新たな呪い
■
わたくしは、また新しい呪いにかかってしまいました。
戦いがあったあの部屋に、わたくしに呪いをかける魔術師の方なんていなかったように思うのですけれど。もしかしたらお兄さまが? いいえ、お兄さまは軍事力としての魔法を欲していました。個人に向けた呪いなど、研究なさるとは思えません。
では、この動悸はいったい……。
「では、明日の朝、シンラ洞窟に出発しましょう」
「はい!」
ジルの提案にアルリさんが元気よく返事しています。
「イヨナさま?」「イヨナさん?」
「はっ、はははいぃ!」
突然目の前にジルの顔が現れて、思わずのけぞってしまいました。ああそういえば、宿屋の一室でこれからのことを話し合っていたところでした。
「大丈夫ですか?」
「だっ、だいじょおうぶです!」
びっくりしたとはいえ、大袈裟に驚き過ぎでしょうか、ジルが心配そうにわたくしの顔を覗き込みました。彼の空色の瞳にわたくしが映っているのが見えます。綺麗な色。
彼の瞳を見るのがなんだか気恥ずかしくて思わず視線を下げると、少し伸びた無精髭が目に入りました。改めて見ると、やはり大人の男の人なのだと実感します。いつもはわたくしの軽口の相手をしてくれているので、ついつい歳の離れた兄のように接してしまうけれど、実際は二十歳も離れているのですよね……。父と娘でもおかしくない年齢差なのですよね。そう思うとなぜか悲しくなってきて、ますます視線は下がってしまいます。
「本当に大丈夫ですか? 少し顔が赤いようだ。今日はもうお休みください。明日の準備は明日の朝にまわしましょう」
「だ、だいじょうぶ、んんッ、大丈夫です。少し考え事をしていただけです」
わたくしのための旅で、ただでさえ戦力として足手まといなのに、これ以上迷惑をかけられません。
「さっ、行きましょう!」
わたくしは動揺を悟られぬようふたりに背を向けて、一番のりで部屋の外へ出ました。
一応、まだ追われる身ではありますが、火急に対応を迫られる追手はしばらく来ないと思います。だから、これからの身の振り方はいずれ考えなければならないけれど、今はアルリさんのためにできるだけのことをしたい。
わたくしたちはムナランヤを闊歩して水や食料を買い込んでいきました。
ムナランヤはとても賑やかな都市です。ハルデグラム候が州長として邸宅をかまえる場所に選ぶのも納得です。オアシスも大きく、人口も多い。交通の要所でもあり、多くの商人が行き来し、市もこの地域では最大を誇るそうです。
市には無数とも思えるテントが連なり、通路に張り巡らされた天幕が厳しい日差しを遮ってくれていました。
いろんな都市を歩くことがあったけれど、そういう時、わたくしはアルリさんとジルに挟まれて歩いてきました。現地人のアルリさんが先頭で、護衛騎士のジルが後ろ。今もいつもと同じ順番なのですけれど、今日はなぜだかジルの視線が気になって仕方がない。護衛なのだからわたくしの後ろ姿ばかりを見ているわけではないのでしょうけれど、どうにもそわそわしてしまいます。ジルの様子を窺うべくそっと振り向くと、わたくしに気づいたジルと目があって、慌ててまた前を向く。その度に動悸が激しくなりました。顔が熱い。なんで、こんなに、恥ずかしいのでしょう。
買い物を終え、あまり喉を通らない夕食も終えたわたくしは、アルリさんと一緒に部屋に備え付けられた沐浴場に向かいました。ジルは、この街ではかなり高級な宿をとってくれました。部屋がたくさんあって、貸し切りの沐浴場までついている。床もつるつるで、裸足で歩いても痛くない。今までの安宿とは天と地ほどの差を感じます。なぜ、と思ったけれど、理由はいくつか想像できます。
わたくしには獣の耳と尻尾があって、そのために公衆の沐浴場を使うことはできません。だから今までアルリさんかジルに桶に水を張ってもらって、自室で身体を拭いていました。ジルはわたくしに、久しぶりの沐浴を与えてくれたのだと思います。それだけではありません、この街ではみんなにそれぞれ辛いことがあって、それに多分、三人でいる最後の街だから、奮発したのでしょう。
「少し焼けましたね」
アルリさんがわたくしの肌を見て言いました。
「初めて会った時は、もっと白かったと思います」
「アルリさんはあまり変わりませんね」
「そういう体質のようです」
アルリさんは白髪の前髪をひと束摘んで見せました。ルビーのような真っ赤な瞳が物憂げに揺れました。白皮症のせいで謂れのない非難を受けたと話してくれたのは、クダカに到着する直前のことだったと思います。
「でも、綺麗です」
わたくしはアルリさんの後ろに膝をつき、彼女の透けるような白い髪を香りのついた高級な石鹸で洗ってあげました。泡を洗い流すと次はわたくしの番。位置を入れ替わり、今度はアルリさんにわたくしの髪を洗ってもらいました。
脱衣所で体を拭き、昼間に買い揃えた新しい服に着替えます。もともと着ていた服やアルリさんの巫女服は、あの後ちゃんと取り戻したのですけれど、埃だらけだったので今は洗濯して乾かしてあるのです。あくまでも代わりの服なので、簡単な造りのものですけれど着心地は良い。何より、いつまでも罪人のような格好ではいられないですから。
「こうしていると、最初に出会った頃を思い出します」
着替えながらアルリさんは懐かしそうに話しだしました。
