クラッシュマジックパニック

@72-sh

第1話 渦巻く炎、力放つ剣

 耳が痛くなるような高音と共に、顎から抜けていくようなツンとした響きが庭を満たした。オーガスタスは爪を噛みながら、ため息をつく。


「なるほど」


 重い声で告げるのは悲壮さを振り払おうとした名残で、しかし拭いきれない沈痛が全体に広がる。

 王城の中の広場、昼間は地方領主が顔を出したり議会の前準備で人が多いはずだったが今日だけはほとんど人影がなかった。大空の二つの月が輪郭だけを晒して、冷たい空気を日差しの熱で暖めている。風が吹かなければ程よい気温だ。

 白い息を吐きながら広場に集まっているのは、六人。折れた剣を携え、緊張で背筋が固まった若い男と全身白い装束で身を固めたもう一人以外は全員白髪や禿頭の年配者だった。

 他の面々と比べればまだ白髪も少なく、上背があることも相まって歳より若く見えるオーガスタスが苦い表情を浮かべる。魔法使い特有の、何もかもを丁寧に見抜こうとする静謐さを帯びた瞳が、周りの者を等しく見据えた。

 国境防衛のためにエリンバウムの地にて司令官を務めるデリック・モス将軍は折れた剣と己の身長ほどには大きい泥沸竜の表面が絶えず波紋を蠢かす鱗を交互に見つめて、眉間に深い皺を寄せていた。

 泥沸竜の鱗は極小の鋼歯食虫に覆われており、非常に硬度の高い剣でなければ断つことができない。今まで軍が使っていた剣の基準は泥沸竜の鱗を斬れるかどうかだった。しかし今では見る影もない。傷一つない鱗には螺旋状の波紋が浮かんでいる一方、剣の方は刃が溢れて太くなった中心部分が黒い炭のような断面を見せ、折れている。柄で鈍く光る王家の紋章も形無しだ。

 古樹のうろのように黒々とした鱗は日差しを受けて鈍い光を返した。目に見えないサイズの鋼歯食虫が無数に動く様子が、光の反射によって絶えず動く幾何学模様となって油膜のように気味の悪い色彩として表出している。

 鍛冶職人のジョシュア・ウィルモットは剣よりも周りの人々の反応のほうに怯えていた。何しろ今目の前で折れたのは彼が鍛造した一本だからだ。

 そもそも彼自身は軍のために剣を鍛造するような職に就くつもりもなければ、資格もなかった。彼は魔法が使えるわけではないからだ。

 剣はそもそも型に鉄を流し込んで鍛造するものではない。もちろんかつてはそういった方法で造ることもあったが、今ではあまり使われない手法だ。金型で圧縮しながら造る鋳造のほうが強度が高まるのは気泡や内部の厚みの差による温度の違いで生まれる応力の分布からも明らかだ。しかし鋳造を行えるのは高度な技術を使える魔法使いがいてこそだ。

 ジョシュアはもっぱら家具を作ったり、魔法使いの助手などをしているだけで、剣を造る技術などは元よりなかった。鍛冶に関する経験を持つという理由だけで今回剣をつくらされて、その上こういった場で無残に折れるのを見せられるというのは胃が痛い話だった。

 中央評議会で最年長のダグラス・リックウッドはこの場でも最年長だった。彼はこの中で二番目に落ち着いた態度を保ち、なるべく落胆を押し隠して全員に動揺が広がらないように努めていた。

 一人だけ椅子を外へ持ち出して座っている彼は、長い間軍や議会、国全体を見ていたからこそ今回の一件では大いに慄いていた。今までにない危機ではあったがいつか必ず訪れる危機でもあったから、ここまで来て対策することができなかった己を恥じてもいた。今の王が戴冠式を迎える時にはすでに王と同じくらいの年頃の娘がいた彼は、この国のことを誰よりも憂いていた。剣の精度が落ちていることは何よりも憂慮すべきことであり、一刻も早く対策をしなければ隣国や、森の民から猛攻を受けることが分かっていた。

