第弐帖 誘魂翅《ゆうこんし》
誘魂翅 壱(1)
二年三組のはじめての授業を終えたあと、
「質問です!」
了承する前に尋問が開始される。
「先生、独身ですか!」「身長何センチあるんですか?」「誕生日は?」「血液型は?」「好きな食べ物は?」「彼女いますか?」
ほかのクラスでも同じ有様だったので驚きはしない。女子校で若い男の教師など、よくて珍獣扱いだ。「キモイ」と遠巻きにされないだけましであろう。
しかし、これもサービス。そう思って答えたりはぐらかしたりしていたが、だんだん面倒になってきた。四時間目のあとで腹も減っている。
燐太郎は兎や蛙が踊る柄の扇子で顔をあおぎ、言った。
「あー、俺の個人情報以外でお願いしたい」
生徒たちが顔を見合わせる。そのあいだにひとりの少女が進み出た。
小柄だ。高い位置で髪をふたつに結び、大きな目に生気と好奇心をみなぎらせている。彼女は片手を挙げて元気よく言った。
「先生。
――馬鹿か、こいつは。
本気でそう思った。いまから二週間ほど前、五月なかばのことである。
壱.
朝から降り続いていた雨が、夕方になってやんだ。
曲直瀬燐太郎は六時前に勤務先の白黎学苑を出た。非常勤の身、帰りが早いのだけはありがたい。
雨上がりの雲を割って金色の光が降り注ぐ下、商店街を抜け、都電の線路の手前で薬局の角を曲がって自転車を止める。『
ふたつめの鳥居を通ると、子どもたちの高い声が聞こえた。
(おや、珍しい)
小さめの公園くらいの境内。小学校中学年の子どもが男女混合で五人、拝殿前の短い石段に座り込んでいる。めいめいがスマートフォンを手にし、互いの画面を覗いては笑い合う。
(ふむ。ご老人がた以外が訪れるのは結構なことだが)
燐太郎は腕組みしてしばらく子どもたちを眺めたあと、彼らに近づいた。
「やっりぃ! 三匹め倒した!」
「マジかよ。ここすげーな、めっちゃレアいる」
石段ではしゃぐ子供たちの上に、長い影が落ちる。
「――あー。お楽しみのところを申し訳ないが」
「ひえっ!?」
ゲームに夢中になっていた子どもたちは、突然降ってきた低い男の声に一斉に飛び上がった。小学生の仲間のような顔をして石段に座っていた巨大な三毛猫が、抗議するように太い声で鳴く。
「そこはお参りする人の通り道だ。見ての通りの閑古鳥神社なわけだが、これでも参拝客はゼロじゃあないのでね。遊ぶなら向こうのベンチでお願いしたい……」
そこで燐太郎は、子どもたちが興味深げな視線を向けているのに気づいた。ひとりの男の子が口を開く。
「おじさん、ここの人?」
目眩をおぼえた。まだ二十代のなかば、そんな年齢には遠いと思っていたが。
(いやいや、ひとまわり以上も違えばおじさん扱いもやむを得まい)
深く考えないことにした。かわりに彼は「いかにも」と重々しく頷き、今日はスーツ姿であることを思い出す。「こんな格好だがね」
「ここ、人いたんだ!」「ハイキョじゃなかったの」「ユーレーが出るんでしょ」
地元の子どもたちの間ではそういう噂になっているのか。掃除は欠かさずしているので、廃墟扱いは忸怩たるものがある。
「長年ここに住んでるが、幽霊に会ったことはないな」
子どもたちは残念そうな顔をした。思わず口角が上がる。子どもというものは、いつの時代も幽霊や妖怪が好きなのだ。
そのとき、誰かが石段を上ってきた。平日にもかかわらず参拝者が多い。
燐太郎は顔を上げ、現れたのが旧知であることに気づく。
「……アンズ」
後頭部できりりと結った長い髪。ジーンズとTシャツにパーカーを羽織ったラフなスタイルが、しなやかな身体の凹凸を強調していた。肩にはトートバッグを提げている。
「いでっ!」
「燐太郎、あんたね、メッセージの返信しなさいよ!」
「メッセージ? なにか急用だったかね?」
「べつに! 今日行ってもいいかって聞いただけ! どうせ携帯見てもいないんでしょ! 知ってた知ってた!」
燐太郎がいきなりの剣幕に面食らっていると、女の子のひとりが「あ、お花屋さんだ」と言った。とたんに杏子は接客用の笑みを浮かべる。
「そう、小学校の向かいの花屋です、こんにちは。憶えててくれて嬉しいな。あたし、このおじさんに用があるんだけど、借りていいかな?」
同い年の杏子におじさん呼ばわりされる筋合いはない。しかし言い返せる空気ではなかった。
杏子は、子どもたちの返事を聞く前に燐太郎の腕をつかむ。
「そろそろ暗くなるからね。みんな、遅くならないうちに帰るんだよー!」
杏子が笑顔で手を振る。あっけにとられた子どもたちを置いて、燐太郎は社務所へ引きずられていった。
