主君の為に
「イヨナさま、行きましょう」
私はイヨナさまの手を引いた。そのまま扉から離れようと一歩進んだが、イヨナさまの手はするりと私の手から抜け落ちてしまった。
「しかしあいつの孫煩悩ぶりには笑えたな」
「しかし、どうしてウルではなくイヨナルシアだったのでしょうね」
部屋の中の会話は続いている。
「イヨナさま?」
扉の前に立ち尽くしているイヨナさま。
皇城でのんびり過ごされていた時のイヨナさまであれば、祖父の死の真実を知った衝撃で茫然自失になってしまっていただろう。しかしこの旅で多くの経験をしたイヨナさまは、とても強くなられた。鬼気迫る顔で剣を突きつけられても、そいつの鮮血を全身に浴びても、イヨナさまは正気を保たれていた。そんな彼女だ。今だって、我を忘れていないはずだ。
「なんじゃ知らぬのか」
「というと?」
「剣聖殿は若い頃、城を抜け出してはお忍びで冒険者の真似事をしておったのよ。イヨナルシアの母、つまり皇帝の第三夫人であるフロウレンシアさまは、その時懇意にしておった仲間の娘らしい」
「……イヨナさま」
私は三度、姫の名を口にした。急かす私に、イヨナさまはゆっくりと躊躇するように顔を上げ、私を見上げた。
「ジル……」
十四の娘が初めて知るだろう真実に、その目は、とてつもない不安を映し出していた。
「イヨナルシア姫に死んだ想い人を重ねておるのじゃろう」
「なんとも女々しい話です」
扉の向う側に悪ある笑いが満ちた。
「姫さま、行きましょう」
なだめるように言った。もうこれ以上この会話を聞かせたくない。しかし、イヨナさまはふるふると首を振った。今のイヨナさまにとって――つまり獣憑きになってしまった皇族の姫にとって――いまさら自身の出自の話などどうでもいいことだ。イヨナさまが首を振ったのは、許せなかったからだ。
「あのジジイ、もう少し生かしておけば、成長したイヨナルシア姫に発情しておったのかの?」
「そのような一族の汚点を生み出す前に殺しておいて正解でしたね」
たとえどのような下賤の戯言であっても、親愛なる祖父の名が汚されることをイヨナさまは許せなかったのだ。
扉を開けるイヨナさまを制止しなかったのは、イヨナさまの気持ちが痛いほど理解できたからだ。彼らの罵詈は敬愛する恩師に対する侮辱だったから。
しかし、私は冷静だった。冷静に懺悔していた。
ユドラウさま、申し訳ございません。イヨナさまが自ら危険に飛び込んでいくのをお止めすることができませんでした。いかなることがあろうとも、主君を回避可能な危険に晒すなど言語道断。もしもユドラウさまが生きておいでなら、いったい今まで何を見てきたのだと、幻滅されてしまうかもしれません。
「ラルグニアンお兄さま!」
長兄に避難の声を上げ、ふたりの前に飛び出したイヨナさま。突然開け放たれた扉に驚いたラルグニアン殿下と州長だったが、汚いボロを着たイヨナさまの姿を見て、その表情を嘲るような笑みに変えた。
「これはこれは、イヨナルシア姫殿下ではありませんか」
私はすぐにイヨナさまの半歩前へ出る。剣の柄に手をかけて、すでに臨戦態勢だ。皇子である自分にそのような態度を取った私を腹立たしく思ったのだろう、アルグニアン殿下は頬を引きつらせて私に警告した。
「貴様、誰を目の前にしているのかわかっているのか?」
私が顔色ひとつ変えずに「叛逆者です」と答えると、皇子は忌々しそうに舌打ちしてイヨナさまに向き直った。
「それで、貴様は捕らえられていたはずだが」
不機嫌そうに首を傾げる皇子。
「さっきおっしゃっていたことは本当なのですか!?」
「さっき、とは?」
「とぼけないでください!」
「イヨナルシアよ、其方そのように癇癪を起こす気質であったか?」
イヨナさまの問に真面目に取り合わない皇子。バツが悪くはぐらかしているというよりも、いちいちまともに取り合うことを面倒臭がっているように見える。
「殿下、お答えください!」
憤っているのはイヨナさまだけではない。というか、目の前のこの男が皇子でなければ、口を開く前に斬り殺していただろう。皇子という身分が持つ権威は、謀反を企てていたとしてもそれを躊躇させるだけの力があった。
「貴様の発言を許した覚えはないぞ!」
尊大な態度で私を怒鳴りつけるラルグニアン。
「お兄さま、否定なされないのですか?!」
「ええい、五月蝿いぞ其方ら。それにどちらの話をしておる。反乱を画策しておることか、それとも皇帝陛下と剣聖の暗殺のことか」
「どちらもです!」
甲高い声が五月蝿いとばかりに皇子は、態とらしくこめかみを押さえて手をパタパタと振った。そして彼の回答を待つべく口を閉ざしたイヨナさまに、