 彼は痰の絡んだ喉を何度かさすりながら、嗄れた声を出す。


「……して、これも神の導きと神官殿はおっしゃるか?」


 ダグラスの、落ち窪んだまぶたの奥底で研ぎ澄まされた鋭い眼差しを受けたのは、大聖院の代表として今回の集まりに来たギルヴァード・フィッシャーだ。

 ギルヴァードは首にかけた純銀の円星位を指で撫でてから、落ち着いた声音と柔らかな笑みを浮かべた。白というより銀の髪の彼はダグラスよりほんの少し若いだけにも関わらず、剣を手に握りしめる騎士よりも若々しくさえある。

 彼は魔法で見た目の年齢を止めているのだ。それは神のご加護だと彼自身信じているが、それが何のために与えられた祝福なのかは未だに分かっていない。それを知るために入った大聖院で五十年以上祈りを捧げた彼は、未だにシミ一つない顔を柔らかな笑みで繕っている。

 ギルヴァードも当然今回の事態を重く見ていた。しかし彼は他の者よりもずっと落ち着いている。それは年長者だからこその落ち着きではなく、神を信じているからだ。魔法によって様々な加護が人々に降り注ぐのはひとえに神が人々に何かを期待しているからにほかならない。

 だからこそ、今回の『剣を造ることができる魔法使いがいなくなった』という問題も何らかの試練であって、神はすべてを見ておられるというのが彼の持論だった。それ故に、他の者よりもずっと落ち着いて事態に向かい合っている。


「神はすべてを見ておられる。もちろん、今回のこともですよ」


「見ているならそもそもこんな事になる前に対処してほしいものだな」


「視野が狭いのが卿の悪いところですな。神は些事とそれらの結びつく大事を切り分けて考えてなどおられない」


「これが些事というか……! ぐふっ、げほっ……ぐぅー、おごっ……!」


 ダグラスが喉の痰を詰まらせて咳き込む。慌てて駆け寄ったオーガスタスが手にコップを握るように形をつくる。誰もが目を瞬かせるよりも早く手の中に陶器が現れて、次にもう一方の手を振ると今度は水が満ちた。魔法を見慣れない若い騎士だけが驚きに目を見開く。


「これを飲んで」


「ぐほっ、うぐ……ん。すまない、助かった」


「大丈夫でなによりです」


 オーガスタスが無言でギルヴァードを睨んだ。どこ吹く風といった態度でにこやかな笑みを絶やさない。


「しかしまあ、これほどまでに剣の質が落ちているとはな」


 デリックは若い騎士から剣を取り上げた。ごつごつとした大樹のような腕で重い剣を軽々と持ち上げ、折れた断面に指を走らせる。


「わたしどもの不足が為すところではないということは、主張したいと考えております。これについては魔法使い殿……えっと」


「オーガスタスだ」


「――申し訳ありません、オーガスタス殿」


 申し訳なさよりも怯えのほうが垣間見える暗い表情を浮かべるジョシュアに、オーガスタスのほうが疲れてしまう。普段顔を合わせない面々で話をするというのは、書物ばかりと向き合っている魔法使いにとっては苦痛なことだった。


「確かに剣の質は落ちました。しかしジョシュアさんの主張通り、これは鍛冶師たちの問題ではありません。問題は鍛冶師付きの魔法使いにあるでしょう」


 ようやくオーガスタスは本題に入れたことに安堵する。面倒な話し合いが長引くのは彼の本意ではなかったし、意味もなかっただろう。事態の収拾をつけることができるのは、この会議の面々の中には存在しない。だからこそ結論を急ぎたかった。とくに神官のギルヴァードとはこれ以上顔を合わせるのは避けたかった。自分の中の純然たる好奇心が、彼の何の疑問も抱かない無垢な信仰によって貶められるのは嫌だからだった。魔法は神の加護、などというのは大聖院の主張にすぎず、そんな文句は何の根拠もない戯言だとオーガスタス自身は思っていた。

