雨のなかの決め事

 その日は雨だった。しとしとと降る雨粒が落ちて、草がサワサワと揺れる音が耳に届く街道沿い。四半刻もすれば道はぬかるみ始めるだろう。初夏にしては肌寒い気温のためか酷い湿気のためか、おそらく両方だろう、愛馬の荒く吐く息が白んでいる。

 皇都を脱出して五日。こいつにも無理をさせてしまった。姫もとても疲れているようだし、そろそろどこかで休憩をとらなければ。そういえばこの先、少し行ったところの小さな森に泉があったな。騎士団時代、行軍途中によく寄り道をした。街道から離れた場所にあり通行人も立ち寄らないため、今の私たちにはうってつけの場所だ。


 フードの裾から染み出した雨粒が滴り、前に座る姫のつむじに吸い込まれるようにぽたりと落ちた頃、目的の森を丘陵の上に見つけた。

 森に入ると身体にかかる雨はなくなったが、かわりに頭上から葉と雨の喝采がパチパチと響いた。私は下馬し、姫を乗せた愛馬を引く。まだ湿気ていない枯れ枝を拾い集めるためだ。どうせすぐ濡れるが、一度は服も身体も乾かしたほうが良いだろう。


「森は恐ろしいところだと聞きます」


 馬上の姫が不安げに言った。


「外からではわからなかったでしょうが、この森は恐ろしい獣が住み着くほど大きくはありません」

「そうなんですか」

「あと小さな泉がありますので、身体を拭けますよ」

「それは、ありがたいです」


 誕生パーティ直前に沐浴なされて以来、身体を清める機会を設けることができなかった。天気は生憎の雨だが、身体のベタつきを洗い落とすことはできるだろう。



「さあ、着きましたよ」


 私は集めてきた枯れ枝を適当な場所に置き、姫を馬から下ろした。それから木と木の間にロープを張って姫のローブを脱がせる。水が滴るほど濡れてはいないが、ペタペタと肌に貼り付いて気持ち悪かっただろう。私のローブも隣に干すと、ロープが足りなくなったのでもう一本追加する。するとちょうど森からこの場所を仕切ることができた。


「すぐに綺麗な布を出します」

「ありがとう」


 姫の装備している革の胸当てを外しながら私は言う。脛当てとなかに来ていた上下は――


「流石にこれは自分で脱げるでしょう」

「た、たぶん」


 背中で縛るドレスとは違うのだから大丈夫なはずだ。姫が服を脱いでいる間に、鞄から綺麗な布を取り出す。そして布と服を交換した後、私は服を干して火おこしにかかった。



「ジルは身体を清めないのですか?」


 背中から投げられた姫の言葉に私は逡巡する。街道から離れているとはいえ護衛が剣を剣帯から外すなんて危険ではないだろうか。しかし姫は私の前に座るというのに臭い思いをさせるのも可哀想だ。


「わたくし、ちゃんと聞いてますから大丈夫ですよ。ジルもそのままでは気持ちが悪いでしょう?」


 思わず振り返った先、胸元を拭く手を止めた姫さまが獣耳をピコピコと動かしていた。


「……自分の意志で動かせるのですね」

「ええ」


 姫は得意げに笑う。

 今までも耳や尻尾が動いているのは知っていたが、感情に呼応しているだけなのだと思っていた。肝心の姫の提案だが、正直私の索敵よりも有用だと思った。ここは見通しのきかない森で、さらに雨が降っていて、接近する者がいても、きっと足音は掻き消されてしまうだろう。


「……そうですね」

「では!」

「はい、姫が済まされた後、お願いすることにします」


 姫は上機嫌でシュミーズの裾をめくり上げ、大急ぎで太ももを拭き始めた。




 私が身体を拭き終わり、再び防具を装備し終えても雨はしぶしぶと振り続けていた。灰色の厚い雲はまだ薄くはなりそうにない。だだ、なんとか姫のローブくらいは乾かすことができたのは良かった。この肌寒い初夏の空気に柔肌を晒していては風邪を引いてしまうから。


「温かいです」


 焚き火に当たりながら、ここ数日忘れていた温かいという感覚を、思い出したように姫は溢した。

 火にかけた鍋では、水面がシュワシュアと沸き立ち始めていた。


「このようなもので申し訳ありませんが……」


 今夕食に出せるのは乾燥豆のスープと干し肉くらいだ。私がうつわに淹れて渡すと、


「いいえ、温かいものを口にできるだけでも、とてもほっとします」


 姫は幸せそうにちびちびとスープを喉に落とした。




 寸刻、雨音を聞いていた私はふと思い出す。


「そうだ。ズボンに尻尾を通す穴を空けましょう」


 後で空けようと言ってそのままになっていたのだ。姫も嬉しそうにぴんと尻尾を立てた。

 姫のズボンを手に手に取り、私は腰に据え付けてあるナイフを抜く。そして尻の……む、


「姫さま、尻尾はどのへんから生えているのですか?」


 こういうのはわずかでも位置がずれると気持ち悪いものだと思う。私が問うと、姫は立ち上がってローブの裾を捲り上げ、お尻をぴんと突き上げた。パンツが尻尾に押しのけられ少しずり下がっている。


