湯気の立つシチューは、空のリクエストだ。大きめに切った野菜が、白いスープから顔を覗かせて、見ているだけで腹が鳴った。添えられたサラダは大根とトマトの和風サラダだ。

「お腹すいたー!」

 一足先に風呂に入ってさっぱりした体で、空はダイニングテーブルに着席する。隣は映七で、正面が零斗、その隣が奏、キッチンに近い誕生日席が白花の定位置。今日は、久しぶりにやってきていたサトルが、白花の正面にあたる席に座っている。

「お前ら、まだ風呂二人で入ってんの?」

 行儀悪くテーブルに頬杖をつきながら、呆れた調子でサトルが空と映七を交互に見た。空は映七と顔を見合わせた後、首を傾げる。

「そうだよ」

 むしろなぜそれを問うのかわからない。昔から、空は映七と入っていたし、それによって不都合は生じない。強いて言えば、あの家ほどの広さがここにはないから、少し調整しないと同時に洗いにくい、それくらいである。

 それにもかかわらず、サトルは頭を抱えそうな勢いで溜め息をこぼした。

「もう中二と中三だろ。女同士男同士ならともかく、男女で風呂とかねえだろ」

 なぜ中学生では駄目なのか。なぜ同性だったらよくて、異性では駄目なのか。どうしてもサトルの言いたいことが理解できずに困惑して映七に助言を求めると、彼女も同じように不思議そうな顔をしていた。

「ほら、零からもなんか言ってやってくれよ」

 その表情を見て諦めたのか、サトルが零斗に話を投げる。投げられた零斗は、仕方がないと言うように、息をついた。

「子どもならいい、というわけではありませんよ。もちろん、中学生なら駄目というわけでもありません。ただ、男女の成長がはっきりとしていくこの段階で、一般的にもう一緒にお風呂に入ることがなくなるという多数決です。体育の授業の着替えも、男女別々でしょう?」

「男子が女子の着替えなんて見に行った日には、きゃー! えっち! 変態! とか言われて集団リンチだぜ」

「裸なんて何の興味もないのに、変なの」

「それを言ったら、それもそれで怒られる可能性があるから気をつけろよ」

 諭すように突きつけられたサトルの指を見て、空は釈然としない気持ちを味わった。

「普通に……多数に合わさなきゃいけないのかな、やっぱり」

 この家でも、と映七が囁く。その呟きに、話に加わらなかった奏までもが、ゆっくりと顔を上げた。

「まあ、お前らがいいなら、それでいいんじゃねえの」

 サトルが、労わるように映七の頭を撫でる。慈しむような彼の眼差しが、映七から空へと流れる。

「できたわよ」

 白花の声に顔を向けると、お盆を手に、彼女がアーチ状にくり抜かれた、キッチンの入り口からやってくる。焼きたてのフランスパンがテーブルに置かれ、途端にぐうっと腹の音が空腹を知らせる。

「それでは」

 いただきます、と声を揃えて手を合わせた。

 ――逃げましょう。

 あの日、小鈴を抱きかかえたまま、動けなくなっていた奏の肩に手を置いたのは零斗だった。小鈴の残した言葉を繰り返すように、淡々と。

 側には、助けることはできないと真白な顔で告げた白花と、小鈴の傍らに膝をついて、何度も小鈴の名を呼ぶ映七。

 そして、がいた。

「小鈴」

 彼女は、震える声で名前を呼び、力が抜けてしまったようにその場に座り込んでいた。もともと白い顔は完全に血の気を失って青白く、震える手で口元を押さえていた。

つゆ。あなたが邪魔をするのであれば、俺はあなただろうと、害することを厭いません」

 冷たい零斗の眼差しが、あの子を睨む。彼女は声も出せずに、首を左右に振った。

ひめが、いなければ……」

 うわ言のように呟く奏を、半ば無理やり引っ張って零斗が立ち上がらせる。その反動で落ちそうになる小鈴を、零斗が代わりに抱きかかえようとしたが、嫌がるように奏が被さるから諦めて、零斗は無言で付き従う奏の先を歩いて行く。

 映七がついて行くと言うのなら、空には他に選択肢はなかった。

 最後に振り返って見たお姫様は、さっきと変わらず、同じ場所に座り込んでいた。

「露ちゃん。――ツユヒメちゃん」

 ながまつ露姫。

 あの家の、お姫様。

 空は滅多に呼ばない彼女のフルネームを餞別代りに囁いた。それから様々なものを振り切るように前を向くと、もう後ろは見なかった。

 十か月経ったとしても、誰ひとり忘れることはないだろう。

 ローズヒップティーの赤茶色ですら、過去に意識が沈めば血の赤を想起させる。

 食後には、白花が淹れた紅茶と、サトルが買ってきたショートケーキが出されていた。

「空? 元気ない?」

 心配げに顔を覗き込む映七に、空は微笑んだ。

「あとこの一口でなくなっちゃうんだなあって思ったら、もったいなくなっただけ」

 その言葉に嘘はない。実際、サトルの買ってきたケーキは、果物がザクザクとたくさん入っていて、生クリームも甘すぎず、くどくなくて、半ホールくらいペロリといけそうだ。

「お前ら、学校はどうだ?」

 紅茶の最後の一口を飲み込んだサトルが尋ねる。全員が、思わず顔を見回した。

 あの日、空たちが逃げた先は、縁のあったサトルのところだった。零斗が持っていたテレフォンカードとサトルの連絡先。そこに助けを求めると、彼はすぐに飛んできてくれた。

 匿う条件を、二つつけて。

「楽しいよ。部活は依頼のこともあるし入り損ねちゃったけど、ちゃんと友達もできた。今度一緒に遊びに行こう、って。……あ、映画に行ったことがないって言ったら映画に行こう、って話になって、お金、使っちゃうんだけど、いいかな」

