第壱帖 桜妖譚《おうようたん》

桜妖譚 壱

 新木悠乃しんきゆのは、メジロだった。


 ぽってりした薄紅色の花塊が揺れている。

 午後の日差しに透ける花びらは、五弁が集まって花となり、花が集まって枝先にまるい塊をいくつも形作っていた。

 悠乃は、抹茶色の翼を小刻みにはためかせ、白い輪に囲まれた黒目をまばたかせて、枝から枝へと飛び移る。彼女のささやかな体重を支えるたび、ゆらゆらと枝が揺れた。

「……さ……」

 花の中心には濃い紅色が灯る。そこに蜜をひそませていることを、鳥たちに教えているのだ。

「……きさん」

 悠乃はその紅色にくちばしを差し込み、甘露な蜜を、思う存分にすする――




     壱.


「新木さん!」

「ひひゃいっ!」

 悠乃は、窓の外へ向いていた顔を勢いよく方向転換させた。

 高い位置でふたつに結んだ髪が遅れて回転し、左のテールが慣性の法則に従って悠乃の顔を打つ。

「へぶっ」

 教室内に失笑が漏れたが、教壇の端に立った女性がひと睨みすると静かになる。

「あ、あれ……?」

 悠乃は周囲を見回した。

 さっきまで小鳥になって花の中を飛び回っていたはずだが、これはどうしたことか。

 白い漆喰の壁と、飴色の床の教室。前方の黒板には英文と解説が書かれている。古風な格子のはまった窓が薄青の空と満開の桜をいくつもの矩形に切り取り、四月の午後の日差しを室内へと送り込む。

 悠乃はその窓際の席で、三十五人の少女とひとりの女性の視線を一身に受けていた。

 鶴のように痩せた初老の女性は、地味なワンピースの胸元で腕組みをし、ため息をつく。

「新木さん。いまがどういう時間なのか、わかっていらっしゃらないようね」

 そこでようやく、悠乃は自分の所在を思い出した。

 いつ。六時間目の授業中。科目は英語。

 どうした。窓の外を眺めて空想をふくらませていた。

 なぜ。授業が退屈だったから。

 特記事項。英語担当教師の和田は、不真面目な生徒に厳しい。

「あっ……え、えーっと……」

 ピンチである。

 英語教師は廊下の隅のゴミを見るような目で悠乃を見た。ことさらにゆっくりと、ねばつく口調で彼女は言った。

「新木さん。ご存じないようですから、お伝えしておきましょう。いまは、授業中です。あなたの義務は、授業を聞くことです。おわかりですか?」

 反論の余地はない。

「はい」

 和田は重々しくうなずき、手元の付箋になにごとか書きつける。

 教室は静かだ。白黎学苑はくれいがくえんに通うお嬢さま方はしつけがいい。怒るとヒステリックにわめく英語教師を恐れているだけかもしれないが。

 和田は教卓の前へ戻りながら付け加えた。

「いいですか、淑女たるもの、日々の姿勢こそが大事なのです。外での振る舞いに、必ず表れます。我が校は、慎み深い女性を育てる伝統ある学校です。こういうご時世にあえて我が校を選ばれた、ご両親のお気持ちを考えるように」

「……」

 授業が再開された。

 しばらくは文法の解説を聞いていたが、やがて悠乃の意識はふたたびさまよいはじめる。

 いい天気だ。こんな日には、桜の咲く公園の芝生でゆっくり本を読みたい。東京の学校のつねでたいして広くない校庭を挟んだ向かい側には、ステンドグラスの窓を持つ図書館がある。その入り口横のベンチも、いい読書場所になるだろう。

 鞄の中には、先週訳が出たばかりのイギリスのファンタジー小説が入っている。昨夜は主人公一行が城の地下牢に閉じ込められたところで寝る時間になってしまったから、早く続きが読みたい。

