桜妖譚 伍

     伍.


 悠乃は桜の林に座り込んでいた。

(あ、れ?)

 さっきまでと変わらぬ桜と、その上の夜空――いや、空の色が変化している。いまは紫がかった群青でふちに僅かな橙色を残し、日が落ちた直後の色を示していた。

 悠乃は両の手のひらを見つめた。

 泥の奔流が流れ込んできたはずだが、怪我ひとつないどころか汚れもない。さらに自分の身体をぺたぺたと触り、無事を確かめる。

 そこで悠乃ははっと顔を上げた。

 数歩先に、こちらに背を向けて袴の男が立っている。

「あっ、あのっ!」

「お」

 男が振り向く。声がくぐもっているのは、煙草を咥えているからだと知れた。紙巻きの先端が、薄闇に赤い蛍のように揺れている。

 その飄々とした顔を見たとたん、悠乃の中にむくむくと怒りが膨らんだ。

 両の拳を握りしめ、勢いよく立ち上がる。睨みつけようとしたのだが、思っていた以上に男は長身で、ぐっと顎を上げる必要があった。

「もー、なんなんですかっ! なんか変なのが手から入ってきてすっごい怖かったし! ぜったい死んだと思ったんですけど!」

「元気そうじゃあないか。よかったよかった」

 男は煙草を咥えたまま笑みを浮かべ、扇子で顔を扇ぐ。ゆらりと煙が流れ、扇子の上で蛙や兎の愉快な絵が踊る。悠乃はその柄を見てさらに腹が立った。

「笑いごとじゃないし! なんでこんな目に遭わなきゃいけないの!」

「そうは言ってもな、勝手に楔座に入ったのはあんたのほうだぞ。無事に出られてよかったと思ってくれ」

「なに暢気なこと言って……え? 出られた?」

 ほれ、と男は扇子で前方を指した。

 桜の林が五メートルほど先で途切れている。背の低い藪を挟んで、その先は砂利を敷き詰めた広場になっているようだ。

 男は煙草を携帯灰皿に押し付けると袖の中へ放り込み、大股で歩き出す。悠乃も男を追い、藪をかきわけて広場へ出た。

「ここ、って」

 広場は小さな公園程度の広さだった。右手に瓦屋根のついた四角い水盤があり、龍の装飾が水を吐き出している。その向こうに、石造りの鳥居が見えた。そして左手には裸電球でライトアップされた建物。手前に賽銭箱を備え、なだらかな三角の屋根を持つ建物は――社殿だ。

 どこか下の方から、車のエンジンの音が聞こえる。ひどく懐かしい音のように思えた。

「神社の中……?」

 ふたりが出てきたのは、社殿脇の藪であった。悠乃はきょろきょろと左右を見回す。境内にはほかに誰もいないようだ。

 男が悠乃を振り返り、肩をすくめて笑った。

「造営承元二年、幸先町鎮守。水秦みなはた神社へようこそ、とね」

 そこでようやく悠乃は、男の格好に合点がいった。白い着物に、水色の袴。烏帽子や平安時代の人のような上衣があったら、もっと早くわかっただろう。

「――神主、さん?」

「いまごろ気づいたのかね。ま、本来は神職というんだが、なんだと思ってたんだ?」

「……下着見た人」

「引っ張るな。ありゃあ事故だ」

 うらめしげに言う悠乃にも男は鼻を鳴らしただけで、彼は手で鳥居を指し示す。

「ともあれ、お帰りはあちら。ついでにお参りしていってくれるとありがたい。賽銭を入れていってくれたら大変にありがたい」

「ぜんぜんお金持ってないです」

 さっき――といっても遠い過去に思えるが――書店でほとんどすっからかんになったのを思い出した。

「そりゃあ残念。またのお越しをお待ちしている。ただし次回からは鳥居をくぐって入ること。でないと、どこへ迷い込んでも知らんぞ」

 男は肩越しにひらりと手を振り、悠乃に背を向けた。

「あっ、ちょっと!」

 悠乃は慌てて後を追う。

 参道を挟んで反対側にある民家のような建物の前で追いつき、男の袖を引いた。

「なんだね、まだなにか?」

「――あります!」

 悠乃はぐぐっと男に顔を近づけ、勢い込んで言う。

「さっきの場所はなんだったんですか? あの桃の木はどういうものなんです? 変な格好の人たちとか、追いかけてきた泥みたいなのはなんなんですか? 教えてください! 知ってるんですよね?」

 男は眉をしかめ、悠乃から逃げるように背を反らす。

「知ってどうするんだ、そんなもん」

「知りたいからです!」

「……あんた、さっき怖がってたじゃあないか」

「怖かったです。死ぬかと思いました。でもそれとこれとは話が別です!」

 男の視線が揺れる。逃げ道を探しているように見えたが、悠乃の手は彼の袖をがっちり掴んでいた。

 やがて男は苦いものでも呑んだような顔をして目を閉じ、それからため息をついて頭をかき、口の中でなにかつぶやいた。「どうせ忘れる」と言ったように聞こえた。

 若い神職は、心底面倒くさそうに言った。


「――ありゃ、異神アダガミだ」


 自分でも理由がわからないまま、悠乃はこくんと唾を呑む。

「あだ、がみ? なんですか、それは」

「いるんだよ。ああいうのが、この世には。人間の知る法則じゃあ計れん連中、常世の住人だ」

「つまり……幽霊?」

 男は首をかたむけて自分の後頭部を軽く叩く。

「死者の霊というニュアンスで言ってるなら否だ。どっちかというと妖怪かな。異界の存在だが、彼らは彼らのルールで『生きて』いる」

「妖怪……」

 今日の午後までの悠乃なら、そんな話を聞かされて信じる気にはならなかっただろう。だが悠乃は充分すぎるほど奇怪な体験をしてしまった。出口のない桜の林、唸る桃の木、人とは違う姿のものども。男の口にした「異界」という言葉が、実感を持って胃の腑に落ちる。

「さあ、もういいだろう」

 黙り込んだ悠乃の手を今度こそ振り払い、男は言った。

「待ってください。まだ」

 言い募ろうとする目の前になにかが突きつけられる。閉じた扇子だった。

「好奇心旺盛なのは結構だがね、お嬢さん。これだけは憶えておきたまえ」

 長い前髪の下から覗く男の目は、硝子ガラスめいた光を帯びている。

 悠乃はそのとき、思い当たった。

 蛇だ。

 男の目は、蛇の目に似ている。そう感じる理由はわからない。日本人の平均からすれば色は薄いが、瞳孔が縦に切れていたりもしないのだが――

 悠乃の耳へ、低くかすれた声が流れ込む。

「――人に見えんもんは、見えんほうがいいからそうなってるんだよ」


 背筋をつたう感覚から逃げるように目を閉じて、ふたたび開けたときには、正面の建物の引き戸が閉められるところだった。

「心配は要らん。いまの疑問は、いずれ消える。見たものも、経験したことも、すべて記憶が、無害なものに浄化する。人は、この世は、そういうふうにできている」

 その声を最後に、悠乃は、宵闇の境内に取り残された。

 どこかから桜の花びらが風に乗って吹き寄せられ、悠乃の髪に散った。



     ◆◇◆



 葉桜になり、五月の連休が来て、雨とともに明けた。

 悠乃は連休前に一度だけ都電線路脇の神社を訪ねたが、若い神主には会えなかった。

 社務所では、普段着の老人がのんびりお守りを売っていた。訊いてみればよかったのかもしれないが、週末昼間の神社はのどかすぎ、尋ねるのがなんとなくはばかられた。それで悠乃は、境内にいた巨大な三毛猫の腹を撫でただけで帰ってきたのだった。