 だが、こんな面々が揃っている中で無意味に敵愾心を出すのは無駄だと感じていた。それは何の意味もないからだったし、敵愾心をむき出しにしたところでギルヴァードが対抗してくることは絶対にないという確信があったからだ。信仰は議論の俎上にのせるのも一大事だから、こんな場で敵対したところで乗ってくることはないだろう、とオーガスタスは分かっていた。

 今やるべきことは、事態の説明と、解決方法の提示だけだ。


「剣をつくることができる魔法使いがいなくなった、というのは皆さんが考えるほど単純な問題ではない、ということから説明させていただこうと思うのですがよろしいでしょうか?」


「頼む。わたしにしてみれば、魔法議局から人員を出してもらえば解決することのように思えてならん。それについても教えていただけるんだろうな」


 身体そのものが剣のように攻撃的な熱を放つデリック将軍が折れた剣を若い騎士に返して、オーガスタスのほうを向いた。剥き身の闘志を向けられたオーガスタスは内心不快に感じつつも、努めて落ち着いた態度を見せる。この場で狼狽えれば魔法に理解のない彼らにつけ込む隙を与えかねなかったし、それは王の元で専属で働く右局最高法官である、魔法使いのなかでも代表的な立ち位置に属する彼の望むところではなかった。


「そもそも魔法というのはほとんど体系立てられていない学問であり、それが他の多くの学問とは一線を画するところなのです。数字や天文というのは誰が扱っても同じ結果が返ってくるのが当然です。そうでしょう? 例えば、二個の林檎と三つの桃を足したら、どんな人が抱えても五つであることに変わりはないでしょう」


「腹を空かせた子どもなら一つくらいは減っているかもしれないのぉ」


 ダグラスが唇の端をゆがめて笑う。ほかに笑ったのはデリックだけだった。


「まあ、それは一つ減らせば、どんな人間が食べても一つ減る、ということにほかなりません。誰かが一つ食べたら、食べた人によって一つも減らなかったり、二つや三つ減ったりはしないでしょう? 一つ食べたら、一つ減る。それが自然の理です。しかし魔法は違う」


 オーガスタスは、丁寧に彼らへ話を進めた。手振りを交えて話す内容は、魔法について学ぶ初歩の初歩のころに自身が聞いた話を思い出しながらだ。


「魔法においては、その自然の理は一切通用しません。才能のある者が扱えば、一つのものは容易に百にも千にもなります。同じ魔法を使ってもその結果は千差万別ですし、そもそも魔法を一切使えないものもいる。だからこそ魔法使いは生涯にわたって理解を深めることを尊びます。それは、自分にしかできないことを研究しているからです。自分が去った後のことを任せられる人がいることはめったになく、一応書物という形で残しておけば偶然誰かにとって役に立つ研究になるかもしれない、といった程度です。自分が見つけた法則が他の誰にでも適用できることは稀で、ほとんどは自分の魔法にしか使えないのです」


「なるほど。だから、一人の魔法使いの死が、これほどまでに大きな影響を及ぼしたというわけだな」


 デリック将軍が髭をいじりながら、何度も頷いた。


「亡くなったトバイアス・マーカムは炎の魔法に関して高い才能を持ち、鋳造過程において今の軍が標準装備するあらゆる剣に関して重要な役割を担っていました」


 トバイアスは炎の魔法に関してはオーガスタスをも凌駕するほどの高い出力と精度を持っていた。

 オーガスタスが端的な事実を述べて、現状確認を終えた。みんな理解したように頷いたり、メモを書き付けていた。黄ばんだ羊皮紙に何事かを書き付けたダグラスは椅子に深くもたれかかり、長い息を吐く。


「つまり、これから剣を新しく造るには、前任の者と同じほどの才能をもった魔法使いを探さなければならない、ということかね?」


 そうなりますね、とオーガスタスが重く頷いた。


「では今後の方針を決めよう。ようは誰か一人でいい、炎の魔法を極めている者、もしくは極めることが可能な才能を持っている者を見つけるのだ。そしてその捜索を他の国や、他の種族に決して見つからないようにすればいい。どうだ、たった二つだけと考えると単純でいいだろう」


