騎士ジルバラート、十九歳の約束

 瞼を閉じれば昨日のことのように思い出せる。これは十五年前にユドラウさまと交わした約束。



「ジルバラート・ロンドグラム、ただいま参りました」


 木目が美しい深い色の扉をノックする。扉には皇都に隣接する森の木材が使われている。刻まれた意匠はノーア・アルオンスの泉と、火の大精霊カンカだ。この二者は我がフェイエール帝国の建国伝説の主要登場人物である。つまり目の前の扉は、帝国の建国を誇る扉なのだ。その扉は誰のための扉か。


 返事もなく扉が開かれる。ふたりの使用人によって開かれた扉の向うに、執務机を挟んで座しているのは当然、皇帝ユドラウ・ヴィダ・ノーア・アルオンス・リィングラーデ陛下である。

 陛下は私が部屋に入るのを確認すると、手を上げて人払いをした。十九歳のいち騎士に、どのような重要な話があるのだろう。なんの予想も立てられないまま、私は目をぱちくりさせるしかなかった。


「そう畏まらんで良い。大切な話じゃが、緊急のことでもない」


 この言葉を受けて、陛下が皇帝としてではなく、私の剣の師匠、剣聖ユドラウとして話をしようとしているのがわかった。


「師匠、私、騎士団の訓練を抜けてきたのですが……。また団長に小言を言われてしまいます」


 十五歳の成人以降、フェイラントの都市騎士団へ入団し、二年ののち近衛騎士に大出世した私は、勤続二年目の十九歳になった今でも、騎士団の中でやっかまれている。


「先の戦で上げた其方の武勲をして、まだそのような的外れなことを言う愚か者がおるのか。確か団長はローヤードの小倅じゃったな。儂の方から咎めておくので安心せい」

「止めてください!」


 私にとっては育ての親で、後見人で剣の師匠だけど、他の者にとっては皇帝陛下なのだ。近衛騎士団の団長といえど、陛下から直接叱責を受けるなど、失神してしまう。いつもの冗談だとわかってはいても、こうやって制止しておかなければ冗談じゃなかった時が怖い。ケラケラと無防備に笑っているが、油断ならないジジイだ。伊達に皇帝じゃない。


「それで、要件はなんなのですか」

「おう、そうじゃったそうじゃった」


 とぼけているのかふざけているのか。


「フロウレンシアに娘ができた」


 フロウレンシアというのはユドラウさまの息子――つまり皇太子殿下――の第三夫人である。普通なら皇太子の妻になれるような身分ではない田舎貴族の娘らしいが、ユドラウさまと皇太子殿下、そしてフロウレンシアさまのご実家の間で私の知らないドラマがあるらしい。それに、身分のこともあってか、他の夫人方を差し置いて、ユドラウさまはフロウレンシアさまのことを一番気にかけておられる。


「それはおめでとうございます」

「うむ」

「しかし姫さまかどうかというのはまだ分からないのでは? 占星術師たちの占いも、古くからの言い伝えも、大した的中率ではないでしょうに」

「いや、今回はウルの時もそうじゃったが、信頼できる呪い師に占ってもらったから間違いない」


 先日、城の催し物でフロウレンシアさまをお見かけしたが、まだお腹は大きくなっていなかった。なのにユドラウさまは懐妊どころか、姫が生まれると確信している。その根拠が呪い師の占いなんて胡散臭いにもほどがある。とうとう耄碌したか、このジジイ。


「…………そうですか」

「今、とうとう耄碌したかと思ったじゃろう」


 ギクッ!


「何をおっしゃいますか。剣聖ともなれば、知り合いにやり手の呪い師のひとりやふたり、いても不思議ではありません」

「ふん……あやつのような者は、ひとりおれば十分じゃ」

「…………それで、御用というのは」

「うむ」


 ユドラウさまは何か逡巡するように沈黙する。言葉にするのを迷っているのか、その重苦しい雰囲気に私は思わずゴクリと喉を鳴らした。


「ジルよ、お前、生まれてくる孫娘の護衛騎士になってはくれぬか? 嫌なら断っても良いが、できれば受けて欲しい」


 寝耳に水とはまさにこのことだ。一瞬、何を言われたのか理解できなかった私はわずかに硬直してしまった。


「ほ、本気ですか?」


 目を丸くして問うと、ユドラウさまは真剣な眼差しで深く頷いた。


「きっとイヨナルシアにとって宮廷は生き辛い場所となろう」

「イ、イヨ?」

「イヨナルシア、孫娘の名前じゃ」


 マジか。


「儂も庇うがもう歳じゃて、いつまで生きられるかわからん。儂が死んだ後の憂いを立っておきたいのじゃ」

「そうですか」

「おい。そこは、そのようなこと言わないでください、じゃろ!」

「何をいまさら」

「……信じられん弟子じゃ」


 面倒くさいので、


「今さらそのようなおべっかなど、私たちの間には必要ないでしょう」


 と、おべっかを使う。

 にこりと微笑ったゲンキンな皇帝は、真剣な表情に戻して再び私に尋ねた。


「それで、どうじゃ。受けてくれるか?」


 師匠が、皇帝が、剣聖が、命令ではなく、選択を私に委ねる時、それはいつも彼にとって、そして私にとってとても大切な事案ばかりだった。どうでも良いことは手早く命令で済ませるくせに、こういうところは律儀というか、ある意味怖がりとも取れるかもしれない。