水秦神社の境内右手奥にはよく似た建物がふたつ、双子のように並んでいる。手前の建物には引き戸があり、奥の建物は生け垣で隠れる位置のドアに『曲直瀬』と表札が出ていた。
杏子は勝手知ったる様子で引き戸を開ける。ふたりを先導するように、三毛猫がさっと中へ入った。
お守りや札を売る――正しくは「授与」という――授与所とつながった座敷から、初老の男性が顔を出す。
「おかえり、若先生……おや、杏子ちゃん」
「戻りました。いつもありがとうございます、高木さん」
腰を折った燐太郎の隣で、杏子が「こんにちわぁ」と愛想よく言う。
「いま閉めたところだったんだ。時間だから帰ろうと思ってたんだけど、杏子ちゃんがいるならお茶でも淹れようか」
「お手数おかけします」
「なんの。先代のころから手伝ってるからね」
彼は高木といい、都電の線路を渡った先に住んでいる。大手メーカーの役員を五十歳そこそこで退いて以来、境内の掃除や祭りの手伝いをしてくれているのだ。
高木の淹れたお茶とともに座敷の大机を囲む。脚をくずして座った杏子の脇に、三毛猫がくっついた。
「学校はどうなの、若先生」
高木が尋ねる。
「都立高とはだいぶ勝手が違いますが、どうにかやってます」
「二足の草鞋は大変じゃないかい?」
「いやぁ……神社のほうはなにもしてませんし」
事実である。約一年前に先代宮司、燐太郎の祖父の曲直瀬
杏子がお茶をすすりながら言う。
「燐太郎が女子校の教師だなんて世も末だよね。問題起こさないでよ。最近はうるさいんだから」
「どういう意味だね」
「そのまんまの意味。燐太郎、脇甘いんだもん」
高木が横から口を挟む。
「心配しなくても大丈夫だよ、杏子ちゃん。若先生の好みは歳上だから」
むせた。
「なんの話ですか!」
「そういう話じゃなかったのかい?」
好々爺ぶって言う高木だが、目におもしろがるような光を宿している。張り合っても不利と見て燐太郎は放り出したジャケットに手を伸ばす。内ポケットを探り、煙草に火をつけた。
杏子が厭そうに眉をしかめる。
「まだやめてないわけ」
「アンズよ、俺はいまだかつて禁煙するなんて言った憶えはないぞ」
「生徒に嫌われるわよ」
「残念ながら、これでも子ども受けがいいんだ」
「よく言うわ」
杏子は鼻で笑う。
「神社のおっさんはうさんくさいって
杏子の甥っ子の仏頂面が思い出され、燐太郎は苦笑する。生意気な口を利き始める年ごろなのだ。翔馬の父親、つまり杏子の兄と燐太郎は昔から反りが合わないので、彼の真似をしているのかもしれない。
「翔馬くんというと、
「……そうです」
そのとき杏子の表情が曇ったことに、燐太郎は気づいた。
杏子の実家は幸先通り商店街で生花店を営んでいる。両親はもちろん祖父母も健在だが、一昨年から杏子の兄の貴志夫婦が店を手伝っていた。
「いまいくつ?」「十歳です」「これから一番賑やかな時期だねぇ」
高木の言葉に杏子は頷いたが、心ここにあらずといった様子だ。燐太郎は煙草を咥えたまま、独り言のように尋ねた。
「――翔馬になにかあったのかね?」
杏子がぱっと顔を上げる。その
「……なにかあった、ってわけじゃ」
「なにもない、って顔じゃあないな」
杏子が隠し事のできない性質であることを、燐太郎は知っている。小学校からのつきあいだ。
高木も先を促すような顔で見ているのに気づき、観念したのだろう。杏子は小さく息をついた。
「……起きないのよね、翔馬が」
「起きない?」
「三日前からなんだけど。朝、全然起きてこなくて。揺すっても怒鳴ってもダメ。布団から引きずり出しても数秒ですぐ寝ちゃうの。そのままずーっと寝っぱなし」
「疲れてるだけなんじゃないのかい?」
高木が言うと、杏子は物憂げに目を向ける。
「三日間も疲れが取れないなんてこと、あり得ます?」
「病院には?」
「寝たまんま兄貴が無理やり連れてったけど、悪いところは見つからないって帰されちゃった。そんな状態だから、学校にも行けてなくてさ」
「それは心配だねぇ……」
高木が眉尻を下げた。彼には、四歳になる孫娘がいる。
「このまま起きなかったら、週明けに大きな病院に連れて行くって兄貴は言ってますけどね」
杏子は湯呑みのお茶をひと口飲み、急速に暮色を深める窓の外に目をやった。
沈黙が落ちる。
なにか言うべきなのだろうが、思いつかない。それで結局燐太郎がしたことは、二本めの煙草に火をつけることだった。細く吐き出した紫煙が、傷みの目立つ天井へのぼっていく。
指に挟んだ煙草の中で、ちり、と葉が灼ける音がした。
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