 それは決して簡単なことではなかった。だがやらなければ国が滅ぶような大事業だった。


「ではわたしは魔法議局の伝手と使い魔を使って魔法使いを探しましょう」オーガスタスは最初から言うことを決めていた一言をようやく口にした。


「じゃあこっちは騎士の中から魔法を使えるものを探すことにしよう。もし埋もれた才能があるのならば、大問題だからな」デリック将軍は鷹揚に考えを述べた。概ねやるべきことを理解していることにオーガスタスは安堵した。


「大聖院は他国との繋がりを介し、国の情報を漏らすものがいないか監視することにしましょう。これが知られればどんな災厄が降りかかるやも知れません」ギルヴァードは憎らしいほどに正確な役目を見つけていた。オーガスタスは顔を逸らして、他の者へ目線を逃した。


「わたしは今まで造られた剣をやれる分だけ整備させていただきます。一から鋳造することはできませんが、刃こぼれなどは直せますから」ジョシュアは現状を何とか維持するために助力を惜しまない、誠実な瞳を爛々と輝かせていた。生前のトバイアスと何か約束をしたかのような、決意に満ちた意思が漲っていた。


「では、わしは森の民との一時停戦の協定を結ぶことを約束しよう。王にはすでに伝えてあるし、議会はわしが何とかできる。現状を多くの者へ伝えることなく、結果だけを手に入れて見せよう」


 ダグラスは経験によって裏打ちされた力強い自信をみなに見せた。こうしてオーガスタスを含めた全員が後任の魔法使いを探すための話し合いを終えた。

 

 **


 城内での秘密の話し合いを終えた中で一番足が速いのはオーガスタスだった。それは単に良い馬を持っているとか、歩くに易い道を知っているとか、身体能力がずば抜けて高いといったことではなく、もっと根本的に移動に関して問題を抱えていなかった。

 オーガスタスは自分の知っている場所ならばどこにでも、一瞬で行くことが出来るのだ。自分の居場所を一瞬で変更する魔法というのは非常に高度なもので、才能のない者はその力の一端に触れることもできない。それが使えるというのは紛れもなく、恵まれているといえた。

 みなと別れを告げてから一呼吸も置かないうちに、全員の視界から彼のローブは消えた。影がまだ残っている気さえするほどに、音もなく彼は姿を消した。

 そうして現れた場所は、王都から山を二つ越えた先にある街の中だった。王都よりも幾分か静かなその街は、魔法使いたちの街だ。

 魔法議局という魔法使いたちの相互扶助組織が存在する。そこには互いに教え合い、時には経済的な援助までする魔法使いたちの繋がりがあった。魔法の才能を持ちながらも教えられる機会のなかった子どもたちが集まり学ぶことのできる場もある。その多くは親のいない子どもたちを国家のための魔法使いへと導き、力の使い道を教える場だ。そこからさらに自分のためだけに力を研究するものもいれば、ある程度自分の力を知ったところで打ち止めにし、その力を人のために使うものもいた。

 オーガスタスは後者だった。


「久しぶりです、ヴィンス・カーライル先生」


 ローブから顔を出して、深く一礼。頭をあげることなく、前に立つ老人に敬意を評した。


「唐突に現れるのは、学生のころから変わらないな。顔を上げても良いぞ、オーガスタス」


 深い色のオーク材でできたデスクに座って本を読んでいたヴィンスは、わずかに目を弓のごとく細めて、オーガスタスを迎えた。

 部屋の中にいきなり現れた男にいささかも驚くことなく泰然とした態度を崩さない彼は、かつてオーガスタスが師として仰いだ男だ。恩師であるヴィンスは昔から、音もなく現れるオーガスタスに優しい。

