イヨナの秘密

 エイズルは大きな街だ。人も少なくて走りやすい。しかし容易に逃げ切れないのには理由があった。

 ひとつ、市長が存外用心深かったこと。街の至る所に兵士が見張りに立っていて、角を曲がるたびに笛がなり、追手が増えていく。ふたつめは姫さまとアルリの運動不足だ。逃げる最中、物を倒したりして障害物を作ることで追手との距離を保っているが、それもいつまでもつかわからない。いずれ追いつかれてしまう。 そうなる前に対策を立てなければ。


「いっ、いま、今のはいったいなんですか?!」


 後ろを走るアルリが困惑しながら声を荒げた。


 今の? あの兵士たちのことだろうか。そういえばアルリにはイヨナさまの正体を明かしていなかった。当初は、イヨナさまの安全を守るためだったが、むしろ今となっては明かしたほうが良いかもしれない。しかし今は答えている余裕などない。


「後で話す! それよりも今は――」


 角を曲がり、ちょうど貧民街へ入ろうかという時、突然、聞き覚えのある声が私の名前を呼んだ。


「ジルバラート、こっちだ!」


 声がしなければ見逃してしまいそうな小路。両脇の高い建物が、まるで夜のようなどんよりとした暗さを小路にもたらしていた。


「ロイン!? なぜここに」

「説明は後だ、まずはここに逃げ込め」


 ロインの言葉を受け、私はイヨナさまを見る。私の手を取っていない左手では膝に手をつき、肩を上げて呼吸を乱している。アルリを見る。イヨナさまに比べればまだ走れそうだが、初めて見るロインに不安げな表情を浮かべている。


「大丈夫、私の親友だ。後で紹介しよう」


 そう言うと、アルリはほっと小さく息を吐いた。







 ロインが招き入れたのは薄暗い半地下の倉庫だった。窓と呼べるものは、私たちが通ってきた地面に面した小さな入り口だけ。その入口も、今は上開きの板が閉じられていて外の光は一切なく、代わりにオイルランプがいくつか、ぼうっと私たちを照らしていた。

 見れば見るほど普段使いするような構造には思えず、誰かの隠れ家に使われているのではと勘ぐってしまう。


「ロイン、どうしてここに」


 色々聞きたいが、私が最初にした質問はこれだった。


「州長がいる街への途中なんだよ、この街は。この倉庫は各都市に内務調査局が持っているアジトのひとつだ。外で何やら騒ぎがするから顔を出してみれば、お前が追われているじゃないか。そこの巫女がいるから、あまり呼び込みたくはなかったのだが、まあ、親友の窮地を放っておくわけにもいかないしな」


 ロインは巫女のアルリを見て肩を竦めた。


「そうか。とにかく助かった」

「それで?」

「なに?」


 ロインの省略されすぎた疑問文に、片眉を上げた私。ロインは頭でアルリを指して言葉を足した。


「そちらの淑女を紹介してはくれないのか?」


 おっと、そうだったな。


「アルリ」

「はいっ」


 アルリも待っていたようで、返事は素早く、明瞭だ。


「こちら、私の旧知の親友であるロイン・ハーロードだ。ロイン。彼女はリスジッダから共に旅をしている巫女のアルリ・アウムールカ」


 私の紹介を受け、ロインはアルリに手を差しだす。


「あまり長い付き合いにはならんと思うが、よろしくたのむ。ボアンドラでもこういう時は握手で良いと聞いたが」

「ええ、問題ありません。こちらこそよろしくおねがいします。それと、ここのことをは誰にも話しませんよ。ロインさんは恩人ですもの」

「そうか」


 イヨナさまよりもふたつも年下だというのに、アルリは大人だな。


 アルリには話さなければならないことがまだある。


「アルリ、さっき言っていた《今のはいったい何だ》とは、私たちを襲った兵士たちのことか?」


 私の問にアルリは首を振って答えた。そしてイヨナさまを見る。


「違います。いえ、違わないですけど。それより、わたしの詠唱を中断して。でも、そのおかげで助かりましたけど、でもどうして敵魔術師の魔術の属性がわかったのですか?」


 そのことか。しかしおかしいな。以前盗賊に襲われた時、姿も見えぬ盗賊の人数を、イヨナさまは蹄の音を聞いて言い当てたのをアルリは目撃しているはずだ。


「知っているだろう、イヨナさまの耳は――」


 言いかけて私は言葉に詰まってしまった。


 魔法に対抗するためには、敵の唱える呪文の把握が必須だ。だから私たち騎士は敵となりうる者たちの呪文を学ぶ。これは騎士学校に入学している者でも、誰かの見習いになっている者でも同じだ。騎士として必須の能力なのだから。しかしイヨナさまはどうだろうか。そうでなくともボアンドラ地方はルーテ教の、異文化の信仰を基にした呪文。理解できるとは思えない。ではどうやってイヨナさまは敵魔術師の魔術の属性を知り得たのか。


