困難な旅の始まり

 姫を部屋へお連れした後、すべての使用人を排した私は、彼女が休んでいる寝室の隣の部屋で右往左往していた。本来ならば護衛騎士とはいえ密室で二人きりになるなど、あってはならないことだが、今はそんな外聞を気にしている場合ではない。というか、そこまで気が回らなかったのだ。


「どうする、どうする、考えろ、考えろ。悩んでいられる時間はそう長くはないぞ」


 柔らかい絨毯を歩くたびにサーコートの下に着込んだチェインメイルの擦れる音が鳴る、そんな部屋で、自分に言い聞かせるようにぶつぶつ呟きながら頭をフル回転させていた。


 姫さまの頭には猫のような獣の耳が生えていた。ここまで運んでくる途中、ドレスの裾から尻尾らしきものも見えた。これはさっきの魔道師の呪いに違いない。


「くそっ!」


 こんなことならばヤツを生かして捕らえればよかった。悔やんでもしかたがないのは、悔やむことしかできないからだが、窮地に立たされている理由は姫が獣に憑かれたからではない。


「いったいどこのどいつだ。迂闊な発言をして」


 思い出されるのは、会場に響いた「見て! イヨナルシアさまが獣憑きに!」という発言。姫の獣憑きが内々のうちに秘匿できれば、さほど大きな問題ではなかった。しかしあの余計な一言のおかげで、姫の憑き物は周知されてしまった。たとえ姫さま自身に落ち度がなくとも、皇族の汚点となったことに変わりはない。まして獣憑きだ。獣は火を恐れ嫌う。我がフェイエール帝国が祀る炎の大精霊カンカの祝福を受けられないどころか、自ら拒む異端者となってしまった。


「皇帝陛下はお許しになられるだろうか……」


 自ら口にした言葉を自らで嘲笑う。馬鹿な、ありえない、と。

 厳格な皇帝陛下はきっと冷徹に判断を下されるだろう。前皇帝ユドラウさまのご寵愛も、遥か遠き頂きからでは異端者となった姫を護ることはできない。であれば姫に残された道は……。


 想像する最悪の未来にゴクリと唾を呑み込んだ。


 皇族としての価値を失ったイヨナ姫の行く先は、良くて追放、最悪の場合、浄化と称した火あぶりだ。


「……逃げよう」


 私にはユドラウ殿下の恩義に報いる義務がある。実家であるロンドグラム家が没落した後、孤児院に引き取られた私を拾い上げてくれた。そして剣聖の技を授けてくださった。すべては遠い未来に生まれ落ちる愛しい孫娘のためだったのかもしれないが、それでも今の私があるのはユドラウさまのおかげなのだから。


 私は姫の寝室の扉をノックした。


「姫、大切なお話があります」


 ほどなく、キィと頼りない音を立てて扉が開いた。


「私がついておりますゆえ、そんな顔なさらないでください」


 最初に見たときはピンッと上を向いていた猫の耳も、今は不安げに下を向いている。耳だけじゃない、眉もハの字に端を下げて、菫色の瞳は今にも泣きだしてしまいそうで、ゆらゆらと光が揺れていた。


「ですがっ、わたくしは」


 姫も事の重大さを理解しているようで、酷く取り乱していた。


「大丈夫ですよ。剣聖ユドラウのただひとりの弟子である私を信じてください」

「お祖父さま」

「ええ。ひとまず皇都から脱出しましょう」


 私の提案に驚いて目を丸くした姫。

 このフェイエール帝国は大国だ。侵略を重ね版図を拡大してきた。皇都フェイエラントを中心としたもともとの領土に加え、周辺には多数の属州を従えている。そんな大国の皇女が危険にさらされることなどいままでありやしなかった。たまたま今が皇位継承争いで宮廷内がきな臭いけれど、長い歴史のなかで、皇族の護衛騎士とは名誉職の意味合いのほうが強かった。人数だってご覧のとおり私ひとりだ。他の皇子皇女たちだって同じ。それが今や姫さまにとって命綱となっている。


「脱出、ですか?」

「そうです、城を出て……そうだ、姫さまにかけられた呪いの解き方を探しましょう。西方の国ならばきっとこの呪いを知っている者がいるはずです」

「でも、わたくし、城の外には出たことがなくて」

「では皇女として死にますか?」

「!」


 姫はビクリと肩を震わせた。こんなことを言って、私は卑怯だと思う。けれどここで手をこまねいているわけにはいかない。


「……申し訳ございません。しかし、今はどうか私を信じてくださいませんか。それに壁の外には広大な世界が広がっていますから、きっと今の不安など吹き飛ばしてくれるような楽しいこともありますよ」