 雑然とした部屋の中には本が散乱していた。そのうち半分はヴィンス自身が記したのだろうということが、オーガスタスにとっては誇らしい。

 本の山に埋もれていた安っぽい椅子を一瞥し、わずかに床の見える空間に走るネズミを捕まえた。


「これは先生の使い魔ですか?」


「いいや、ただの悪ガキだな。少しおしおきをせねばならないようだ」


 ヴィンスが机から腰をあげることもなく、首をつままれたネズミに視線を向けた。視界が歪むようにして、ネズミがいた空間に汚れたローブを羽織った少女が現れる。


「す、すいません」


 頭をかいている彼女にはまだネズミの耳がついていた。オーガスタスが埃だらけの彼女を気にする風もなく、頭をなでて耳を取り除く。最初からそんなものはなかったかのように、耳が消えた。


「うわ、す、凄いですね!」


 ヴィンスが細い目を眇めて、呆れたようにため息をついた。


「彼はこの学校一の出世頭だ。ステラ・スコットニー、君も少しはその好奇心を抑えて、彼のように落ち着きを持ちたまえ」


 足が震えているステラが口を抑えて、オーガスタスを指差す。驚いた表情が手のひらでは隠しきれていない。


「じゃ、じゃあこの人があのオーガスタスさん!?」


「どのオーガスタスかは分からないが、多分そうだ。先生、この子が今のあなたのお気に入りですか?」


「というよりも、目が離せないくらい危なかっしいのだ」


「えー、そんな言い方しなくても」


 ステラが両手を肩まであげて、軽い足取りでくるりと回った。オーガスタスは仕事の話を始めるという合図を送る。鋭い視線にそれを察したヴィンスはステラに手を向けることもせずに、背中を押した。見えない力にあわあわとバランスを崩しかける彼女を、オーガスタスも支えて、樫の木で精緻な文様が彫り込まれた扉を開く。叫びながら扉の奥へ消えていく彼女が見えなくなってから、ようやくオーガスタスは口を開く。


「本題に入っても大丈夫でしょうか、聞かれたらまずいんですが」


「問題ない。話したまえ」この部屋にいくつも張り巡らされた彼の仕掛けが安全を保証していた。


 それからオーガスタスは会議でのことを全てヴィンスに話した。ヴィンスもまた国家に仕える身だった経験もあり、信頼にたる人物だと確信していたからこその話だった。

 すべてを話し終えると、ヴィンスは深い息を吐いて、目をつぶった。


「多分だが、この街には国が望むレベルの炎を操れる魔法使いはおらん。一応今から講義だが、見ていくか? 才能は測りきれないから、もしかすると期待に足る者も紛れているかもしれないしな。ただ、あまり期待はしないでくれ」


 それはこの街の魔法使いのレベルが低い、ということでは決してなかった。むしろこの街の魔法使いの実力は王都以外ならばほとんどの街を凌駕していると言っていいだろう。才能あふれる者たちが自分のために研究を続けるならばこの街以外に選択肢はないと言っても過言ではなかったし、軍とともに行動をする魔法使いはごく少数だから、数ではこの街が一番だった。

 それでもかつて剣を鍛えていたトバイアスを超える者はほとんどいないのだ。それほどまでに彼の魔法は高度で、得難いものだ。誰かが受け継ぐことができる技術というわけではないから一代限りではあったが、それでもあまりにも素晴らしい魔法だったのだ。

 ヴィンスに従って部屋を出て長い廊下を歩いた先に教室はあった。古い貴族の邸宅を安値で借りた建物の一番大きい部屋は、元食堂だ。外の冷たい風の気配は一つとしてなく、小さな蝋燭が幾本か灯っているだけにも関わらず、白い光が部屋に満ちている。快適な温度に保たれた天井の高い部屋には、十数人の学徒たちがヴィンスの授業を受けるために待っていた。


「今日は昔の教え子が来ている。挨拶を」


「はじめまして、オーガスタス・エグルストンです。みなさんと同じくわたしもヴィンス先生の教えを受けました。今日は突然申し訳ありません、気にしないで授業を受けてください」


 ヴィンスの後ろに立ったオーガスタスに興味を抱いている様子の彼らに、慣れない自己紹介をした。なるべく敵愾心を抱かれないように、落ち着いていて、それでいて堅くないように心がけたつもりだったが、結果はわからない。自分も昔は若い頃があったはずなのに、もはや理解するのは難しい。

