に進んだ。

「それじゃ、締切は九月頭だから。厳守でお願い」「楽しみにしてるねー!」

「……」

 そういうことになった、らしい。



     ◆◇◆



 東京の夜は静かではない。下の商店街のスーパーは十一時までやっているし、夜を通して白山通りをゆくトラックやタクシーの音が聞こえ続ける。

 それでもその異音は、神経を刺激した。

 ――かさり、かさり。

 天井裏でなにかが蠢いている。燐太郎は採点中の小テストから目を上げたが、すぐもとに戻す。

 ――かさり、かさり。ぱたぱたぱた。

 ひとりきりの家の廊下を、走る足音がする。

 目を塞ぐことは難しくない。つむればいいのだ。しかし耳を塞ぐには、両手が必要だ。

 おかしなものを「視ない」ようにする方法は、成長につれて身についた。肉体の目を閉じるのと要領は変わらない。一方「聴かない」ことは困難で、いまだにうまくいかない。

 ――かさり、かさり。かたん。

 燐太郎は背を丸め、文机に向かい続けた。サインペンが紙を滑る音に集中する。

 不意に背中に衝撃がきた。

「ぐえ」

 振り向くと、巨大な三毛猫が真後ろにいた。

「ウズメさんか。驚かさんでくれよ」

 抱え込むように撫でると、三毛猫はゴロゴロと喉を鳴らす。燐太郎は胡座をかいていた脚を伸ばし、テストの束をファイルに戻して煙草を咥えた。

 燐寸マッチの擦過音とともに燐が香る。手で囲って火をつけ、深く吸えば、先端に橙色の蛍が灯った。蛍光灯がついていても薄暗さを感じる北側の部屋に、まとまらない思考のような煙が揺れる。

 ――起きないのよね。翔馬が。

 憂いを帯びた杏子の切れ長の目が、脳裏に蘇った。

 幸先町も駅前はマンションが増えたが、商店街には辻家のように店舗兼住居に大家族が住んでいる家もまだ残っている。杏子の陽気な祖父母と両親、口の悪い兄、威勢のいい義姉と、生意気な少年の顔が順々に思い出された。

 煙草を灰皿に押しつけて立ち上がり、掃き出し窓から庭へ降りた。誰もいない境内へ出る。

 幸先町は低地だが、水秦神社は丘の上にあるので見晴らしがいい。二の鳥居の下に立つと、夜にけぶる街が眼下に広がる。都電の線路を超えた先は住宅街だ。家々の灯りがはるか彼方まで続いている。左手の奥には駅前のマンション街、さらにその向こうには、池袋のビル群が見えた。

 都市の風景は、燐太郎にとって、いつも遠い。

「……まいったなぁ」

 昨夜は、久々にまっとうな食事だった。「どうせろくなもん食べてないだろうって母さんが言うから」と言って、杏子がおかずを置いていってくれたからだ。煮物の油揚げはよく味がしみて、大根はふっくらとやわらかかった。

 足元にウズメさんがすりついている。燐太郎は大猫を抱き上げ、ため息をついた。

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