 さっきの轍を踏まないため視線を流れさせないよう注意して、悠乃は想像だけをふわふわと遊離させた。




 放課後。教室を出て隣のクラスを覗くと、まだホームルームをやっていた。

 教壇にセルフレームの眼鏡をかけた生徒が立っている。小野寺理沙おのでらりさだ。悠乃の数少ない友人のひとりである。

(おー。理沙、今年もクラス委員なんだ)

 ホームルームの議題は来月の球技大会のチーム分けであるらしい。クラス替え直後だというのに、やる気のあることだ。

 話し合いはなかなか盛り上がっているようで、理沙がなにか言うと教室にいっせいに笑いが起きる。

(まだかかりそうかな)

 悠乃はそれ以上理沙を待たず、手すりに曲線の装飾がある階段を降りた。

 昇降口で外履きに履き替えていると、同じクラスの生徒がふたり連れでやってきた。彼女たちは悠乃の姿を見て、おしゃべりの声を止める。こちらをうかがうような視線を感じつつ、悠乃は足元の鞄を取り上げた。

「……新木さんって、ひとりで帰るの?」

 不意に、クラスメイトの片方が尋ねた。わずかに嘲りをはらんだ口調だ。

「そうだけど」

 もうひとりの生徒、痩せたほうの子が、やめなよ、と言いたげに友人のセーラー服の裾を引っ張っている。話しかけてきたほうの少女は相方の様子に構わず、意味ありげに微笑して「ふーん」と言った。

 悠乃は学校指定の鞄を肩にかけ、同級生に「バイバイ」と手を振る。痩せた生徒は少し面食らった顔をしたあと、つられるように手を振った。もうひとりは悠乃にちらりと視線を投げ、「ごきげんよう、新木さん」と言った。

 鞄を担ぎ直して外に出る。春風が柔らかく頬を撫でた。

 振り向けば、昭和初期に建てられたという校舎が見下ろしている。細い線の入った柱や、煉瓦の積まれた外壁がエレガントだ。

 校庭の手前に設置されたテニスコートから、テニス部のリズミカルな掛け声が聞こえてくる。帰宅する少女たちは数人ずつ連れ立って、ときおり華やかな笑い声を上げる。

 タイル張りの前庭を歩きつつ、悠乃は嘆息した。

 中学一年からこの学校に通い始めて、五年。女子ばかりの環境や独特のしきたりにも慣れたはずだが、いたって庶民的な家庭に育ったと自認する悠乃には、自分は場違いだという気分がいつまでたっても抜けない。

 煉瓦づくりの校門を抜けて視線を上げると、空にけぶるような薄い雲がかかっている。

(本屋さん、寄って帰ろうかなあ)

 鞄の中の本を読みたい気持ちはあるが、すぐ電車に乗りたい気分ではない。せっかくの春の日なのだ。

(よし、今日は寄り道!)

 そう決めると気分が少し軽くなった。

 プリーツスカートの裾をひるがえし、てくてく歩く。大きな寺の前を過ぎ、三十キロ制限の道を通り抜けると白山通りに出る。ここ豊島区から、文京区、千代田区と貫いていく、片道三車線の広い道である。今日もいつもどおり渋滞していた。

 JRの駅は右手方面だが、悠乃は左へ足を向けた。

 白山通りからささくれるようにして分かれた通りの入り口に、古くさい電球のついたアーチがかかっている。アーチの上部は妙な形状に張り出しており、よく見れば富士山の形をしているのがわかる。

 レトロな書体で『幸先通さいさきどおり商店街』とあった。

 人混みに吸い寄せられるように、悠乃はアーチをくぐった。




 幸先通り商店街は、昔ながらの商店街である。もとは江戸時代、旧中山道の休憩所として発展した。地蔵寺を中心にした全長ニキロほどのあいだに、中小の店がひしめきあっている。

 悠乃はこの商店街を歩くのが結構好きだ。老人の多い町として全国的に有名な幸先通り商店街には、明らかに対象年齢が高すぎる店もあるが、招き猫や和風の小物を置いている店などは眺めていて楽しい。地蔵寺の周辺には一年中屋台が出て、ファンシーなデザインのお守りを売っていたりする。

