アダガミ異聞
狸穴醒
序
遠雷《とおいかづち》
「もういいかい」
「まぁだだよ」
「もういいかい」
「まぁだだよ」
「もういいかい」
「もういいよ」
目隠しをやめて振り向いたら、世界の様相が変わっていた。
誰もいない。
商店街のはずれの児童公園だ。空は朱色から紫、群青へ変化するグラデーション。夕日が鉄棒やジャングルジムを橙色に染める。
さっきまで表通りの車の音や都電のベルの音が聞こえていたのだが、ぱたりとやんでいた。
かわりに、耳の奥でごろごろと唸るような音がする。
(ああ、まただ……)
もうじき十歳になる彼は、年齢に似合わない諦めの表情を浮かべて土に座り込んだ。
ここはいつもの公園ではない。見た目は同じだが、違う場所なのだ。彼は知っている。ここに、人はいない。
以前迷い込んだときは、闇雲に歩き回っているうちにもとへ戻っていた。その前のときはまだ五歳くらいで、泣き疲れて眠り、目が覚めたら元通りだった。どちらにせよひどく時間がかかったのを憶えている。
(めんどくさいな)
そのとき、ぞわ、と首筋の毛が逆立つような感覚。
振り向いた。
自分の影が長く伸びている。座り込んだ彼の丸い頭と楕円の胴体が、縦に引き伸ばされたかっこうだ。
その影に、腕が生えた。
彼は動いていない。影は持ち主に追従するはずなのに。
そも、影の腕は人の腕ではありえない形状であった。鞭のようにしなり、先端は五本に分かれてばらばらの方向へ蠢いている。
「……げっ」
彼は慌てて立ち上がった。一方、影はもはや主にあわせる気はないようで、その場にとどまって腕を揺らす。
影の腕が、ぶんと振られた。
腕は地面にはりついたまま、鉄棒から伸びる影をかすめる。
直後、彼の横の鉄棒が弾けた。支柱が斜めの断面をさらし、派手な音を立てて崩れ落ちる。さらに腕が振られ、同時に立木の太枝が落ちた。
「なんだあれ!」
彼は逃げ出した。どう考えても安全なものではない。
すぐ脇でブランコの鎖が断ち切られた。
(追っかけてくんのかよ!)
公園の入り口へ向かって走りながら、ここから抜け出す手間を思って暗澹たる気分になった。前みたいに何時間も歩きまわらないと戻れないのなら、そのあいだ、あの影から逃げ続けなければならないのか。
追いつかれたら、どうなってしまうのだろう。
(じょうだんじゃないぞ!)
ふと彼は、公園の入り口に誰か立っていることに気づいた。いままで、ここで人に会ったことはなかったのだが――
ほっそりした人影は、彼と同じくらいの年頃の子どもだった。
少女だ。
白い着物。赤い袴。顎先ですっぱり切った黒髪。
少女は、す、と片手の指先を上げた。
そしてあどけない、けれど凛とした声が、
「
背後で、自転車のタイヤから空気の抜けるような音がした。
振り向くと、奇怪な腕をもつ影は消え失せていた。
彼自身の影が、なにごともなかったようにそこにいる。破壊された遊具だけが異変を伝えていた。
彼は一度立ち止まり、深く息をついた。どうやら助かったらしい。
そしてゆっくり、少女に向かっていった。
「……
彼が言うと、少女は人形のように整った顔に微笑を浮かべた。
「帰りがおそいから、おじいちゃんがむかえに行けって。また、こんなところで遊んでたの? あんなにおこられたのに」
夕日のものだけではない朱色が、彼の頬にさす。
「お、お、おれだって、好きでこんな場所に来てるわけじゃねーもん! 気がついたらかってに来ちゃうんだよ!」
腕を振り回して実体のあるものを破壊する影は、少女の
少女は大人びた顔でため息をつく。
「修行が足りない」
「う、ぐ」
彼は黙り込む。少女はその様子を見て、くすくす笑いだした。
「はんせいした?」「……した」「よろしい」
少女の手が、彼へ差し出される。
「おうちへ帰ろう、
◆◇◆
ときとして常世は現世に楔を穿ち、現世を蝕み、現世のものを変質させる。
場が、獣が、草木が、人が、常世にあてられ、異質なものに化ける。
異神と化せば、もとがなんであれ現世の
現世は有限。常世は無窮。
現世は常世に浮かぶ、小さな島のようなもの。
広大無辺の常世を前にして、かつて人は、現世をつなぎとめる手段を見つけ出した。いや、人がつなぎとめる手段をもったから、現世が在るのか。
それこそが
ゆえに人よ、存分に語れ。
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