洞窟に咲く花

「おやめください姫さま、そのような――」


 ついにイヨナさまの指先が私の背中に触れた。恐る恐る遠慮がちに一度離れてはまた触れる。

 なぜ、このようなことを。私が城へ戻るよう言ったからか? もう二度と会えない私への報酬のつもり? 馬鹿なことだ。金銭に替わるものとして自分の身体を指すなんて。


「そのような、娼婦のような真似はおやめください」


 私が咎めると、背中に感じていたイヨナさまの指先がふっと離れていった。振り向くと、顔を耳まで赤くしたイヨナさまが、だのに唇は凍えるように震わせ、たじろいでいた。そして足元に落ちている服に踵が当たると、ハッと気がついたように拾い上げ、何も言わずに走り去ってしまった。


 一瞬、動揺のあまり思考停止してしまったが、すぐ我に返り立ち上がる。ここは安全な街ではない。どこに魔獣が潜んでいるかわからない洞窟の中なのだ。いかに姫さまが人間離れした聴覚を持っていても、魔獣がもつ魔力を視ることができても、暗闇のなか岩陰に息を殺して隠れている魔獣に気付ける確率はどれくらいだ。

 私はすぐに駆け出したがイヨナさまはすでに闇に飲み込まれてしまって、前方から聞こえてくるぺたぺたという足音だけを頼りに私は彼女を追った。



 イヨナさまがいたのは泉の、元いた位置から対岸にあたる場所だった。アルリのそばに置いてきた松明の灯りが、闇にぽつり浮かんで見えた。ばらばらに離れていては危険だ。早く戻らなければ。


「イヨナさま――」

「ごめんなさい。すぐ戻ります」


 私が何か言う前にイヨナさまが先回りをするが、その声は震えていた。対岸の松明をチラチラと横目で確認していると、ようやく頭が冷えたのか、イヨナさまは落ち着いた様子で口を開いた。


「ジルは、わたくしと………………わたくしの護衛など、すぐに辞めてしまっても良いと考えているのですか。あんなにあっさり言って」


 とても寂しげで、悲しげで、悔しげだ。


「そのようなことはありません。ユドラウさまに誓った通り、私もイヨナさまの護衛騎士で有り続けたいと思っています」

「忠義心だけなのですか? わたくしの護衛騎士を続けたい理由は、お祖父さまへの忠義心ゆえだけなのですか?」

「いいえ、違います。だからこそ私は別離を決意したのです。私が傍にいてはイヨナさまは宮廷に戻ることはできない。私の傍にいては、イヨナさまはずっと危険に巻き込まれ続けてしまいます。今までは何とかお護りできましたが、それがずっと続くとは限らない。回避できたはずの危機に、主君を晒すことは、私が姫さまの護衛騎士だからこそ看過できないのです」

「わたくしだって、成長しています! 今はまだ足手まといだと自覚していますよ。獣が落ちれば尚の事そうでしょう。けれど頑張って、いつか肩を並べられるように、ジルが背中を預けるに足るパートナーになってみせます!」


 イヨナさまは必死に訴えかけた。たかが騎士ごときに、縋り付くような表情を見せるなんて。 


「……イヨナさまは皇族です。騎士に懸想など、しては駄目だ。その想いは気の迷いです」


 思わず口をついて出てしまったが、私は即座に後悔した。イヨナさまはまだ、ご自身の感情の名前を知らなかったのに。


「懸想…………ああ、今わかりました。この気持が、恋だったのですね」


 驚いたイヨナさまは、それから胸に手を当て、まるで鳴り続ける鼓動に問いかけるように呟いた。

 墓穴を掘ってしまった。


「と、とにかく、残してきたアルリが心配です。早く戻りましょう」


 私は踵を返しイヨナさまに背を向ける。


「……はい」


 と、返事をするイヨナさまは、いったいどのような表情をしているだろう。私には見当もつかなくて、想像するだけでも胸が痛くなる。とにかく今は、イヨナさまが気持ちに整理をつけ、言葉を見つける前にアルリと合流したい。アルリと三人でいれば、イヨナさまも流石に話を蒸し返すようなことはしないだろう。




 アルリを起こした後、私たちはすぐに先へ進んだ。ここはもう、すでに一般の巡礼者は立ち入れない深層。最奥へと向かう巫女や神官だけのための道だ。だからこんなにも細いのか、あるいは細いからそういう道になったのか、それは分からないが、天井も剣を掲げられないくらい狭くなって、道幅も三人が横並びになれないくらい狭い。

 泉を立って四半刻経ったくらいだろうか、周囲の雰囲気に異変が起こった。


「ずいぶん魔力が濃くなってきましたね」


 入り口から徐々に変化していたのだろうけれど、それがようやく肌で直接感じられるようになった、というところか。きっとここは小さめの魔力溜りなのだろう。魔力溜まりは普通、人間が立ち入れないほど濃い魔力に満ちているが、ここはそれほどでもない。身体全体で圧迫感を感じるということは、属性は土属性だ。今まで遭遇した魔獣がすべて土属性だったのはそういうことだったのか。


「イヨナさま、視界のほうはどうですか?」


 振り返って尋ねると、イヨナさまは目を凝らして暗闇を凝視した後、諦めたように首を横に振った。


「……駄目です。見える範囲ぜんぶが橙色一色です。これでは魔獣を見つけることができません」


 頼りの眼を失ってしまった私たちだったが、その心配はすぐに掻き消された。新たな緊張によって。狭い通路の向こうに、夕日のような光が見えたのだ。 最初はぼんやりとしていた光も、近づくにつれ大きく、光度を増していく。そしてようやく細道を抜けた私たちは、なんとも神秘的な光景を双眸に映したのだった。


「うわぁ」


 思わず感嘆の息を溢してしまう。


「綺麗です」

「これは……」


 ぽっかりと空いた空間に広がる光る花畑。まるで夕日が照らす白百合畑のよう。いいや、暗闇に浮かび上がるそれは、いうなれば炎の花だ。浮足立つふたりの少女たちの背中を見守りながら、私は花畑を歩いた。


 ちょうど真ん中辺りまで来ただろうか。すでに来た細道は見えず、かといって往く先も見えない。いつまでも綺麗だと口々に言っているふたりを咎めようと口を開きかけた時、花畑の光がざわりと揺れた。こんな地下だ、風など吹くはずがない。


「ふたりとも、何か来ます!」


 言い切るまでもなく、すでにイヨナさまの目つきは変わっていた。 


 ……この広さ、群れるタイプなら厄介だな。


 やがてどこからか潮騒のような音が聞こえはじめた。それは徐々に近づき、花畑の光が呼応して向こうから順々に消えていった。まるで闇が迫ってきているような。しかしそうではなかった。


 我々の前に現れたのは、見上げるほど大きなサソリのような魔獣だった。大きく鋭い二つの鋏は暴君の証。反り返る尾針からはポタポタと液体が滴り、カチカチカチと気味の悪い音を鳴らして開かれた口からは、獰猛さを見せつけるように禍々しい牙が粘液の糸を引いて出現した。


「ジ、ジルさん」「……ジル」

「ええ、わかっています」


 それぞれの武器を構えながら三人で背を預けあう。


 私たちは四体の巨大サソリに囲まれていた。

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