桜妖譚 弐
弐.
(こ、これはちょっと……!)
思った以上に丘は急だった。
「わたたっ」
転びかけ、両手を上げてどうにかバランスを取る。足元が悪い。
斜面は椚や楢の雑木林になっている。地面を悠乃の腿くらいの太さの根が這い回り、平坦な場所が少ないくらいだ。
見上げると、鬱蒼とした葉の隙間から群青色の空が覗いていた。
(暗くなって来ちゃったなぁ……)
東京の夜は明るい。新宿や池袋のビル群が煌々と空を照らし、住宅地にはコンビニが必ずあり、街灯も多く、日が暮れても暗さを実感することはほとんどない。
しかし林の中には、夜の気配が忍び寄っていた。商店街のざわめきすら木々に遮られ、この場所には届かないようだ。
(あの子、ほんとうにここを登ってったのかな?)
ひどく無駄なことをしている気がしてきた。悠乃はともかく、この斜面は子どもが登るにはハードすぎる。さっき見かけた少女はどう見ても学齢前で、この丘を登る体力があるようには思えなかった。森に入ったように見えたのも、悠乃の気のせいかもしれない。
(まあ、気のせいなら、それでもいいか)
なにもないならそれに越したことはない。
しばしば躓き、膝をすりむきながら、悠乃は丘の上を目指した。あまり先を見ていると転ぶので足元に集中し、自分の爪先だけを見て足を上へ進める。木の根をまたぎ越し、土に靴を持っていかれないように注意して、無心に登る。
「わわっ」
思わず声が出た。
楠の根を乗り越えたところで、いきなり地面が平らになったのだ。
悠乃は視線を上げた。
――白いふわふわしたものが、闇の中に浮かび上がっていた。
「桜……?」
満開の、桜だ。
二十本ほどもあるだろうか。丘の頂上、雑木林に抱え込まれるようにして、くろぐろと枝を伸ばしている。ほとんど白に見える花が内側から光を放つようだ。
この場所では斜面が邪魔をして、ふもとから見ることはできないだろう。
(きれい!)
悠乃は桜の林に踏み込んだ。その場でくるりと回転する。ふたつに結んだ髪が広がった。音もなくはらはらと降り注ぐ花びらを、手のひらを上向きにして受け止める。なりゆきで来てしまったが、こんな眺めを味わえるなら運がよい。
「あ、あの子!」
それで思い出した。ここまで登ってきたのには目的があった。あの少女はどこに行ったのだろうか。
悠乃は手のひらの花びらを落とすと、ぐるりと周囲を見回し――絶句した。
一面の桜の林だった。
悠乃は雑木林の丘を登ってきた。ほんの数メートル後ろからは、木々に覆われた斜面が始まっているはずだ。
しかし、ない。
悠乃の前も後ろも、右も左も、満開の桜の木だけが続いていた。
「うそ」
悠乃は口を半開きにしたまま方向転換した。来た方と思われる方角へ数歩進み、小走りになって、それから駆け出す。
(なにこれ。なにこれ!)
桜の下を走る。どちらかへ進んでいけばいずれ端に行きつき、下りになるはず。それを信じて悠乃は走った。しかし一向に斜面に至らない。どこまで行っても桜。桜。桜だ。
息が苦しくなってきた。悠乃は徐々にスピードを落とし、立ち止まる。
(どうなってるの?)
見上げても闇夜を背景に、ただ桜の花が続くばかり。
おかしいといえばこの暗さもおかしい。丘を登り始めたときには夕焼けが始まりかけていた。だが、あれから一時間も経っていない気がするのに、すでに真夜中のようだ。
(いま、何時だろ)
知らないあいだに時間が過ぎてしまったのだろうか。悠乃は鞄のポケットからスマートフォンを引っ張り出した。
「あ、あれ?」
取り出したスマートフォンは、画面が真っ黒だった。
電源ボタンを押してみても反応がない。ちゃんと充電してから持ち出したはずだが、これでは時間の確認も地図アプリの参照もできないし、母親が心配して電話してきても反応できない。
「どうしよう……」
もはや少女を探すどころではない。悠乃のほうが迷子になってしまった。
いや、迷子というより遭難か。好奇心によって引き起こされるトラブルならずいぶんと経験したが、学校の近くの商店街で遭難するのは初めてだ。
聞きなれぬ音が耳に飛び込んできたのは、そのときであった。
しゃん、しゃん、と。
鈴の音のようだ。それも、たくさんの鈴を重ねたような。
(誰か、いるの!?)
希望が灯る。人がいるのなら道を尋ねることもできる。悠乃は音の聞こえたほうへ早足で歩き出す。
体感で五分も歩いただろうか。
代わり映えのしない桜の林の向こうに、黒い人影を悠乃は見た。
しかもひとりではない。十人前後が縦一列に並んで、斜め前から横切ってくるのだった。一定間隔の鈴の音、衣擦れの音と、土を踏む音がする。話し声は聞こえない。
(よかった!)
