東へ
「あ……う」
アルリは吃る。
それまで普通に接していた相手が、とんでもなく高貴な人物だと知ったからだ。今、彼女の頭のなかでは、これまでの自分の発言や行いが思い返されているだろう。何か無礼なことはしなかっただろうかと、いまさら心配してもしかたがないというのに。出会いの場面から順に時を顧みて、今、改めて皇女殿下がその御名を名乗った。それを受けてアルリが取った行動は、
「あっ、アルリ・アウムールカですっ」
名乗り返すことだった。
「知っています」
「……」
失態を演じ、すっかり萎縮してしまったアルリ。憎き侵略国の姫君だというのに、権威とはかくも偉大なりや。誰かが助け舟を出さなければ話が始まりそうにない。イヨナさまは笑っているが、このままではアルリが不憫だし、それに悠長にしていられる時間もない。いずれこの場所も市長に見つかるだろう。
「アルリ、イヨナさまや私への態度は改めなくて良い。イヨナさまも、其方に畏まられては悲しむだろう」
アルリが見上げると、イヨナさまは私の発言に同意するように頷いて見せた。
「わ、わかりました」
アルリは、緊張が溶け出したような気の抜けた息を吐いた。
「落ち着くにはまだ早いぞ」
黙って私たちの様子を見ていたロインが、咎めるように口を開いた。口を挟む隙を窺っていたようだ。ロインはイヨナさまに向き直り、素早く跪いて口を開いた。
「この倉庫を出て貧民街を南に行くと、一箇所城壁に穴が空いているところがあります。小さい穴ですが、人ひとりくらいならなんとか通ることが出来ます」
完結に脱出経路を説明し始めるロイン。内務調査官として得た情報だろう。都市門以外の出入り口など、特級の情報だ。まさしく今使うに相応しい。それをもたらしたのは素晴らしい手柄だが、ロインは同時にこの脱出作戦の難点も告げた。
「しかし、そこからは徒歩での旅となります」
「門からは出られないのですか?」
都市門はすでに封鎖されているだろう。最低でも今晩中は誰もこの街を出ることはできない。それに、
「オサドは小者です。窮地に立たされると何をしでかすかわからない。ここの住人を巻き込むことは、殿下の望むところではありますまい」
「! ……そうですね」
ロインの発言に、最悪の光景を想起したイヨナさまは、物憂げに視線を伏せた。
「次のオアシスはクダカという駅です。ニ晩は野営することになりますが、翌々日の夕方には到着できるでしょう。そこで馬を調達出来るはずです」
ロインは立ち上がり、地面に面した出入り口の蓋をすこし開けて外の様子を窺った。そして裏路地がいつもの静けさを取り戻しているのを確認して、私たちに行くように促した。
「貴様は一緒に来ないのか?」
「ああ、俺は、ここに残ってできるだけ時間を稼いでみる」
こういう時こそ、諜報の真価を発揮するときだとロインは言った。
「すまないな」
無言で、しかし力強く私に頷くと、ロインは再び姫さまに跪く。
「殿下たちが向かった方角や、一行の人数についても、なんとか情報を錯綜させてみましょう。しかし作れて半日です。用意できるのはたった半日だけとお考えください。明日の朝にはオサド市長の追手が殿下たちを追うでしょう」
「ご無理はなさらないでください」
身を案じるイヨナさまを見上げて、ロインは白い歯をニカリと見せて心強い笑みを見せた。
「お気遣い痛み入ります。殿下こそ、ここからは徒歩になりますゆえ、お体に気をお配りください。何かあればすぐにジルバラートにお申し付けくださいませ」
「ええ、ありがとう」
皆で外に出る。そしてイヨナさまとアルリを待ちつつ、裏路地から曲がり角の先を覗き込んだ。すぐ後ろに控えているロインが言った。
「都市門が開いたら俺も東へ向かう予定だ。俺は馬だから、あるいは追いつくかもしれんな」
背後で、イヨナさまとアルリの足音が聞こえた。振り向き目を合わせると、ふたりとも準備は出来ていると頷いた。
「近いうちに借りを返せそうで何よりだ」
そう言い残し、私は丁字路を折れて南に走った。聞こえる足音は三人分。親友の気配は、あっという間に遠ざかった。
ロインの情報通り、私たちはエイズルの都市壁の南端にある小さな穴をくぐり、赤茶けた岩石砂漠にでた。すぐに方角を確認する。視界の端では、どうせすぐ砂埃まみれになるというのに、イヨナさまがスカートを払っている。
「行きましょう」
ひとまずクダカという小さな集落を目指す。アルリの話では、大巫女イスリュードが向かったシンラ洞窟の最寄りの街は、ムナランヤという名前だそうだ。ムナランヤは次の目的地であるクダカを含めて、駅や都市を六つ経由した先にあるらしい。ムナランヤ自体もルーテ教の聖地のひとつで、一番最初に神託を受けた聖人の生家があったらしい。
赤褐色の大地からは、いよいよ毛羽立つような緑さえも姿を消した。岩は細かく砂になり、踏みしめるごとにくっきりと足跡がつくようになった。浜辺を歩いているような感触だが、気持ちの良い海風は吹いていない。風が運んでいくるのは、磯の香りではなく砂塵だった。
砂漠の夜は寒い。枯れ木を拾い集めて火を点ける。それからお大きめの毛布を一枚、女性ふたりにあてがい、私は外套にしっかりとくるまった。
ロインの言ったとおり、翌々日の夕方には駅に到着した。街というよりも村という規模の集落で、慎ましやかながらも穏やかで豊かな生活を送っているような雰囲気だった。馬で一日の距離にあるエイズルはあんなにも貧しいというのに。いいや、貧しさに苦しんでいるのは貧しい者たちだけか。彼らにとって、この村までの三日間の旅は、死に等しい行為なのだろう。
すり鉢状の砂丘の底に絵画のような群青色のオアシスがあって、その周囲に十件ほど家が建っている。イヨナさまの手をとり、砂の上を滑るようにして坂を下っていると、洗濯物を干しているクダカの住人と目があった。にこりと白い歯を見せて笑う彼女は、ふくよかで、気立ても良さそうだ。彼女が家のなかを覗き込み、誰かと話をしていると、ぞろぞろとたくさんの女子供が連れ立って出てきた。何人かの手には、編みかけの何かがあって、内職の途中だったことを窺わせる。
私たちが彼女たちの前に辿り着くと、
「ようこそ、クダカへ。見たところ帝国の方のようね。エイズルの方から来たということは、ムナランヤへ行くのかしら。短い付き合いでしょうけれど、ゆっくりしていってね」
と、歓迎してくれた。
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