桜妖譚 肆

     肆.


 背後に迫りくるもの。

 それは、黒い泥だった。横幅は見渡す限りに広がり、圧倒的な質量をともなって、まるで黒い津波である。

 忘れていた。悠乃はこれに追われていたのだ。男との遭遇で意識の外に追いやってしまったが、危機が去ったわけではなかった。

 泥の波までの距離はふたりから五メートルあまり。全力で走って逃げれば逃げられるかもしれない。しかしそう思った瞬間、黒泥はふたりの直前でどぷんと大きくうねり、意志あるもののように垂直に伸び上がる。

 桜の木よりも高み。黒い夜空を背にした泥は、そこから猛烈な勢いで落下してきた。

「ひええええええ!!」

 悠乃は目をつぶる。

「ルール違反なんだがなぁ……」

 男が立ち上がる気配。


はらたまい清め給え、守り給いさきわい給え!」


 あの黒泥は冷たいのだろうか。それとも温いのだろうか。どちらにせよ巻き込まれたらあっという間に足を取られ、周囲の木にぶつかりながらどこまでも運ばれてしまうだろう。悠乃は衝撃と痛みを覚悟した。

 しかし、予想していたものは襲ってこなかった。

 ゆっくり目を開ける。

 和服の男は、悠乃になかば背を向けていた。

 半身の姿勢で右手をまっすぐ前に突き出し、不思議な抑揚をともなう言葉をつぶやいている。

「かけまくもかしこきいざなぎのおおかみ、つくしのひむかのたちばなのおどのあわぎはらに、みぞぎはらえたまひしときになりませるはらえどのおおかみたち、もろもろのつみけがれあらむをば、はらいたまえきよめたまえと、かしこみかしこみてもうす……」

 彼の手には短い棒のようなものが握られている。

(扇子?)

 奇怪な事態が出現していた。

 男の持っている閉じた扇子の先の中空に、泥が静止しているのだ。

 以前、テレビで「氷爆ひょうばく」というものを見たことがある。厳冬地などで滝が凍りつき、流れ落ちる水がそのまま氷と化したものだ。眼前のものは、それに似ていた。

 しかし泥の濁流は凍っているわけではない。表面が波打ち、うねり、いまもその姿を不定形に変化させている。

 泥は液体のまま、扇子から数十センチのところで押しとどめられているのだ。

「なななな、なにこれ!」

「くっ、あんまり長くは保たんなこりゃ」

 男の頬に汗がひとすじ滴り、顎先から落ちるのが見えた。仕組みはさっぱりわからないが、なんらかの手段で彼が泥を押さえているようにしか思えない。これではまるで悠乃の愛読するファンタジー小説だ。

 その男が、腕を前方にのばした姿勢のまま振り向く。

「……あんた、なにをやらかした」

 長い前髪の下から睨まれているのを感じ、悠乃はぶんぶんと首を横に振る。

「な、なにもしてません! 気がついたら桜しかないところへ迷い込んでて、帰り道がわかんなくなっちゃって、うろうろしてただけで!」

「なにもしてないわけあるか! ここのアダガミがこんなに活性化することなんざいままでなかっ……」

 男の声が途中でしぼんだのは、悠乃があまりにも情けない顔をしていたせいだろう。冷静に答えようと思うのに、声が震えた。

「な、なにを言われてるのかもわかんないです! わたしはただ……帰りたいだけなのにっ」

 男は姿勢を変えずにため息をついた。左手でがりがりと頭をかく。「悪かった」という言葉はやや不明瞭だったが、ちゃんと悠乃に聞こえた。悠乃は小さくうなずき、鼻をすする。

「――楔を傷つけたかね」

 いくぶん柔らかい声色で男は問う。

「くさ、び?」

「常世の……いや、わかるように言おう。桃の木だ。巨大な」

 泥が襲ってくる直前に見た、あの木のことだろうか。桜と違うということはわかったが、そういえばあの濃い紅色は桃色だ。

「その木なら、見ましたけど。傷つけたりしたおぼえは……」

「触ったか?」

 悠乃は頷いた。触れた木肌の熱さを思い出す。

「それだな、たぶん。あんた、楔の欠片を持ってきちまったんだ」

「そんなことしません!」

「あんたにその気がなくても、そう看做されたんだろう。常世の住人は理不尽なんで、な……っ」

 不意に男ががくんと崩れた。立ち上がろうとしたようだが、その場に片膝をついてしまう。

「え、ちょ、大丈夫ですか!?」

 駆け寄ろうとした悠乃を男は手で制する。男の横顔は、重いものでも支えているかのように歪んでいた。

「大丈夫だが、大丈夫じゃあない。限界だ」

「ええ!?」

「俺じゃああれを押しとどめておけん。本来、ことわりに反しているのは我々のほうだからな」

 泥の表面が扇子の先で激しく揺れている。いまにも決壊しそうだ。悠乃は立ち上がって男の左腕をとる。

「逃げないと!」

「ここは楔座くさびざだ。現世うつしよの理は通用しない。逃げても無駄だ」

 男の言葉は理解できないが、質問する余裕はなさそうだ。

「じゃっ、じゃあ、どうすれば!?」

「あんたが持ってきちまったもんを返せ」

 悠乃は目を見開く。

「なにも持ってきたりしてないって言ったじゃないですか!」

「あちらさんはそうは思ってないと言っただろう」

 男が顎をしゃくった先で泥の濁流が激しく暴れている。見ているだけで気が遠くなりそうだ。

「――いいかね、お嬢さん。世界はことばでできている」

 前髪の陰の瞳が、悠乃をひたりと射る。


「口に出せば、詞は現実になる。あんたの詞は、世界に開示するあんたの意志だ。だが、思ってるだけじゃあ駄目だ。そいつを声に出せ。詞にしろ――お返しします、と」


「ことば、に……」

 悠乃の喉の奥で声がひりつく。

 とどまっていた泥がちぎれて、悠乃と男の上にふりそそぎはじめていた。地面にぶつかった泥は、その場でうねうねと蠢いている。どう見ても普通の液体などではない。こんなものに呑まれたらどうなってしまうのか。

「早く!」

 男の声が焦りを帯びた。

「言え! あんたにしかできんことだ!」

 悠乃は唾を飲み込んだ。両手の拳をぎゅっと握る。眼前の泥を見上げる。

 なかば叫ぶように。


「おかえし、します……!」


 次の瞬間。

 視界いっぱいに広がっていた泥が猛烈な勢いで集まり、巨大な波濤を形成した。海外のサーフィン映像に出てくるような波だ。泥は空中の一点に収束し、そのまま落ちかかってくる。

 悠乃を目指して。

「うそおおおおおおおお!! 声に出せば大丈夫だって言ったじゃない!!」

「大丈夫だと言った憶えはない」

「嘘つき――――!!」

 とっさに顔の前に両手を掲げた。泥の奔流が迫りくる。

 衝撃。

 泥の矢が、悠乃の右手に突き刺さる。手のひらから腕へ、そして肩へ、腹へ、その先へ。

 巨大な質量をもったものが全身を駆け抜ける。声を出すどころか呼吸もできない。

 爆発的なエネルギーにさらされる数瞬の間に、悠乃は視た。

 流れ来る――大地を削り――川底に停滞する――種――幹――枝――――

 やがて視界が薄紅に染まる。青い空に伸びゆく枝、枝を埋め尽くす花、花、花。

 花びらが風にさらわれる。

 淡い花びらは薄紅の嵐となって、遠い里まで運ばれていった。

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