あの人たちに道を訊こう。悠乃は目に留まりやすいよう片手を挙げ、声をかけるために一歩踏み出す。
「!」
突然スカートがぐんと重くなり、悠乃はつんのめりかけた。
枝にでも引っ掛けたかと思い、振り向いたところ。
――そこに少女が、いた。
大きな黒い目と、薄紅のワンピース。おかっぱ頭のてっぺんは悠乃の腰の高さ。
悠乃のスカートを握った少女がこちらへ視線を合わせ、人差し指を唇にあてる。それで悠乃は、開きかけた口を閉じた。
(さっきの子だ! でも、なんで?)
疑問だらけの悠乃をよそに少女は唇から指をはずし、今度は前方を指す。悠乃はその指先を目で追った。少女の指が示すのは、列をつくって歩く人々――
いや。
悠乃はそのときようやく、列の異常さに気づいた。
列の先頭を歩く人物は、貫頭衣のようなものを着て手に金属製らしい長い杖を持っている。杖の先端は環になっていて、小さな環がいくつもはまっていた。鈴のような音の出処はあの杖であるらしい。
しかし、その頭部は。
――つややかな短い黒い毛がびっしり生えた、鼻の長い顔。小さな耳がぴんと立っている。太い首は顔とほぼ同じ幅。その頭部は、大型の草食獣のそれだった。
人の身体に、馬の頭。
そんなパーティーグッズを、悠乃は池袋の東急ハンズで見たことがある。だがこの馬は長い睫毛をせわしなく上下に動かしていた。かぶりものは、瞬きをしない。
悠乃は口元を押さえた。そうしないと叫んでしまいそうだった。
手近な桜の木の陰で姿勢を低くする。悠乃の中の生物としてのなにかが警鐘を鳴らしていた。きっと、見つかってはいけない。
(なに……あれ……)
いっぱいに目を見開いて、列を観察する。
馬人間のあとに続くのはやけに背の高い人影だった。しかしその身体は、悠乃の目がおかしくなったのでなければ、紙のような厚みしかなかった。背が高すぎるので頭が桜の花の中に突っ込んでいて、顔は見えない。
その後ろには一転して子どものように背の低い人影。だが頭が大きすぎて肩幅からはみ出している。しかもその顔は、しわくちゃの老人だ。
しゃん、しゃん、と音を鳴らしながら、無言の列は続く。
それ以上見ている勇気がなくて、悠乃は列から視線を外した。
背後にいたはずの少女の姿はどこにもなかった。
なんとなくそんな気はしていた。異形のものたちに背を向け、足音をひそめて、列が向かう方角と逆側へ歩き出す。歩きながら悠乃は、ある考えに至らざるを得なかった。
――この場所は、自分の自分の知る世界ではない。
悠乃のお気に入りの児童文学に、クロゼットの奥が異世界につながっているというものがある。悠乃は自分でも気づかないうちに、世界の壁を超えてしまったのかもしれない。
しかしクロゼットを通って白い魔女が支配する世界へ行った子どもたちは、山羊の脚を持つ住民に歓迎されて暖かい家に招き入れられるのだ。ここには桜の木以外になにもないし、さっきの馬人間が悠乃に飲み物を出してくれるとは思えない。
(どうしたらいいんだろう)
考えても答えは出ない。悠乃は闇雲に、足を交互に動かすしかなかった。
風景に変化がもたらされたのは、しばらく歩き続けたあとだった。
これまで桜の木同士は、五メートル程度の感覚を置いて立っていた。その間隔が広くなったような気がする。
やがて桜の木が途切れ、円形の広場のような場所に出た。中央に、ひときわ大きな木が立っている。
その木は、桜の木ではなかった。
枝ぶりは桜に似ているが、枝を埋めるように咲く花は桜よりもっと濃い色だ。
(すごい、立派な木。見たことあるけど、なんの花だっけ)
幹の太さは悠乃の両腕で抱えきれないだろう。太い枝が悠乃の頭上高くで何度も分かれ、表面はごつごつとして、相当樹齢が古いように見える。ここだけ空き地になっているのも、まるで周囲の桜の木を従えているようだ。堂々たるたたずまいには神聖さすら感じ取れるのに、どこか人を惹きつける。
魅入られたように、悠乃はその木肌に手を伸ばした。
手のひらが触れる。
びりっと、電流が流れたような感覚。
「うひゃっ!」
慌てて手を引っ込めた。木の表面は予想に反して熱く、真夏の炎天下にあぶられた車のバンパーのようだった。触れた手までが熱を持ってしまったようで、悠乃はじんじんと痺れる右手を見つめた。
ぐおん。
上から不意に唸るような音が聞こえた。
(今度はなんなの)
見上げると、巨木に咲いた花が光っていた。クリスマスのイルミネーションのように一定間隔で明滅する。その光が強くなるたび、ぐおんぐおんと音が聞こえるのだ。
さらに、その音にかぶせるようにして別の音も聞こえ始めた。
はじめはごそごそ、がさがさと遠くでなにかが歩き回るような音だった。その音はすぐに音源を増やし、重なり合って、大勢の足音のようになった。
やがて果てることなく続く桜の林の向こうに、黒っぽい影が見え始めた。
彼方からなにかが迫ってくる。
(なに、あれ)
黒く不定形の――泥のようなもの。それが悠乃の視界の幅いっぱいに広がり、木々の間からにじみ出て、競歩の速度でこちらへ向かってくる。
(なにあれ――!)
逡巡は一瞬だけ。悠乃はくるりと方向転換し、迫りくる黒泥から逃げ出した。
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