「その時はイヨナさんが皇女さまだということを知らなかったので、イヨナさんがジルさんに服を着せてもらっていたのにとても驚きました」
思いがけないことを言われて、わたくしの身体はギクリと硬直してしまいます。
「ちっ、ちがいま、ちがいませんけれど、今はもうひとりで着られますよ!」
焦って取り繕うわたくし。今のことを言っても過去の事実は変わらないのに。
アルリさんに言われて、他にもいろいろ、芋づる式に思い出してきました。
森の泉では泉の水で体を拭いているところを見られました。
ズボンや、パ、パンツに尻尾の穴を空けててもらいました。
その後の町で、もっと恥じらいをもつように指摘を受けました。
口に食べ物をいっぱい頬張って、慌てて立ち上がって、お行儀の悪いところを見られてしまいました。
まじない師のおばあさんには、恥ずかしい昔話を暴露されてしまいました。
役に立ちたくて剣を教わっても、まだ何の役にも立てていないのは、恥ずかしいというより、ちょっと落ち込んでしまいます。
戦いがある度に固まってしまって、頭を撫でられてしまって。
アルリさんのいた神殿では、わたくしの誤った提案のせいでジルに恥をかかせてしまいました。他にもいろいろ……。
思い出すだけで顔から火が出そうになります。せっかく身体を清めたというのに、変な汗が背中を伝いました。
部屋に戻ると、ジルがわたくしに革の小袋を差し出しました。
「これは?」
「ウル皇子が持っていた魔法石です。これから魔物がたくさんいるであろう洞窟に行くので、イヨナさまに持っていてもらおうと」
悔しいけれど、わたくし自身、自分が魔物と短剣で戦えるだなんてとても思えません。その点、魔法石なら、さきの戦いで使えることは確認済み。ジルは前衛を務め、アルリさんも神術で支援を担当しなければならないなか、手空きなのはわたくしだけです。
「わかりました」
わたくしは勇んで魔法石が入った革袋を受け取りました。いいえ、受け取ろうと手を伸ばしました。けれど受け取る際にジルの手に触れてしまって、また例の呪いが発動してしまったのです。
急に跳ね上がった鼓動に驚いて思わず手を引っ込めたわたくし。その拍子に革袋は床に落ちて、溢れた魔法石が、大理石の床をカツンカツンと鳴らしました。
一瞬、時間が止まりました。
嘘、それは気のせいです。ジルもアルリさんも単純に驚いていただけです。けれど、そのたった一瞬の沈黙に耐えきれずにわたくしは、
「ご、ごめんなさい!」
と、地面に這いつくばり、懸命に魔法石を拾い集めました。そんなことをすれば即座に飛んでくる、わたくしを制止するジルの声が無くて、それがとても不安で、けれど、ジルの顔を見ることも、怖くてできなかったのです。
その夜は案の定なかなか眠ることができませんでした。明日は朝早いのにと、焦るわたくしは気分を変えようと部屋を出て中庭に下りました。中庭は吹き抜けになっていて、植えられているたくさんの観葉植物が月明かりに照らされていました。
寝付けないままベッドのなかで随分と時間を潰していたのでしょう。すでに人の気配はなく、みんな寝静まっているようです。わたくしは中央の小さな泉に歩み寄りました。
「はぁ……もう嫌です……」
悶々とした心持ちのわたくしには、泉に流れる水の涼しげなせせらぎも厭味のように思えてきます。
「姫さま?」
ふいに声をかけられ、わたくしはとっさに顔を上げました。闇夜に浮き出るシルエットは大人の男性のものです。誰もいないと思っていたのですけれど、水の音に紛れた先客の息づかいに気が付かなかったようです。
「だっ、誰ですか?!」
というか、わたくしを姫さまと呼ぶのは、ここにはひとりしかいない。
「ジ、ジル?」
今はとても顔を合わせられません。
慌てて踵を返し、その場を立ち去ろうとしました。けれど、ジルはわたくしの手を捕まえました。とても力強くて、その手に護られてきたというのに、今のわたくしには、その手がなぜか怖かったのです。
「姫さま!」
「は、離してください! 離して!」
わたくしが暴れるとジルはすぐに手を離してくれました。逃げなかったのは、そんなことをすればきっとジルを傷つけてしまうと思ったからです。バツの悪そうに沈黙するジル。
「何か、言ってください」
命じると、ジルはまっすぐにわたくしを見て口を開きました。
「今日、州長の邸宅を出てからずっと様子が変です。どうなされたのですか」
それは自分でもわかっています。けれど、理由は自分でも……
「……わからないのです」
「…………」
「わからないのです! ジルのことを考えると動悸がするのです。きっと新しい呪いにかかってしまったのだわ」
この呪いを解くために、またジルに迷惑をかけてしまうと思うと、無性に悔しくなって涙が溢れてきました。見限られてしまうのではないかと不安で、本当は黙っておきたかったけれど、呪いをそのままにしておくのが怖くて、だから助けを求めずにはいられなかったのです。
あ……わかった。
わたくしがこんな駄目な子だから、精霊さまが呪いをかけたんだ。
不安と、恐怖と、苦しみの呪い。
「イヨナさま、明日は頼りにしていますよ。なにせ、イヨナさまは私の愛弟子ですから」
けれどジルは、その呪いをいとも簡単に、幸せのおまじないに変えたのです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます