熱帯

@nanome

熱帯

 夜の十一時前だというのに駅の構内は人でごった返していた。ハトは改札横のキオスクで烏龍茶をレジに出し、店員がバーコードを読み込んでいる間に電光掲示板で次の電車が終電かどうかを確認した。

 ハトが電子マネーで支払いを済ませると彼を押し退けるように野球帽を被った男がレジに週刊誌と缶ビールを置いた。よく見るとその服も球団のユニフォームで、首からは球団名が真っ赤なロゴで書かれたタオルを下げていた。

 辺りを見回すと同じような服の人間が何かの目印のようにチラホラと見えた。その全員が一様に肩を落としていて、最初は試合に負けたのだろうなとハトも思っていたが、そのうちの一人とすれ違ったときにSNSを表示しているスマートフォンが目に入った。彼らはがっかりしているわけではないのだとハトは理解した。忙しいのだ。その日自分が何を見て、何を聞いて、何に触れて何を感じたかいち早く世界に知らせるために自分の顔よりも小さい画面の中へ必死に書き込んでいる。まるで労働のようだと思った。

 駅の東口の方から大きな声がした。祭りの集団が神輿を担いでやってきたような騒ぎだった。しばらくその方角を眺めていると人と物がごちゃ混ぜになったような塊が改札に向かって押し寄せてきた。報道陣が誰かを囲んで光や音を浴びせながらこちらに進んでいるのだ。背後から舌打ちが聞こえた。ハトは反射的に振り返ったがそれが誰から発されたものかはわからなかった。電光掲示板のものかもしれないと一瞬だけ思った。普段とは違う騒々しさに機械たちも苛立っているのかもしれない。再び報道陣に目を向けたがもうそれは人の塊と例えるのは難しかった。ミラーボールだ、巨大なミラーボールが駅の中を転がっている。

 ハトはだんだん頭が痛くなって、自分が乗るべき電車のホームへと歩き出した。何気なく自分の頬を撫でると八月にもかかわらずとても冷たくなっていて、その冷たさが少しだけ彼に吐き気をもたらした。風邪を引いたんだ、きっとおれは夏風邪を引いた。階段を下りる途中でパブロンがあとどのくらい家に残っているか記憶を探ると、黄色い錠剤と右の口角だけやたら上がった笑顔が浮かんだ。ちょうど去年の夏、ハトが面接を受けに行ったソフトクリーム工場の面接官の顔だった。


「ソフトクリームはね、ここじゃ完成しないんだよ」

 工場を案内しながら面接官は言った。彼はスガワラと名乗っていた。

「僕らが作っているのは柔かいアイスだけだ。このアイスを柔らかいままでお店へ運び、サーバーに詰め込む。そしてお客さんがお金を払ってサーバーが起動し、コーンの中でアイスがゆっくりととぐろを巻いたら完成する。ソフトクリームはお客さんに届く直前になって初めて完成する食べ物なんだよ」

 応接室に戻ってもスガワラはメッシュの白帽子を被ったままだった。ハトは自分も被り直すべきかと考えたが、スガワラがすぐに口を開いたためタイミングを見失ってしまった。

「君は、うん、いいや。とりあえず通しておこう」

「え?」

「いいんだ。どうせ全部決まるのは最終面接だから。君は面白そうな目をしているから合格だよ」

 面白そうな目とはなんだろうか。ハトはこういった文言を全く信用してなかった。人は目を見ればわかる、とか送ってきた人生が表情に出る、とかそんなものは当てずっぽうで、結局そういった決めつけを並べることで相手より優位に立ちたい人間がこの世には多いんだという結論が彼の中にはあった。

「暗いだろう」

 スガワラの右の口角が上がった。奇妙な笑顔だった。

「いえ……工場の照明はしっかりしてましたけど」

「いやいやそうじゃないんだ。そうじゃない。暗くて暗くてしょうがないはずなんだ。目を見ればわかる。君の目にはぽっかりと穴が開いている」

「穴、ですか」

「そうだよ。君はそもそも工場の中をマニュアル通りに動き回る必要はないんだ。目に穴の開いている人間はもっと自由であるべきだからね。創造的なことに携わっているとなお素晴らしい。ああ、でもこれは僕の持論なんだけど、人間が自分でものを作る時代は残念ながらもうとっくの昔に終わっているんだよ。さっき見た通りソフトクリームだってほとんどが機械の手で作られていただろう? 彼らのスピードはとんでもなく速いぞ。いずれは作ることだけでなく人間は機械に全てを奪われようとしているんだ」

 僕はね、それでもいいと思ってる。そう言ってスガワラは湯呑みに右手を伸ばした。ハトはもう帰りたくなっていた。家に帰って、読みかけのチャンドラーと聞きかけのフォールアウトボーイの続きを楽しみたかった。