 私がイヨナさまを見ると、困ったような顔をしているイヨナさまがいた。変な顔だ。そしてとんでもないことを言う。


「あの、目を凝らすとですね、見えるのです。魔力が集まってくるのが。それはとても鮮やかで、属性によって色が決まっているのです」


 私は目を剥き、アルリは口をぱくぱくさせ、ロインは訝しげに眉をしかめた。三人とも思い思いの反応だが、心中は一様に驚愕していただろう。しかしその理由は、たぶんバラバラだと思う。私は素直に、特殊な能力として感嘆していた。


「なんと……それも呪いの副産物ですか?」

「違います。これは小さい頃から時からずっとです」


 首を振るイヨナさま。


「今まで、まったく気づきもしませんでした」

「だって、誰の前でも使っていなかったから」

「それが良いと思います。素晴らしい力ですが、同時にイヨナさまの身を危うくするでしょう」


 私はロインを横目で見る。だんまりを決め込んでいるやつのように、すぐに政治的な利用価値に頭が回るやつもいる。ロイン自身は利用する側ではないだろうが、利用しようとする者を相手にする仕事に就いているため、自然と考えを巡らせるのだろう。職業病というやつだ。


「ええ、お兄さまにも同じことを言われました」

「ウル皇子はご存知なのですか?」


 思わぬ登場人物に私は驚いて問い返した。


「ええ、唯一、お兄さまだけが知っているのです。お兄さまが魔法の訓練をしている時、魔法について何も知らないはずの幼いわたくしが、詠唱の途中で魔法を言い当ててしまって、それでわかったのだと思います。その時、誰にも言ってはいけないと、知られてはいけないと言われました。幼いわたくしには意味がよくわかりませんでしたが、大きくなればわかると言われ、いいつけを守ってきたのです。けれど破ってしまいましたね。お兄さまのいいつけの意味も、もうわかっているというのに。それでも、さっきは使うべきだと思ったのです」

「そうだったのですね」


 魔法が主流ではない帝国内において、魔法かぶれなどと影で馬鹿にされてまで魔法に傾倒しているウル皇子。しかし何度か話す機会があったが、第一皇子のラルグニアン殿下よりも聡明な印象を受けた。どうやらそれは間違いではなかったようだ。ウル皇子の助言によってイヨナさまは救われたのだから。



 会話が途切れ、わずかな静寂が仄明るい倉庫に訪れる。聞こえるのは閉じられた窓から聞こえる忙しない足音だけ。

 そして二息もしないくらいだろうか、アルリが言葉を投げかけた。


「あ、あの」


 全員の視線を集めた小さな巫女は、すこしびっくりした様子で言葉を続けた。


「さっきから気になっていたのですが、姫さまとか皇子さまとか、それはいったい……」


 私たち――私とイヨナさまとロインの三人――は互いに顔を見合わせた。そして暗黙の了解的に口を開いたのは、我々を代表するにふさわしい人物。イヨナルシア皇女殿下だ。


「ごめんなさい。隠すつもりはなかったのです」


 それが本心ならどこまで純粋素直なのだ!


「私は隠すつもりでしたよ」

「そうなんですか?!」


 むしろ、イヨナさまもそうあって欲しかったです。


「ええ、ボアンドラ地方における帝国の立ち位置を考えれば、アルリが帝国を嫌っていることは察しがつきます。実際、それは当たっていました。呪いについては明かすのは仕方ありませんが、身分も一緒に明かすのはとても危険だと判断したのです」


 頷いてくれるのはロインだけだ。


「もっとも、オサド市長のお陰でふいにされましたが」


 私が肩をすくめると、アルリは何を言っているのと、言いたげな目をして、


「ジルさんもイヨナさんのことを姫さまと呼ばれていましたよ。この街に入る前、砂漠で盗賊に襲われたときです」


 と話した。今までずっと姫さまと呼んでいたためか、知らずのうちにとっさに出てしまっていたようだ。それにしてもイヨナさまの視線が痛い。突き刺さるようだ。自分だって身分を明かそうとしていたくせに。


「……」三十四にもなって、このようなバツの悪さを感じるとは!


「……なんとなく、おふたりの様子から、もしかしてお貴族さまなのかなと思ってはいたのですが、その、帝国の皇族の方だったのですね」


 急に顔を伏せて神妙な態度になったアルリに、イヨナさまは幼子をあやすような優しい笑顔で丁寧にフルネームを名乗った。


「名乗るのが遅くなってしまい申し訳ありません。わたくしはフェイエール帝国の第三皇女イヨナルシア・ノーア・アルオンス・リィングラーデと申します」

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