無賃乗車
啾吾
無賃乗車
秋も半ばのことだった。
山も赤く染まりつつあり、私はと言えば蓄積したストレスで頭髪が白く染まりゆく思いであり、席を離れるたびに重苦しいため息を吐き出す日々を過ごしていた。
折よく友人から連絡が来たのは、上滑りな会話を続けていた昼休みのことだった。
「携帯に連絡が入った」と断りを入れて画面を開くと、『気晴らしに遠出して寺でも行かないか』と、いつもの簡素な文体で誘いの文句が書かれていた。
話を聞いてみると、どうやら友人もストレスを抱えているらしい。
お寺の清浄な空気を吸えば、胸の内のモヤモヤも少しは軽くなるかもしれない――そうでなくても友人とは学生時代からの付き合いで、気も合えば趣味も合えば話も合う。会って話をするだけでも随分なストレス解消になるだろう。
そう考えた私は二つ返事で了解の意を伝え、天気予報のアプリを開いた。
次の週末は全国的に快晴。
それだけで神様や仏様やその類の存在が旅路に幸あれと言ってくれているような気になって、なんだか気持ちが上向いたのを覚えている。
*
友人の名前をMとしよう。
Mと私の住まいは、車でおよそ1時間半の距離にあった。
位置関係で言えば、私の家からMの家を経由し、目的地に向かうのが最短のルートだった。
Mには事前にルートを伝えてあったため、自然と私が車を出す運びになった。
「久しぶりー! ショウ、車買ったの?」
助手席に乗り込みながらMが顔を綻ばせた。
数か月ぶりに顔を合わせるMは、以前よりもかなり痩せたように見えた。頬のラインがすっかり直線的になり、顎だってずっと尖っている。
「そう、背伸びしてね。ローン地獄。
しかもさ、見てよこの走行距離。まだ生後二か月の赤ん坊なのにさ、二万キロにも届こうかという勢い」
私がおどけてそう言うと、Mが身を乗り出してメーターを覗き込んだ。
「うわ、ほんとだ。ローン払い終わるころには買い替えなんじゃない?」
「そういう計算になるよねー。うまくできてるよ、そのへん。
この世は無常です」
シートベルトの金具がはまる音がした。新車だと聞いたせいか、Mの手つきはとても慎重だった。
「あ、道分かんないからナビお願い」
ぽちぽちといじって目的地までの道のりを表示した携帯をぽいとMに手渡した。
少しでも安くしようという私の思いにより、愛車にナビは搭載されていない。遠出するときは地図アプリのお世話になるのが常だった。
Mは表示された画面を見て目を丸くする。口もあんぐりと開いていて、例えるなら端午の節句のシンボルマークの屋根より高いアレのようだった。
「結構遠いね、二時間半か。疲れたら運転代わるから言って」
「了解。そうだなー、帰り道お願いしようかな。
初めて通る道だから、交代するポイントよく分かんないし」
「分かった。じゃ、行きはよろしく」
Mの返事を待って、発車しまーすの掛け声と共にアクセルを踏んだ。
ナビの機械音声が無機質な声で、到着時間と走行距離を読み上げた。
なめるなよ、そのくらい。片道一時間強の距離を車で通勤している私にとっては、ちょっと急用ができて早退します、と職場と家の間をとんぼ返りするのに等しい。
私は山越え坂越え橋を渡り、誰もいない山道にぴかぴかの新車を走らせた。
目的地であるお寺に到着したのは、ナビの見立てとほぼ同じ時刻。お昼を30分ばかり過ぎた頃だった。
どうせなら現地でちょっといいものを食べようということになって、私とMはお腹を空かせたまま駐車場へと降り立った。
「この道をまっすぐ行ったら右側に看板が立っていますから、それを目印にするといいですよ。もし迷っても、人の流れについていけば着くでしょうから」
親切に教えてくれたのは駐車場の料金所にいたおば様だ。周辺の地図とお寺のパンフレットのようなものと、オマケとばかりに周辺の観光案内も渡してくれた。
人の流れというのはなるほど、少し歩いてみればすぐに理解できた。
世は土日、空は秋晴れで雲一つなく、気温は春か初夏かと思うばかりの暖かさで、これでもないくらいの行楽日和。
その上山々は夏の名残を色濃く残した青葉から、燃え盛るような緋色へのグラデーションがなんとも美しく、朱一色の紅葉とはまた違った趣があった。
少し遠くから来た私たちにとっては偶然も偶然、狙えるはずもない全くの僥倖であったが、近隣の住民からすれば「ちょっと足を伸ばすか」と思わせるのに相応しいロケーションが揃っていた。
「なるほど、地元ナンバーが多かったわけが分かったね」
「近場にこんな絶景スポットがあったら来るよねー。団体さんからソロ客まで、様々な方がいらっしゃいますなあ」
私たちは二人肩を並べて本堂を目指していた。
駐車場から本堂までは結構な距離があるようだった。しかもほぼ砂利道で、舗装されてはいない。階段がわりなのか、申し訳程度に埋められた木の棒を足がかりに、なかなか手強い曲がりくねった傾斜を攻略する羽目になっていた。
「こんなことなら、第一駐車場に停めるべきだった……!」
日頃の運動不足が祟り、私の息は早くも上がり始めていた。私たちが駐車したのは第二駐車場で、本堂からは少しばかりとはいえない距離がある。車が少ない理由をもう少し考えてみればより近くの便利な場所に駐車場があると思い至りそうなものだったのに、何の疑いも持たずにすんなり車を停めてきてしまった。
「そうだねえ。お金払ってから気付いたしねえ。
まあ、いい汗をかけばストレスも軽減されることでしょう!」
「それはそうかもしれないけどー、暑いよー」
私は薄手のジャケットを脱いで鞄の中に押し込んだ。
失敗したな、と思った。晴れの確率100%を疑ったわけではまさかないが、行き先は山なのだから寒かろうと上着の着用を選んだ自分を呪った。
道は左右から林に挟まれていて、直射日光が当たるわけではない。しかし木々の合間を縫って地面に模様を刻む木漏れ日が今は恨めしくてたまらない。そうやって体感温度を上げないでほしいと切に願った。
「なるほどね、神社、仏閣、巡りをすれば、気持ちが晴れる、っていうのは、こうやって、参道を、一生懸命、歩くことで、汗を流し、爽快感を、感じることに、起因すると、」
「ちょっと息上がりすぎじゃない? 大丈夫?」
「だ、だい、大丈夫……」
涼しい顔で歩いている周囲の参拝客が信じられない。まさか皆様常日頃から登山を嗜んでいらっしゃる? デスクワークである以上仕方がないが、少しは体を動かして体力をつけようと心に誓う。
一方Mは少し汗ばんではいるものの涼しい顔でちゃきちゃきと足を動かしていた。
「あ、あそこにお堂があるよ。あそこも参拝できるみたい。
休憩がてら手を合わせていこうか」
「そ、そうする」
一も二もなく頷いた。
顔を上げると、Mの言う通り坂から外れた位置に小さなお堂が見えた。他の参拝客の姿もちらほら見える。
お堂の前の平坦な道が足の裏に心地よく、私はふうと大きく息を吐き出した。久方ぶりに舗装された道を踏んだ気がした。やはり現代の技術は素晴らしい。
額の汗をぬぐい、襟元をつかんでぱたぱたと空気を送る。汗が引いていく感覚がとても心地良い。
お賽銭お賽銭――鞄をごそごそと探り、財布を取り出したその時だった。
寒い。
一瞬で汗が引いた。全身の産毛が逆立った。
無風だった。風はなく、木々は揺れず、変わることなく日光が斑に私の体を舐め回していた。
背中を悪寒が駆け巡った。意味もなくつま先が震えた。
寒い。
道中の暑さが嘘のようだった。
小さく震える指でなんとかジャケットを探り当て、鞄から引きずり出して羽織る。
「? あれ? 暑いって言ってなかったっけ?」
隣を歩くMが怪訝そうに私の顔を覗き込んできた。
Mの額にうっすら汗が浮かんでいるのが見えた。
「うん、暑かったんだけど……、汗が引いたのかな。寒くて。Mは平気?」
「むしろ暑いよー。ショウほどじゃないけどさ、汗かいちゃった」
「……そっか」
そっと腕を撫でた。鳥肌がおさまらない。
なぜ、急に。
汗が冷えたか。こんなに急激に? 気温が下がったか。私の周りだけ? 体温が下がったか。今の今まで、暑い暑いと呻いていたのにか。
お賽銭をちゃりんと投げる。震える指先でもどうにか失敗せずに済んだ。
手を合わせる間にも、寒気は消えてなくならない。
お堂の屋根から薄く落ちる闇が急に恐ろしいものに思えてきて、目を瞑るのが怖くなった。
湿った苔のにおいがひどく不気味に思えてきて、ぐっと唇を噛みしめた。
全身が痺れるような感覚に襲われた。耳鳴りがする。低く低く、夜中の街灯の下を歩いた時に感じるような、空気が振動するような音が聞こえている。
寒い。袖を引っ張った。
さっきまでとは違う汗が一筋、背中をつたったのが分かった。
「どうかした?」
「……ううん、なんでもない」
きっと気のせいだ。
背筋のあたりがざわざわと落ち着かないのも、このやまない耳鳴りも、両手が震えるほどの冷気さえ。
その日一日、異常なほどの寒気はやむことはなかった。
長袖を持っていて正解だった。自分でも気持ちが悪いほどに粟立った皮膚を、友人に見せなくて済んでほっとしていた。
本堂へ辿り着き参拝を済ませ、空きに空きまくったお腹を満たして駐車場へ帰ってきた頃にはだいぶ日も傾いていた。
「じゃあ帰りは私が運転するから」
「お願い」
自分の車の助手席に乗ることはなかなかない。新鮮な気持ちで車に乗り込み、Mに車のキーを渡した。
一度通った道ではあるが、暗くなれば分からなくなるだろう。
今度はMの住む地域を目的地に設定し、携帯を膝の上に乗せた。
「体調でも悪かった?」
Mがぽつりと口を開いた。
「え?」
「いや、最初はあんなに暑いって言ってたのに、途中で上着手放さなくなったから。お昼は普通に食べてたけど……、顔色あんまり良くなかったし」
「そう、だった?」
「うん。……体調悪かったなら無理に遠出させて悪かったかなって。ごめんね」
私は慌てて両手をぶんぶんと振った。
「違う違う。誘ってもらって嬉しかったし、久しぶりにMに会えてよかったよ! 体調も悪くなかった。これはほんと」
Mは納得していないようだった。
付き合いの長い友人には私の様子がいつもと違っていたことなどお見通しだったらしく、ずっと気を遣わせていたことが申し訳なくなってきた。
別に大したことではない。体調も悪くなかった。本当だ。
しかしこんなことで友人の気を病ませてしまうくうらいならと、私は話してみることにした。
Mは私の話を微塵も疑っていなかった。
「そうだったんだ……」
「Mは何も感じなかった?」
「うん、私は何も。
ショウって霊感とかあったっけ?」
私は首を横に振った。
『その先、左方向です』
ナビが機械的に帰り道を示してくれている。峠に差し掛かり、あたりは真っ暗だった。街灯もなく、人の気配もなく、日はとうに沈み月もない。この機械音声の導きがなければ、曲がり道など素通りしてしまっていたかもしれない。
「第六感的なものはとんと。
だからまあ、気のせいかなとか、思い込みかなって思ってるんだけど。何か見たとかじゃなくて、ただ寒気がしただけだしね」
「わっかんないよ~。普段霊感が無くてもさ、波長? ピント? チャンネル?
ともかく、相性みたいなものが合えば見えることもあるらしいじゃん。
ショウと波長が合うなにかがそこにいて、無意識に寒気っていう形で感じ取ったのかもしれないよ~?」
Mはやけに楽しそうだった。そうだった、Mはこういうオカルトじみた話題が大好きだった。
私も普段はそのクチで、怖い話だの怪談だのを収集しては面白がり、夜中になってから後悔する怖いもの見たさなタイプなのだが、この時ばかりは話に乗る気になれなかった。
『その先、斜め右方向です』
Mがすいすいと車を走らせる。
相変わらず暗い。対向車も後続車もなく、民家の気配もない。頼りになるのは車のライトだけだった。
『その先、右方向です』
「ねえM、携帯やたら喋ってる気がしない?」
「私もそう思う。行きはもっと一本道で、ナビがここまで喋ってなかった気がするんだけど……。おかしいな、どこかで道間違えたのかな」
『その先、左方向です』
『その先、直進です』
ナビは休む暇なく道を示し続けている。
おかしい。絶対におかしい。
「M、戻ろう。変だよ、行くときはこんなに頻繁に曲がったりしなかった」
「変なのは分かってるけど、もう来た道なんか分からないよ!」
手元の携帯に目を落とす。
目的地は変わらない。到着時刻も変わらない。道筋だって――
目を見張った。
「なんで――」
思わず声が出た。画面を縮小した。地図の表示倍率を下げた。上げた。見間違いかと思った。
それでも、私の目に映るものは変わらない。
掌に汗が滲んだ。思わず、携帯を取り落としそうになった。
「なんで、道筋が――まっすぐなの?」
Mが息をのむ音が聞こえた。
だってそうだろう。こんなに曲がってきた。こんなに複雑な道を走ってきた。
左へ、斜め右へ、右へ、左へ。言う通りに走ってきた。声に従って走ってきた。
地図の示す方角ではない。いつしか、声の通りに走ってきた。
走ってきた? 違う。
きっと私たちは、走らされてきた。
『目的地は、左方向です。お疲れ様でした』
平坦な声がした。背筋が凍る思いだった。
どうやら行き止まりのようだった。
車が止まる。対向車がいないのをいいことに上向けていたライトが、容赦なくあたりの様子を照らし出していた。
木々が鬱蒼と生い茂っていた。右側は斜面になっているのだろうか、密に重なる木々が私たちに覆いかぶさるように枝葉を伸ばしていた。
夜がなお暗く見えた。
恐る恐る視線を左に移した。『目的地は左方向です。』耳に残る平坦な声がまた脳裏にこだました。細長い棒きれが見えた。何か文字のようなものが書かれているのが確認できた。『目的地は左方向です。』見てはいけないと思うと、途端に他の感覚が鋭敏になった。どこからか水の音が聞こえた。沢でもあるのだろうか。『目的地は左方向です。』左手、何かが光を反射していた。磨き上げられた石のようだった。重厚な存在感を放つそれらが、白く眩しい光を反射してなお夜闇に黒く、不規則にしかし整然と並んでいた。
『目的地は左方向です。』
左方向。疑う余地もなかった。
見た。
しっかりと理解してしまった。
ここは、墓地だ。
*
その後は二人とも、わざとらしいくらいに明るい話題を選んで喋った。
どうやってもとの道に戻ったのだったか。恐ろしいから携帯の電源は落としてしまった。電波を拾う気になどなれず、ラジオは切って音楽プレイヤーを繋いだ。馬鹿らしいくらいにノリのいい曲ばかりを選んで流した。
大きい道路に出てからはひたすらに、標識を目印に走った。
街の明かりが見えた時には心の底から安心した。私たちはちゃんと戻ってくることができたのだと思った。
別れ際にMは、「ガソリン代を払うよ」と申し出た。私はそれを断った。途中で寄ったコンビニで買ったお茶やお菓子の代金はMが支払ってくれたし、駐車料金だってMに出してもらった。そこまでしてもらってさらにお金をもらうなど考えられない。
それでもMは「タダ乗りしたみたいで申し訳ない」と不満そうだったから、「じゃあ次に会うときは一杯おごってよ」と冗談交じりに言ったが、ご馳走してもらう気など毛頭ない。むしろ変な目に遭わせてしまった私こそが、Mに何かしらの埋め合わせをするべき立場なのだから。
Mと別れて、私は一路我が家へと車を走らせた。
だけど――今になって思えば、
わざわざそんなことをしなくとも、一人ではなかったのではないだろうか。
もしかすれば、誰かがずっと一緒にいたのではないだろうか。
誰かが一緒だったとして、いつから、どこからどこまで一緒だったのか。
物見遊山に寺を訪れていたその誰かを、墓地まで送らされたのだろうか?
それとも墓地にいた誰かを乗せて、私は家へと帰ろうとしているのだろうか?
私にそれを確かめる術はなかった。
仮にこの出来事が幽霊のせいだったとして、私には霊感はないからだ。
タダ乗りしたのは、誰だったのか。
怪談において、無賃乗車してくる幽霊というものは置き土産とばかりにシートを濡らすのが常ではあるが、私の新車のシートには汚れ一つなく、ただ一枚の枯れ葉が落ちているばかりであった。
了
無賃乗車 啾吾 @rot02_k
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