「ただそれでも、毎年生まれてくる子どもたちの中には目に穴が開いているものがどうしても出てくるんだ。それも結構な確率で。僕の甥っ子もそうなんだよ。彼は4歳でオリジナルの電子回路を組んで6歳でアメリカに行った。今は11歳でロンドンの大学にいるんだ。勘違いしないでくれよ、自慢話をしているわけじゃないんだ。つまり穴っていうのはそういうことさ」

「何か巨大な才能ってことですか?」

 自分にそんなものがあるなんてことは到底考えられなかった。せいぜいこの社会の歯車という枠の中で歪んだジグソーパズルのように無理矢理収まるのが関の山だと思っていた。

「ああやっぱり伝わっていなかった。いいかい、穴っていうのは器だ。人間が何かを為すためのエネルギー……呼吸するとか歩くとかそういうことじゃない。それは単なるカロリーだ。ソフトクリームで十分補える。目的を持ってそこに向かって行動して、成し遂げる。それら全てに必要なエネルギーを出したり入れたりするのが目の中に開いた穴だ」

 スガワラはハンカチを取り出し、額ににじんだ汗を拭いた。

「ただし穴が開いている人間は気をつけなければならない。例えば君がそうなんだが、エネルギーを出すことを知らないと穴はいつの間にかが起きてしまう。暗いってことは目の穴でが起きてるってことだ。あんまり穴がつまっていると行き場を失ったエネルギーは暴発するんだ」

「暴発」

「そう、暴発する。一昨日だったかな。モールで暴れて二人殺した男がいただろう。彼の写真を見たらすぐに目の穴に気がついたよ。とても大きかった。そんな大きい穴を持ち合わせていながらエネルギーを出す術を知らなかったんだ。ああいう形で暴発するのも仕方ない」

 スガワラは本当にがっかりしているように見えた。ハトは残り少ない緑茶を音を立てないように啜った。何かちゃんとした、転職活動中の若者がするべき質問を投げかけるか迷っていた。御社は、と言いかけた時に工場のスタッフがノックをした。機械が故障してソフトクリームが噴火しているという話だった。

「申し訳ないけど面接はこれで終わりにしよう。最後にこれだけ伝えておくよ」

 君もいずれ全てに見捨てられたくなる時が来る。それが暴発の兆候だ。そう言ってスガワラは応接室を出て行った。

 帰りの電車の中でハトは工場の様子を思い浮かべていた。一面がペンキをぶちまけられたように真っ白になったフロア。甘い匂いの中で右往左往するスタッフたち。体中をベタベタにしたスガワラが機械の穴を工具で無理矢理塞ぐ。再び噴出するソフトクリーム。

 田園の中に夕暮れが溶けていく。浮浪者と思わしき男が優先席に横たわってをかいている。意味もなく「深い穴」とグーグルで検索すると「ギアナ高地の縦穴」という項目を見つけた。サリサリニャーマ山の中には巨大な穴がいくつも開いており、その中では動物植物問わず独自の生態系が広がっているという。後ろ足が発達して木登りを行うカエル、鎧のような羽を持った鳥、体は藁のように細いが目だけ異様に発達した蛇。もし原子顕微鏡みたいなもので人間の目に開いた穴を覗けたらきっとそこにはろくでもない生態系が広がっているんだろうとハトは何となく思った。縦穴に関するドキュメンタリー動画もあった。スペイン語で話す浅黒い探検隊はロープを使ってスルスルと350mの縦穴を下っていく。岩壁に巣を作る鳥の映像を撮影し、地下水に足を浸して彼らは楽しんでいた。それは未知の世界への決死の探検と言うよりも既に整地されたフィールドでの学術調査に近かった。

 携帯の充電が20%を切ったという通知が入り、ハトは電源を切って目を閉じた。想像の中のソフトクリーム工場は未だ真っ白のままだ。人間たちは悲鳴を上げ、機械もそれに負けないくらい鋭い音を立てて壊れ続けている。君も全てに見捨てられたいと思ったのかい。窓枠の影を頬に浴びながらハトは呟いた。


 気付けばハトはこめかみを押さえて階段横の自動販売機にもたれかかっていた。そうだ、終電はどうなった。電光掲示板では赤文字で「大変お詫び申し上げます」の文字が流れていた。薄く目を開けて文字を追っていくとどうやら二つ前の駅で人身事故が起きたらしく、そのせいで電車は四十分の遅延を起こしているということだった。

「大丈夫ですか」

 中年の女性がハトに話しかけた。くたびれたスーツに使い古した鞄を持っていた。ハトは高校のときの教師を思い出した。生物の教師がちょうどこんな感じだった。生意気盛りの生徒からは毒にも薬もならないと上から目線で判断され、本人もまた教育は仕事と割り切って生き甲斐を他所に見出すような教師だった。

「大丈夫です。すいません」

 ハトは少しふらつきながらホームのベンチへと向かった。キオスクで見た野球帽の集団や帰宅するサラリーマンがほとんどの席を埋めていた。振り返ると先ほどの女性が心配そうにこちらを見ていた。穴だ。ハトは気づいた。女性の目の中にはとても深く、暗い穴が開いていた。

 二人の間を人混みが遮った。ハトは何とかして彼女の目をもう一度見ようと体をよじった。見せてくれ、その穴を、その暗さを。その穴には何が住んでいるのかを。バランスを崩さないようゴミ箱の上に登り、やっとのことで動き回る頭の群れから見つけ出した時、彼女の肩に野球帽がぶつかった。どこ見てんだババア。野球帽がこれ以上にないくらいの怒声をばら撒いた。頭の群れが号令をかけられたように動きを止めた。スポットライトが当てられたように群衆の視線が二人へと向かった。

「てめえみたいなのがいるから試合で負けるんだ。むしゃくしゃさせやがって」

 この野郎、この野郎。野球帽は女性をなぎ倒すとくたびれたスーツの上から何度も踏みつけた。女性の体は踏まれるたびにズッズッと動き、鞄は点字ブロックの上を跳ねた。頭の群れは微動だにせずそれを見守っていた。誰かが助けに行くだろう。誰かが行ったら自分も続こう。全体からそんな雰囲気が漂っていた。

 そんな考えを微塵も持っていないのはハトだけだった。彼はずっと、女性の目だけを見続けた。誰も気づいていないが、穴はどんどん広がっていく。目を越え、瞼を越え、眉を越えた。気がつけば目に開いた穴は顔全体をすっかり侵食していた。

 やめてくれ。ハトは叫んだ。頭の群れは一斉に彼の方を振り向いた。急に現れた目と鼻と口たちを見て、まるで空間に鳥肌が立ったようだとハトは思った。やめてくれ。それ以上はもう見たくない。早くその穴を元に戻してくれ。野球帽の男も踏みつけるのをやめてハトの方を見た。

 その時だった。既に上半身のほとんどを占めていた暗い穴から白い触角のようなものがチラと見えた。触角はやがて厚みを持ち、穴の淵から出たり入ったりするような運動を繰り返した。

 あっ、と誰かが声を上げた。野球帽の男は古びた鞄を横っ面に食らい、線路へと突き飛ばされた。男は鋼鉄のレールに後頭部を打ちつけ、赤黒い液体を流しながら痙攣した。血は湧き水のように這い出て、野球帽もユニフォームもロゴタオルも赤黒く染めた。

 古びた鞄は続けて最前列で傍観していたサラリーマンの脇腹をとらえた。

「何をするんだ」

 サラリーマンは凄もうとしたが、その前に眼球にボールペンを突き立てられ、ホームの上を転がり回った。頭の群れはドラムロールのようなどよめきから悲鳴の輪唱に切り替わり、遂にはわけのわからない騒音へと変貌した。


 穴の淵にいた触角は翼だった。翼の先端を触角と見間違えていた。野球帽が線路に落ちた時、穴からは見たことのないような鳥が飛び立った。白い大鷺かとハトは思ったが、その鳥はフラミンゴのように細長い脚を持ち、猛禽類のように鋭い爪を持っていた。コウノトリのように紅い顔をして、ペリカンのように大きく口を開けていた。サラリーマンがボールペンで刺されると更にもう一羽が飛び立った。

 逃げ惑う群衆の波に逆らえず、ハトはゴミ箱の上から落ちた。左肩を強く打ちつけ呻き声を上げた。痛みを堪えて目を開けると逃げて行った群衆はほんの一部だということがわかった。多くの人が巨大な穴に向かって携帯を向けている。小さな光と電子音が騒音に混じって不協和音を奏でている。ピロリンピロリンキュポッピィピィピロリンキュポッピロリン鞄が再び誰かを殴り倒した。穴からまた鳥が飛び出す。女性はもう暗くて大きな穴そのものと化していた。バサバサバサと羽音を立てて、鳥の群れが広がった穴から出ようとしている。数羽続けてハトの頭上を飛んでいった時、穴は突如として大きく歪んだ。ボールペンを刺されたサラリーマンが女性を羽交い締めにしていた。無理矢理開けられた彼の目の穴からは無数のムカデが這い出していた。ムカデは傍観者たちの足に絡みつき、凄いスピードで体の上を登っていく。あああああ。誰が叫んだのかハトの位置からは見えなかった。藍色の野球帽が宙を舞った。写真を撮り、撮られる関係性は殴り殴られる関係性に続々と変わっていった。滑稽な電子音は液体の飛び散る音、骨が折れる音、線路に落ちる音になった。ハトは最前線を駆ける兵士のようにできるだけ姿勢を低くしてホームを抜け出そうとした。数歩進むと目の前で別の野球帽の男が倒れている。手の込んだフェイスペイントは半分以上が血に染まっていた。もう事切れているのか、口の中にカナブンが入っていっても微動だにしなかった。スーツは擦れ、顔には容赦なく塵や埃が纏わり付いた。吐瀉物に塗れた階段を這って登り、改札の方を向くとそこでも地獄絵図が広がっていた。