 窺うように映七が奏とサトルを見比べる。奏は好きにしろと言うように肩を竦め、代わりにサトルが頭を撫でる。

「やったこづかいは好きに使え。足りなかったら言いな。少しなら出してやる」

「ありがとう。でも充分だよ」

 嬉しそうに顔を綻ばせる映七を見ると、心が温かくなる。

「僕もね、できたよ。友達」

 それに続くように話に入る。友達、と言葉にした途端、砂を噛んでしまったような不快感が一瞬だけ口に広がる。サトルたちの視線を笑顔で受け止めながら、嬉しそうな表情になるよう、全力で努める。

「僕くらい背が低い男の子でね。大きい眼鏡してるの。僕のウィッグ見てもね、そうやって真っ直ぐ嘘をつかないでやりたいことできるのかっこいいね、って褒めてくれて」

 嘘は言っていない。全部、本当のことだ。

 空は、昔の映七に似せるため、胸まであるストレートヘアのウィッグをつけ、セーラー服を着て登校している。もちろん、性別は男。学校にはサトルが根回ししてこの格好での登校を許可させたようだが、女の子になれるわけではない。トイレも男子用だし、着替えだって男子と一緒だ。空は当然、女子と一緒であっても気にもしないが、男子と一緒が嫌と思うわけでもなかった。そんなことは空にとってどうでもいいし、何をそんなに気にするのかがよくわからない。

 けれど、やはりそういうところが駄目なのだろう。サトルの言う通りだ。

 どうも、空のこの格好は、他の人には変に映るらしい。

「なんだか、映七のことまで褒めてくれたみたいで、僕は嬉しかったんだ」

 何も悟られまいと満面の笑みを浮かべる。

 サトルから出された条件。

 一つ目は、四月からの一年間。二か月に一度、依頼を請け負い、遂行すること。

 二つ目は、学校に通うこと。

 こちらに来てから四月までの最初の七か月間は、外を全く知らない空たちが、外で生きる常識を学ぶ期間だった。物の買い方、信号の意味、電車の乗り方、電話の掛け方、知らないことはいくらでもあった。人がたくさんいる通りに出て竦んでしまった時は、サトルが背中を押して案内してくれた。そして迎えた四月。新学期に合わせて、空たちは学校に通い始めた。

 空は中等部二年。映七は中等部三年。

 白花は高等部一年。奏は高等部二年。

 そして零斗は大学一年。全員が同じ学園の系列校であり、敷地もかなり広大だ。共同で使えるカフェテラスもある。どうやらサトルの母校らしいここは、ある程度の顔利きができるのだという。

 空たちはそれまで学校に通ったことがなかった。

 どうやら数十年前は義務教育というものがあって中学校までは通学の義務があったようだが、いじめ問題の深刻化などといった理由により、ホームスクーリングの制度が一般導入したらしい。その流れを汲んで、空たちもあの家で、各々専属の家庭教師に勉強を教えてもらっていた。

 だから、初めての学校といっても勉強についていくこと自体は造作もなかった。だいぶ進んだ学習をしていたから、勉強が好きではなかった空でさえ、中等部卒業以上の知識はある。

 それでも、ここにいられる条件としてサトルに提示されたのだから、それなり、でなければならない。

「私は無難にやってるわ」

「白花に同じ」

 淡々と返す白花は、この調子で本当にやっていそうだ。奏は面倒見がいいので人から好かれそうだが、こちらに来てからは塞ぎ込んでいることも多い。先月の依頼から口数も減ったように思う。もとは誰よりも面倒見がよく、頼れる兄だったが、今は自分の手の中のものを必死でかき集めて守ることに精いっぱいに見える。

 その手の中に入れてもらっている空が何かを言うことはできないけれども、映七が心配するようなことだけは起きないといい。空の願いはそれだけだ。

「俺も無難に過ごしてますよ」

 零斗が、ニコニコと、邪鬼のない顔を向ける。

「お前は入学早々女の子に囲まれたそうじゃねえか」

 ケッと、悪態をつきながらサトルの顔が歪む。それを聞いた零斗の顔が一瞬だけ不快そうに見えた。しかし、それについて何かを思う間もなく、彼は不敵な笑みでサトルを見やる。

「よく御存知で」

「あそこは俺の母校だからな」

 笑顔の対決をするかのように微笑み合っている二人をよそに、空は最後の一口を押し込んだ。大事に大事に堪能し、ごくりと飲み込む。

 まるでそれを見計らったかのように、さて、とサトルが仕切り直した。

「来月の依頼内容が決まった」

 その一言で、和気藹々としていた空気が零度まで下がったようだった。さっきまで気にもならなかったのに、今になって、ケーキの甘さに重たく胸焼けするような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

籠の鳥 カタスエ @katasue

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る