奏が小鈴を刺したあの日まで、白花も、そして奏や映七や空も、外を知らなかった。

 今、窓の外で木陰を作る青々とした桜の若葉も、真っ青な空もあそこと同じだ。けれどたくさんの人の気配も、教科書の乗る揃いの机も、チョークを走らせる緑の黒板も、何も知らなかった。隣に座る生徒が、後ろの生徒に背中を突かれる。小さな声で諌めるが、手紙を受け取った彼女の顔は笑っている。こんな日常が普通だなんて、知らなかったのだ。

 白花は物心ついた時にはすでにあの家にいたから、外では奇異な能力とされるそれらを不思議には思わなかったし、それこそが普通のことなのだと思っていた。

 奏の持つ、声による洗脳。

 映七の持つ、過去視。

 空の持つ、死んだものを見る力。

 零斗の持つ、超人的な運動神経。

 そっと目を閉じるとあの日のことが思い起こされる。もう五月に入ったから、奏が起こしたあの事件からは、そろそろ十か月が経つはずだ。しかし、そうとは思えないくらいにあっという間だった。慣れないことばかりだったからだろう。

 あれは、すでにうっとうしく息が詰まるような暑さを感じる七月のことだった。肌に纏わりつく湿度の高い暑さは思考を停止し、体を重たくさせる。自分の部屋にもクーラーはついていたが、気分転換に、白花はサロンと呼ばれていた遊戯場へと向かった。遊戯場は、作りつけの本棚によって読書スペースと遊び場に区切られている広い部屋だった。遊び場側は大きな窓があって、そこから広場と、そこから続く庭園に出られる。

 たいていの時間を彼らはそこで過ごした。部屋に籠っているのは授業やレッスンがある時くらいで、用がなくても、そこで時間を過ごすことが大半だった。

 その日も、半数の人間がそこにいた。

 サロンへ向かう廊下で、白花は映七の叫び声を耳にした。泣き声に近い甲高い音で、鈴ちゃん、鈴ちゃんと、何度もあの子の名前を呼ぶ。嫌な予感がして小走りで向かった先には、血だまりの中、呆然とした奏に抱きかかえられている小鈴がいた。じわじわと腹から赤色の液体が染み出す。

 目を、開けて。

 傍らで小鈴の名を呼ぶ映七と空など目に入らぬように、奏が悲痛な面持ちで小鈴に縋る。それが聞こえたのか、小鈴が震える右手で奏の手を掴んだ。

 逃げて、と。

 掠れる声はしかし力強く、それが全ての運命を狂わせたのだった。

『白、頼む。小鈴を治してくれ……』

 小鈴を離そうとしない奏が懇願するのを聞いても、白花はすぐには応えられなかった。

「……それはできない」

 白花は病や傷を治すことができる。けれど正確には治すのではなく、自分にそれらの病や傷を移すだけだ。だから、白花は力を使ってはいけないんだ。かつてみんなの前でそう説明した一家の主である、詠路えいじの言葉を繰り返した。すぐに奏はうなだれると、もう白花には目もくれなくなって、白花は安心して息を吐いたのを覚えている。

「できないんだ」

 深呼吸をして目を開けながら、白花はあの時の言葉を唇の内側でもう一度呟く。

「そう、わたしは、できない」

 落とした言葉は心の表面をざらりと撫でて、過去へと気持ちを戻らせようとする。

 チャイムが鳴った。初めてのテストはもうすぐだ。テスト前の授業は、ばたばたと忙しなく、煩い。今さら、こんなことに何の意味があると言うのだろう。

 きりーつ、礼! 着席!

 無意味な号令にただ従い、真白なノートを閉じる。友人と呼ぶには希薄なクラスメイトが、それでも友人のように白花の名を呼ぶ。そもそも友人とは何なのだろう。白花は彼女に笑みを浮かべて返事をしながら、頭では、今日の夕食のメニューを考えていた。

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