 気休めにしかならない言葉だが、姫は少し逡巡した後、決意するようにコクリと頷いてくれた。


「そ、そうですね。なによりわたくし自身のことですものね」


 私は姫の目をみて力強く頷いてみせた。


「では、馬を使うので騎乗用の服にお着替えください。ドレス姿では長く馬に乗れません」

「はい」


 と、返事をしたものの、衣裳部屋の前で足を止めた姫さま。


「どうかしましたか?」


 すると姫さまはギギギとぎこちなく振り返り、きまりの悪そうな顔をして答えた。


「わたくし、ひとりで着替えたことがなくて……」


 思わず脱力した。

 今からメイドを呼び戻すか。いいや、そんな時間はない。私は顔を上げて周囲を見渡す。誰も見ていないのであれば、これ以上姫の名誉が傷つくこともあるまい。


「わかりました。私が手伝います」

「そうですね、おねがいします」


 これまで私は、姫との間に異性として最低限の隔たりを作ってきた。しかし姫が生まれる前から主従関係だった私たちにとって、その隔たりはあってないようなものだった。歳だって倍以上離れていて、娘のような存在……というのは些か不敬だろうか、とにかく彼女にとっても私は、恥じらいを持つような相手ではないということだ。


「えーっと」


 とはいえ、女性のドレスを脱がせるなんて初めてのことなので、どうすればいいのかわからない。私が手を出しあぐねていると、姫はくるりと回って私に背中を見せた。編み上げ部分が目についたので、結び目から伸びる紐を引っ張ると、身体とドレスの間に隙間ができた。


「失礼します」


 前に手をのばして上から脱がそうとするが、腰の部分で引っかかってしまう。


「あの、多分全体的に緩めてからのほうが」

「す、すみません」


 姫に言われた通り、いったん胸元までドレスを戻して、編み上げ部分をしっかりと緩めていく。騎士が使う革鎧やブーツも紐で締め上げられているのだから、考えなくてもわかることだった。

 姫の背後で、再び姫のドレスを下ろしていく。純白のシュミーズに乱れたブロンドがしなだれる。酷く緊張していたのだろう、背中からはほんのりと汗の匂いがした。

 ややもたつきながらようやくドレスを足元に落とす。そして立ち上がり、


「騎乗服を」「ええ、あそこの部屋に」「……」


 しまった、先に用意するべきだった。

 衣裳部屋からそれらしい服を見繕う。そしてシュミーズをまくり上げてズボンを履かせた。しかしここにも落とし穴があって。


「しっぽが……」


 尻尾の居場所がなく、引っかかってしまうのだ。ズボンには脚を通すためのふたつしか穴が空いていないからだ。


「…………とりあえず今は片方の脚の方に。気持ち悪ければ後で穴を開けましょう」

「わかりました」




 上着も着せて、外套も着せて、フードを深く被らせて耳を隠した。そして音を立てないように部屋の扉を開け、周囲に誰もいないことを確認すると、静かに姫を連れ出した。


 廊下にはすでに灯りはなく、窓から差し込む月光だけが青い絨毯を照らし出している。その月明かりを避けるようにして私たちは馬屋へ急いだ。

 私の愛馬には鎧どころか、鞍も手綱も装着されていない。


「お前にも苦労かけることになるな」


 そうやって話しかけながら急いで馬具を装着した。もちろん目立つ鎧は付けていない。最低限の馬具だけだ。


「では姫さま、お手を」「は、はいっ」



 皇城の正門では、誕生パーティに出席していた貴族たちが帰宅したばかりで、ちょうど兵士たちが門を施錠しようとしているところだった。


「やあ、ごくろうさま。ちょっと通らせてもらうよ」


 私がフードをとって顔を見せると、門番に当たってた若い騎士は威勢よく敬礼し、何の疑いもなく私を通してくれた。憧れの視線を背に受けて私の胸は少し傷んだ。何も連絡を受け取っていなかったとはいえ、きっと明日には上官から責を問われることになるだろう。



 貴族街を抜け、市街へ。大通りはまだ赤々とランプを灯す店がまだ多く、たくさんの人で賑わっていた。大通りを通るのはひと目につくが、一本奥の道に入るだけで途端に治安が悪くなるので仕方がない。そしてフェイエラントの都市門。当然固く閉じられていた。

 私は姫を乗せた馬を引いて、夜番の門兵に声をかけた。


「おい」

「む、誰だ!」

「そう騒ぐな」


 私は胸に下げている皇族付きの護衛騎士であることを証明する紋章付きのペンダントを取り出した。


「門を開けよ」

「こ、これはっ。しかしこのような時間に外に出られる方がいらっしゃる連絡など――」

「それについてはどこかで行き違いがあったようだ」

「そうですか。では上司に確認してまいりますので、少々お待ち下さい」


 職務に忠実な兵士だが、今は邪魔なだけだ。ここは少し強引にいくか。


「それで、上司にも連絡がいっていなかったらどうするのだ。まさか今度は皇城へ問い合わせるのか? それでどれだけウル第二皇子の時間を奪うつもりだ。私の身分は確認しただろう、ささっと馬一頭通る隙間を開けよ」

「は、はい! 大変失礼いたしました!」


 フードを深く被った姫の方をちらりと見た兵士は、青い顔をして開閉器のところへ飛んでいった。

 皇族の名を騙るなど処刑ものの重罪だが、どうせ追われる身となるのだ、今さらかまうものか。姫さまの名を明かしても同じ結果は得られただろうけれど……これで多少の混乱は生まれてくれるはずだ。


 要求通り、馬一頭分の隙間が二枚の扉の間にできる。手間を掛けさせたなと駄賃を門兵に持たせ、私は西へ馬を走らせた。

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