「下着にも空けてください。ずり下がって気持ちが悪いのです」


 そういってパンツを脱ぐイヨナ姫。ローブを羽織っているとはいえ、あまりに貞淑がなさすぎる。十にも満たない子どもでも、貴族の子であればもう少し恥じらいをもつものだ。


「皇族として、いや乙女としてはしたないですよ」

「生まれる前からわたくしのことを知っているジルを前に、そのような考えには至りませんでした」

「至ってください」


 あまりに無頓着な姫の口ぶりに私は眉間を押さえて頭を振った。すると、


「ジルはわたくしに、ジルの前では清らかな乙女として振る舞って欲しいのですか?」


 と、私の顔を覗き込み、不敵な笑みで聞いてくるものだから、


「いざ良き《騎士》が目の前に現れた時、ふいにボロをだしてしまいますよ」


 と、さらなる苦言を呈すると、「その時は貴方にも紹介しますね」と、無邪気に笑った。



 姫の尻尾はちょうど尾骨から出ているようだったので、その箇所に合わせてナイフを入れる。


「ほら、できましたよ」


 穴の空いたズボンとパンツを姫に差し出す。すると姫は喜び勇んで手を伸ばした。

 パンツに空けた尻尾の穴に尻尾を通そうとしている姫に話しかける。


「狭くないですか?」

「ええ、問題ありません」


 尻尾が元気よく動きポスポスとローブを内側から叩いていた。嬉しそうだ。ズボンも問題なかったようで、ローブを脱いだ姫は、くるりと一周回って見せて私に披露してくれた。こうしてみると悪しきものだというのが嘘のように可愛らしい。


「ご不便をおかけしました。姫さま」


 使ったナイフをしまっていると、突然姫が私に向き直り、改まったふうに私を呼んだ。


「騎士ジルバラート」

「はっ」


 その声には、人を使い慣れた者が持つ独特の圧迫感というか、緊張感というか、そういうのがあった。そのあたりさすが帝国の姫である。姫が姫として振る舞っているのだ、彼女の騎士である私は当然姫の前に跪いた。


「その《姫さま》というのを止めなさい」


 私ははっとして姫を見上げる。すると姫は腰に手を当てて鷹揚に頷いた。


「ええそうです。逃亡者が身分を悟られるような言葉を使うものではありませんよね」

「その通りです。申し訳ありません。これからは――」

「これからはイヨナと呼んでください」

「……さすがにそれは」

「服装で身分の上下はすでにわかりません。年下をさま付けしていては怪しまれると思うのです」


 姫の言い分はもっともだ。ただ私の中にも越えてはいけない一線というものがあって、主君を呼び捨てにするなど言語道断である。


「む、むう……」


 しかし主君の命とあらば……ん?

 ふと、視線を姫に戻すと、何やらニヤついた顔の姫がいた。纏う雰囲気もいつもの姫さまのものだ。

 まったく貴女という人は。


「お戯れが過ぎますよ、イヨナさま」


 期待を裏切られた姫はガクリと項垂れ、残念そうに深い溜め息を吐いた。


「どうしてそのような反応をするのです」


 問い質すと、姫はしょんぼりした口調で呟くように答えた。


「………………ちょっとは、役に立てたかなと思ったのです。頼りあう者同士は互いを呼び捨てにするのでしょう? ジルとロインさまのように」

「……多くの死線をともにくぐれば、自ずと気の置けない仲にはなるでしょうね」

「死線……。まだまだというわけですね」


 姫は少しだけ寂しそうににこりと微笑んだ。



 しばらく騎士団時代の思い出話をしていると、薄暗い空が濃紺を増し、夜の帳が降りたことに気がついた。ちょうど会話が途切れ、辺りに静寂が訪れたところだった。雨音もほとんど聞こえなくなっていて、知らぬうちにずいぶんと時間を過ごしていたようだ。


「もうお休みください」


 私がぐるりと見渡した視線の最後に姫を見ると、すでに姫はすうすうと小さな寝息を立てていた。

 焚き火が小さくなっていたので、私は姫を自分のローブの上に寝かせた後、追加の枯れ枝を広いに森に入った。






 夜明けに気がついたのは、泉の上、ぽっかりと空いた森の切れ目から見える空が白みだしたからだ。やがて雄大な雲が朝焼けを映し出し、今日の天気が晴れだということを知った。




 その日の夕方。私とイヨナさまは次の街の都市壁を丘の麓に見る。

 皇都フェイエラントとはくらぶべくもないが、国境付近の街では最大規模を誇る。名はグリーデン。

 私たちはこの国境都市グリーデンで、姫の呪いについて大きなヒントを得ることとなる。

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