「どちらも嘘のように聞こえたか?」
と、厭らしい笑みを浮かべながら絶望をもたらした。
とそこに、部屋の外に隠れていたアルリが、逃げるように慌てて中に入ってきた。私は廊下に注意を向ける。たくさんの足音が近づいてきているようだ。
流石にバレたか。
足音はどんどんここに近づいてくる。この現状を目撃すれば、兵士たちは慌てて私たちを取り押さえようとするだろう。そうなれば牢屋に逆戻りか、最悪この場で斬り捨てられてしまう。私はすぐさま剣を抜き放ち、ラルグニアン皇子と州長に突きつけた。
「州長!」「た、大変です!」
駆けつけた兵士たちは室内の状況を見て絶句、硬直する。兵士たちはみな現地の雇われ人だ。
「異邦の主のために命を失う覚悟があるか!?」
そう大呼し、扉に陣取る兵士たちに予備の短剣の切っ先を向けた。
「何をしておる! 早く取り押さえんか!」
ぞろぞろと慎重に部屋に入る五名の兵士たち。扉の外にはまだまだ詰めかけていたが、部屋の状況を見て抜剣を躊躇した。そんな兵士たちに檄を飛ばす州長。
「し、しかし」
無茶を言うなと兵士たちの顔は物語る。
「我々に指一本触れてみろ、その者と、このふたりを殺す」
「かまわん、やれ。この者がそのようなことをできるものか。騎士ならば皇族に剣を向けることがどのような意味を持つのか知っておるからな」
ラルグニアンが扉に陣取っている兵士たちを焚き付ける。私は無表情を貫いたが、額に汗が滲み、内心ではかなり焦っていた。図星というわけではないが、皇族を手に掛ける覚悟がまだできていなかったからだ。そんな私にはお構いなしに剣を抜き放つ兵士たち。
じりじりとにじり寄り、そしてついに、
「かかれ!」
皇子の号令とともに、突き動かされるように兵士たちが飛びかかってきた。
対応に迫られた私は、皇子と州長に突きつけていた剣を兵士たちのために使うはめになる。私と兵士たちの技量はくらぶべくもないが、人数の不利というのは技量の有利をあっさりと打ち消してしまう。
守るべき者たち、狭い空間。長くは戦えない。ひとりにつき一振りでケリをつける必要がある。であればアルリの付与魔法が恋しいが、今は望めない。私は力の限り柄を握りしめて、棍棒を振り回すがごとく兵士たちの構える剣を次々と弾き飛ばしていった。
読んで字のごとく「あっ」と言う間に丸腰になってしまった兵士たちは、愕然として、落ちた剣と私との間を目線で往復した。
この状況に癇癪を起こしたのはラルグニアンだ。
「きっ、ききっ、貴様らああアアアァぁぁあァァアァ!!」
皇子然とした綺羅びやかな服装に、いきり立った真っ赤な顔がとても不揃いだ。
彼のこれまでの人生で自分の思い通りにならなかったことなどないだろう。武闘派で知られる第一皇子は、その地位も相まって欲しいものはすべて手に入れてきた。しかしこの状況はどうだ。この部屋に入った時の彼の頭には、このような未来は描かれていなかったはずだ。
ラルグニアンは腰に携えた剣を抜き放つ。彼のために誂えられた特別な剣だ。柄を見れば、派手なだけが取り柄の儀礼用にも見えるが、その実、刃は驚くほど鋭い。
「剣を拾えェ!!」
雷鳴のような怒号を受けて、拾える兵士は剣を拾う。位置的に拾えない者は扉で詰まっている者の腰から奪い取った。
「良い気になるなよ、騎士風情が!」
顎を引いて私を上目遣いで睨みつける皇子。
ここで剣を手放せば間違いなく私は殺される。それでイヨナさまが助かるのならばそれでも良いと思える。皇子自ら手にかけるつもりなら、牢屋に閉じ込めずに殺していたはずだ。ラルグニアンの怒りの矛先はあくまでも私。であれば…………
…………だめだ! 本国に連れ戻されたイヨナさまを待っているのは火あぶりという凄惨な死だけだ。
都合の良い降伏はできない。そう悟った私は、遅すぎる決断をする。
「皇子、貴方は武人ゆえ、手加減はできません」
自分でも、これが警告なのか宣言なのかわからない。
「黙れ、この痴れ者が」
大上段から振り下ろされるラルグニアンの剣。刃の腹を滑らせるようにそれを足元へ逸らす。円を描くように剣を返し、やつの腕に沿って斬り上げた。
「うがあああああああああああアァァァァァア!!」
肩から血を吹き出して、皇子は絶叫した。
「う、ぎ、ぎいいいざまあああああ!!」
《皇族殺し》
これで、姫さまが皇城に復帰できたとしても、私はその隣にはいられなくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます