空中遊泳

    ◇


 内心ヤバいとわかっていたけど、相手から視線をはずさなかった。気持ちで負けたらダメだと思った。


 ほどなく、長身の男は好戦的な笑みをうかべながら、ゆっくり歩み寄ってきた。……やっぱりマズかったかな?


「何か文句があるみたいだな」


 長身の男が居丈高いたけだかに言った。


「みっともないことはやめたらどうですか?」


 毅然きぜんと言い返す。まちがったことは言っていない。


 言葉より先に、相手の右腕が飛んできた。いきなり胸ぐらをつかまれ、頭の中が真っ白になった。


 さらに、小太りの男が遅れてやって来て、背後に回り込まれた。そして、ニヤニヤしながら、僕の肩に手を回した。


 一挙に反抗心がそがれた。体格的に腕力では一対一でも勝てそうにない。逃げ道も完全に失われた。


(夢だからって調子に乗りすぎた……)


 内心で反省の弁を述べる。


 それと同時に、この夢は長すぎると思った。今の今まで、心から楽しんでいた。けれど、もう十分に満喫まんきつした。これ以上は蛇足だそくだ。


 心の中で『起きろ、起きろ』と強く念じた。


「聞こえなかったな。もう一度言ってみろ」


 長身の男にすごまれた。小太りの男が肩もみを始める。


「いえ……」


 顔をふせて口ごもった。もうまな板のこい状態だ。夢からさめることに、望みをかけるしかない。しかし、切なる願いはなかなか届かなかった。


「どうしてそんなことになってるの!?」


 後方でダイアンの声が上がった。


 屋敷の角をまがる直前に、彼女は事態に気づいたようだ。男として、小柄な彼女に助けを求めるわけにいかない。


 くだらないもめ事を起こしてすいません。そんな思いを眼差しにこめた。


「ちょっと待ってて。すぐに助けを呼んでくるから!」


 ダイアンはそう言い残して姿を消した。


「ほうっておいていいのか?」

「いいさ。ケンカをふっかけてきたのはコイツだし」


 小さい頃から、正義感は人なみに強かったと思う。ただ、それは自分自身に対して課されるばかりで、こういった形で発揮されたことはほとんどない。


 例の能力のせいで、気が大きくなっていたのだろうか。のん気に自己分析していると、偶然にも、突破とっぱこうを見出す。


 ――というより、自分のバカさ加減に気づいた。〈悪戯〉トリックスターを用いれば、この状況を打破できるじゃないか。


 まっ先に思いうかんだのは、腕力や脚力の強化で逃げること。弱腰の案だけど、いたずらに事を荒立てたくなかった。


 確か、〈悪戯〉トリックスターで操作できるのは、人間の感覚・自然現象・物理法則の三つだった。人間の感覚というのは、視覚とか痛覚とか、そっち方面か。それだと、腕力や脚力は該当しないか……。


 いや、物理法則でどうにかなるかもしれない。重力を軽減すれば、相手を羽根のように軽くすることだって、鳥のように空を飛ぶことだって思いのままだ。


 どれだけの効果があるか、疑問はある。失敗すれば、相手を刺激するだけに終わるだろう。でも、イチかバチか試してみるしかない。


 軽々と相手を投げ飛ばすイメージを、胸に思いえがく。油断しているすきを見計らって、相手の両えりをつかみ取り、間髪入れずに、背負い投げの体勢に入った。


 意表をついたつもりだった。しかし、相手の反射神経が一枚上だった。


 突然、体が自由を失った。くうを切る両足の感覚と、激しい息苦しさにおそわれた。まるで赤子を抱き上げるかのように、片手一本で持ち上げられていた。


「何だこいつ。めちゃくちゃ軽いぞ」


 長身の男は自身の行為におどろきを隠せない。ある結論にすぐ行き着いた。


(もしかして、この能力って特定の相手以外にも適用されるんじゃ……?)


 そういえば、能力の有効範囲は、自身の周囲十メートル以内の『空間』と書かれていた。要は、同じ空間にいるかぎり、その効力は自身にもおよぶということか。


 使い勝手の悪さに、乾いた笑いが出た。


 たとえそうだとしても、何か打開策があるはずだ。考えをめぐらすと、意外に早く妙案がひらめいた。


 それなら相手を巻き込む形でも問題ない。むしろ、巻き込まなければ意味がなかった。


 さっそく能力を発動――厳密には、先ほどから使用していた力を、限界まで強くした。予想通りの効果が、空間に展開され始める。


「おいおいおい!」


「何だ何だ!」


 体の制御を失った二人組が宙を舞い始め、パニック状態となって四肢ししをバタつかせる。


 そう、完全に重力を無効化した。


 初めて味わう無重力状態。その浮遊ふゆう感に、いまだかつてない感動をおぼえながらも、今は空中遊泳に酔いしれている場合じゃない。


 手始めに、長身の男の手を振りほどき、すかさず相手の腹目がけて、渾身こんしんのドロップキックを入れた。


 水をけるような感触だったけど、予想以上に体勢をくずすことに成功。相手の体は、その勢いで宙を回転しだした。


 タイミングを見計らって、能力を解いた。重力が元に戻る。長身の男は背中から地面にたたきつけられ、小太りの男は尻から落ちた。


 それがわかっていた自分は、見事に着地を決めて、その場から一目散に逃げだした。

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