 キオスクの店員は包丁を振り回し逃げ惑う女性の口を裂いた。ミラーボールは完全に瓦解し、報道陣の一人はステージで暴れるギタリストのように大型のカメラを駅員に叩きつけていた。誤作動を起こしたスプリンクラーが悲鳴を上げている。自動改札は狂ったようにバタバタと開閉を繰り返している。

 誘爆だ。暴発が誘爆を起こしている。目に穴の開いた人間が暴発を起こし、穴の開いてない人間にも無理矢理エネルギーを注ぎ込んで再び暴発を引き起こしている。自分もこのまま暴発したら……ハトはそんな考えが脳裏をよぎってゾッとした。駅を出て、ネットカフェにでも入って朝まで過ごそう。リクライニング席の中で毛布にしがみついて震えが収まるまで閉じこもっていれば大丈夫になる気がした。今起こっていたことをまだ現実と捉えきれていない自分がいたが、それでいいとも思っていた。これを現実だと認識してしまえばおれも戻れなくなるぞ。

 荒い息を整えて改札に向かおうとした時だった。自動改札が轟音とともに爆発した。数人巻き込まれて、黄色い体液がハトのスーツにべったりと張り付いた。スプリンクラーが本格的に作動した。豪雨のようになった構内では赤黒い液体がフロア一面に広がった。

 右の口角を異常に上げた笑顔が浮かんだがハトはそれを振り払うように改札へと一歩を踏み出した。既に穴はあちこちで開けられて、様々な生態系が構内で広がっていた。足が8本あるカエル、象のように大きいネズミ、虹色のライオン。葡萄のような疑似餌を付けたウツボカズラ、鳥の死骸に生えたキノコ、腐ったミンチ肉のような臭いを放つアサガオ。人間が死んで、機械が壊れる度にそれらはどんどん増えていった。

 遠くからブレーキ音が聞こえた。何かをすり潰すような音も聞こえた。電車が到着したのだ。あっ暗い。ハトは自分の右目に光が入ってきていないことに気付いた。待ってくれ。俺は暴発なんてしたくない。ハトは跪いて右の瞼をこじ開けた。2mmほど飛び出した眼球を指でなぞり、光を送り込もうとする。目の前で電光掲示板が音を立てて落下した。火花とガラスの破片が飛び散り、その一部が彼の腕に刺さった。低く呻いて赤い床を転がり回る。

 右目の視界は絹のクロスをかけられたように白くなった。眼孔からは血が流れ出している。もうちょっとで帰れたのに。おれはいつもそうだ。ハトはソフトクリーム工場の最終面接で落とされたことを思い出した。風の噂で社長のコネを持っていた若者が受かったことを聞いた。そこから急に現在の仕事が忙しくなり遂に転職は諦めた。悪いのは何だ。おれなのか、ソフトクリーム工場なのか。責任の割合を分配したところで結果が最悪なことには変わりがなかった。

 スピーカーからノイズ混じりに終電のアナウンスが告げられた。消防車のサイレンがこちらに向かっているのが聞こえる。ハトは手摺を伝ってもう一度階段を下りて行った。ホームにもう電車の姿はなく、血を流して倒れ伏す人々とトマトピューレのような臓物と血液が線路のシミになっていた。

 全てを諦めたくなるような光景だったが、ハトは深呼吸をして線路の中に降り立った。角の生えたカバと目が合ったがカバは何も言わずに線路の中へと潜っていった。血と体液でぬるりと滑る枕木を踏み越えて線路の先を進む。痺れる指先を握りしめ、唾を深く飲み込んだ。サリサリニャーマの縦穴をロープで脱出する探検隊の映像が浮かんだ。まだおれは見捨てられたくないんだ。見捨てないでくれよ。うわごとのように呟きながらハトは夜の静寂しじまの中を歩き続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

熱帯 @nanome

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る