 また来よう、と思ってから二週間ばかりが過ぎていた。




「さっきの古文で、新しい先生が来たのよね」

 三時間目と四時間目の間の休み時間に、小野寺理沙が言った。

 中庭のポプラの葉を叩く雨を眺めていた悠乃は、木の窓枠にもたせかけた上半身を起こす。

 理沙と悠乃は一年生のときに同じクラスだったのだが、今年は別になってしまった。それで悠乃は休み時間には自分の教室を出て、こうして廊下で理沙たちとだべっている。

「新しい先生? こんな時期に?」

 悠乃が疑問を口にすると、理沙は訳知り顔で眼鏡を押し上げる。

「沢谷先生が早めの産休に入ったから、代理で来たんですって。理事長の縁の人だそうよ」

「へえー」

 理沙は情報通というやつだ。情報源は明かさないが、学校内のことからネットの噂まで理沙の知らないことはないと言われていた。

 同じく悠乃と去年クラスメイトだった古賀遥こがはるかが、理沙の横から顔を出す。

「珍しいよね! うちの学校で、おと……もがっ」

 理沙が遥の口を手で塞ぐ。遥は「もがが、もががー!」と暴れ、理沙の手を振り払った。

「もー! 理沙ちゃんひどいよぉー!」

「知らないほうがおもしろいじゃない」

 悠乃は首をかしげた。

「おもしろいって、どういうこと?」

「自分で見ればわかるわよ。悠乃のクラスの古文、次でしょ」

 理沙は悠乃の顔を見て、にやりと笑った。


 四時間目のチャイムが鳴る。前方の引き戸が開けられたとき、悠乃は理沙の言っていた意味を悟った。

 脇に辞書と教科書と出席簿を抱えて入ってきた人物、その長身を目にして、戸惑ったような、あるいは期待するようなざわめきが広がる。黒に近いチャコールグレイのスーツと、レジメンタルのネクタイ。教壇に上がると頭の天辺が黒板の上端に届きそうだ。

「え、珍しい」「若ーい!」「イケメン……!」「そう? 暗くない?」

 スーツの青年が教卓へ荷物を置き、日直の「起立」の声にあわせて少女たちが一斉に立ち上がる。伝統の「ごきげんよう」を唱和して着席したあとも、囁きはなかなか静まらなかった。

 白黎学苑に男性の教師は少ない。その多くが白髪の老人で、若い男性はごく少数だ。少女らは視線を交わしあい、彼女たちのテリトリーに入り込んできた「異物」を興味深げに観察する。

 悠乃もまた驚いていた。ほかの少女たちとは違う意味で。

 挨拶を返した教壇の青年が三十六人の少女に背を向ける。チョークが黒板に触れる音が響き、やがて角ばった癖字で、六つの文字が黒板上に現れた。彼はそこでようやく、教室へ向き直る。

「――諸君」

 かすれ気味の、低い声。

 青年は、いま自分の名前を書いたばかりの背後の黒板を、指の背でとんと叩く。

曲直瀬まなせ燐太郎りんたろうという。おかしな字だが本名だ。かつては曲がるの文字はなかったそうで、どこかの代のご先祖が調子に乗って一文字付け加えたらしい。洒落のつもりだろうが、お陰様でやたらに画数が増えて子孫は迷惑している」

 喋り慣れている口調だ。見た目にそぐわず少し古風な、独特の抑揚のある話し方。

「以前もよそで教師をしていたが、故あってしばらく家業に専念していた。先日こちらの学苑からお声がけをいただき、教壇へ戻ってきた次第だ。諸君の勉学の……」

 声が途切れた。

 長い前髪の陰、彼の目が悠乃を捉えたのがわかった。この距離ではよく見えないけれど、その目はきっと、蛇に似ている。

 青年は戸惑ったように何度か口を開閉させた。しかし、自分に注がれる少女たちの興味深そうな視線に気づいたのだろう。彼は小さく咳払いをして、自己紹介を再開する。

「――あー、諸君の勉学の向上のため尽力させていただくつもりだ。期間限定になるが、どうぞよろしくお願いする」

 悠乃も、ぽかんと開けっ放しだった口をようやく閉じた。

 しかし今度は、なぜか口角が上がるのを抑えられない。悠乃は結局、周囲から不審がられないために教科書で口元を隠すしかなかった。


 胸の内に風が起きた。風はきっと、桜の森から吹いている。

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