 悠乃は団子屋や漬物屋の前を通りすぎ、商店街の奥を目指す。和菓子屋の前を通ると煎餅を焼く香りが鼻孔をくすぐって、思わず吸い込まれそうになった。

(だめだめ。今日は本屋さん、本屋さん)

 悠乃の目当ての書店は商店街の一番奥、都電の停留所のすぐ手前にある。

 学校の教室より少し狭いくらいの店内。通りに面した側に雑誌のスタンドが並ぶ、町の本屋だ。看板に『森羅万象堂』とあり、なかなか大きく出ている。

 池袋へ出れば大型書店がいくつもあるのだが、悠乃はこの店が気に入っていた。雰囲気が落ち着いているし、古めかしい見た目のわりに新刊本もちゃんとある。

 今日も、買い続けている漫画の新刊と気になっていたミステリー小説が文庫化されているのを見つけた。少し迷い、悠乃は漫画を買った。財布の中身は心もとなくなったが、満足して店を出る。

 雲のふちがほんのりと紫色に染まっていた。そろそろ夕方だ。商店街の人通りが増え始めている。王子方面から来た都電が停留所に停まり、ベルを三度鳴らして、池袋方面へ去っていく。

 あまり遅くなると電車が混む。悠乃は書店の袋を鞄にしまい、JRの駅へ向かおうとした。

 そのとき目の端を、なにかが横切った。

(ん?)

 ひらひらとした、薄紅色のもの。

 いずこかから桜の花びらが吹き寄せられてきたのかと思ったが、どうも違うようだ。悠乃の目の高さよりもだいぶ下、地面近くをすべるように動き、薬局の角に消える。

 原色の看板が並ぶ商店街の中にありながら、それは奇妙な存在感をもって悠乃の視線を惹きつけた。

 悠乃はなにかに引き寄せられるように、薬局の角を曲がった。

 とたん、オーディオのボリュームを絞ったように商店街の音が遠くなる。

 目の前に現れたのは、予想外の光景だった。

「……わ」

 ――緑色の塊だ。

 道路の端から苔に覆われた土の斜面がだしぬけに始まり、まもなく森といっていい密度で木が茂り始める。高さはあまりないようだが、傾斜はそこそこ急に見えた。

 お椀を伏せたようなかたちの丘が、商店街のはずれに忽然と出現していた。

 丘の中央に細い石段が刻んである。その一番下に、石造りの鳥居があった。

(これ、神社?)

 丘を見上げても建物は見えない。鳥居の脇に建っている石碑には、『水秦神社』とある。

(すい、たい……ううん、みずはた?)

 ふたたび視界の端を薄紅色がかすめた。悠乃ははっと顔を上げた。

 木の陰に、小さなものがいる。

(……女の子?)

 五歳にはなっていないだろう。おかっぱ頭の女の子が、丘のふもとでこちらをじっと見ていたのだ。女の子は薄紅色のワンピースを着ていた。

 少女と悠乃は、しばし見つめ合った。黒目がちの大きな目。

「あっ、ちょっと!」

 少女はふいと視線を逸らし、木々の隙間に消えた。

(大丈夫なのかな)

 森以外、なにもないところへ飛び込んだように見えたのだが。

 悠乃は左右を見渡した。しかし周囲に少女の保護者らしき人物はおろか、人影ひとつ見受けられない。すぐそこの角を曲がれば幸先通り商店街だというのに。

 見上げれば空の薄青は後退し、群青と紫のグラデーションになっている。夕暮れが近い。小さな子どもがひとりで出歩く時間ではないように思える。

 悠乃は頭を上げた。ふたつに分けた髪がぴょこんと揺れる。

「……うう、やっぱり心配だー!」

 歩道をはずれて丘に足をかけると、ローファーが腐葉土に沈む。悠乃は足を前へ進めた。

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