 私の家であるロンドグラムはフェイエラント近郊に領地を持つ弱小貴族だった。政変に巻き込まれ家が没落するなか、一家心中で唯一生き永らえた私は、孤児院に身を寄せることになった。当時の楽しみといえば、時折孤児院を訪れるユドラウさまに剣の稽古をつけてもらうことだった。その時はユドラウさまの身分など知らなかった。陛下も院の先生も、教えてくれなかったのだ。やがて剣の腕前が認められ、私はユドラウ陛下の後見を受けて騎士見習いとなった。そして十五歳の頃、晴れて都市騎士団に入団、ロンドグラム家の当主として復興を果たした。


 今の私は、本当にユドラウさまあってのものだ。どれほどの感謝をしてもしきれない。だからどのような苛烈な命令でも快く引き受けてきた。北方に攻め入った時、二十万の敵軍に囲まれるなか、陛下を先に逃し、殿の務めを果たしぬいたし、東部で反乱があった時も、百にも満たない我が隊で、五万の反乱兵を鎮圧してみせた。


 だから今回も「生まれてくる孫娘、イヨナルシアの護衛騎士となれ」と命令してくれれば良いものを、この方は何を恐れておいでなのか。戦時は軽々しく死んでこいと命令するくせに、平時は妙に女々しい。

 ユドラウさまの被後見人となることを決めた時も、近衛騎士団に入団する時も、私の進退を決する時は、常に私に選択権を与えてくれた。そして私はすべてを受け入れてきた。受け身ではなく、信頼。私はこの人についていこうと、孤児院で死んだ目をしていた私に、生きる剣(ちから)を与えてくれた時から決めたことだ。

 だから、今回も私は忠義を尽くす。彼の言うとおり、彼が死んだ後も、我が生命に変えて生まれ来るイヨナルシア姫を助く。


「わかりました。謹んでお受けいたします」


 私が跪くと、


「ああ、母のフロウレンシアは美人じゃからな、イヨナルシアもとびっきりの美人になるぞ。皇位継承権の順位も低いし、家柄のこともあって政略結婚に利用される可能性も低いじゃろう」

「?」

「じゃから、その気があるなら口説き落としてもよかろうぞ」


 本当に、この人はとんでもないことを言う。


「何を馬鹿な。その子が成人した時、私は三十五ですよ」










「姫、姫」


 未明、不穏な気配を察知して目を覚ました。なにか懐かしい夢を見ていた気がするが、招かれざる客によって記憶に留める前に失われてしまった。その招かれざる客の正体。足音の殺し方が素人のそれではないので、きっと私たちに差し向けられた追手だろう。


「ん、んんん、ジル?」


 目をこすってのそりと起き上がる姫さまの腕を持ち上げ、革の胸当てを手早く装着する。ドレスと違い、こちらは扱い慣れているので余裕だ。順調に成長なさっている胸に押し当て、革紐を後ろで締め上げた。


「んっ」

「すみません、少しきつかったですか」

「いいえ、大丈夫です」


 宿屋の店主には大切な書簡を預けてあるので、できれば迷惑はかけたくない。ここを戦場にするわけにはいかない。


「すでに出立の準備は整っております。さ、早く」


 すでに足音は土を踏む音から木の板を踏む音に移っている。まもなくこの部屋を突き止めるだろう。私は窓を開け、二階の窓から飛び降りた。そして目を丸くしている姫に向かって両手を広げた。


「うぅぅ」


 地面との高低差を目の当たりにして、なんとも情けない声を出すイヨナ姫。しかし状況は怖気づいている時間さえ姫に与えてはくれない! 姫の後ろでガタガタと鍵の掛かった扉をこじ開けようとする音がした。姫は驚いて背後を振り返るがどうすることもできない。道はひとつだと悟った姫さまは、泣きそうになりながらへっぴり腰で窓枠によじ登り、そして意を決して壁を蹴った。同時に部屋の扉が破られる。


「逃げたぞ! 下だ!」


 姫を受け止めた私は、そのまま馬留へ走る。そして愛馬に姫を乗せ、後ろに跨ると勢い良く馬の腹を蹴った。


「逃がすか!」


 追手の手には剣が握られている。どうやら宿の敷地内での殺傷沙汰は避けられないらしい。馬上で剣を抜き放ち、出入り口を塞ぐ追手に向けて下から振り上げた。血しぶきを上げて崩れ落ちる追手を置き去りにして、私は振り返ることなく町の外を目指した。

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