 しかしオーガスタスの疑念に反して、自己紹介は大成功だった。

 拍手喝采で口笛を吹くものもおり、机を叩きながら「あのオーガスタス!」「すげえ本物だ!」「意外と普通のおっさんじゃない?」「ばっか! 頭だけ海の底に飛ばされるぞ!」「うへー金持ってるんだろうなあ」と大騒ぎだ。若干舐められてる気もしたが、どうせ今日限りの仲だ。どうでもいいと頭を振って雑念を払う。


「そう、あのオーガスタスだ。みんな、今日は訳あって来てくれた。まあ気にせず講義に集中してくれ。君たちの頑張りがわたしの報酬査定にも響くかもしれんしな」


 学徒相手には優しいヴィンスが冗談を飛ばして、みなの笑いを誘った。それで講義の話へ興味を移させる手腕などは、昔から衰えていないとオーガスタスは感嘆した。昔は気づかなかった部分に目がいくのは、自分が成長したということなのか、穿ち過ぎな目線になってしまったのか分からなかった。

 それからヴィンスの講義は陽が暮れるまで続いた。理論に関する説明は丁寧なもので、化学や数学によって証明された自然の理と絡めながらも、その理の外側からどうやって世界に魔法が干渉しているのかといったことを解説していった。実際のところ、理から外れた魔法の世界との関わり方は、体系化された学問の反対側に位置するものであり、個々の魔法使いによって異なる場合が多い。

 それでも基本的なことを知っておくことは重要だ。なぜなら、もし魔法使い同士で争いが起きた場合、相手のことを知っておくことは必ず必要だからだ。もし百回戦うことがあって、一回しか学んだことが生かせないとしても、その一回のために学ぶだけの価値は十分にあった。

 だからこそヴィンスは丁寧に話を進めていた。学徒たちは熱心に話に耳を傾けている。

 オーガスタスは少なくともここにトバイアスの代わりになる人材はおらずとも、他の分野できっと活躍できるだろうと無根拠に思った。それは願いなのかもしれなかった。魔法の理論そのものに介入しようとする大聖院は嫌いだったが、無垢に願う人びとの安寧は神の存在あってこそだと、オーガスタスは落ちていく日の光を見ながら思う。


 **


「久しぶりに一緒に飯でも食わんかね」普段はご飯になど頓着しないヴィンスが珍しくオーガスタスを誘った。


 すっかり日の暮れた街並みには、まだ活気が満ち溢れていた。魔法を使える人が多いから、自然と陽が落ちても活動できる人間も多い。蝋燭以外に光を放つ魔法が街道を覆い、幌の下に置かれたテーブルに集まっている人だかりが食事と酒を楽しんでいる。

 煉瓦造りの道は他の街と比べるとかなり清潔で、外での飲食が何ら問題にならないような状態だった。これも魔法使いが多い街ならではの光景だ。王都でもこうはいかない。

 オーガスタスはヴィンスお薦めのワインを金属のグラスに注いでもらい、ぐらつくテーブルの脚の下を少しだけ調整した。木でできたテーブルだったが、すり減って丸くなり少しだけ短くなっていた。脚の下に幾枚もの紙を挟む。手を振ったり目をつぶって集中する必要もなしに、オーガスタスは魔法を使った。


「久しぶりの再会に乾杯、ということで」


「おお、会えて嬉しいぞ」


 小さくグラスが音を鳴らす。甲高い音は、喧騒に紛れて掻き消えた。テーブルの隙間を縫って、子豚の塩焼きが運ばれてくる。銅貨を幾枚か握らせると、額に汗を浮かべたウェイトレスは満面の笑みを浮かべた。


「それにしても、まさか剣が造れなくなるとはな」


「もう少し魔法以外の分野が発達すれば、補えるんですがね。トバイアスほどの炎の温度を保てる技術があるだけで、だいぶ違いますよ」


 ヴィンスは苦い顔でワインに口をつける。


「それは無理だ。魔法だからこそあの炎が生み出せるんであって、化学なんかの自然の理に従っていればあの温度には達しない。そもそも熱が周囲に拡散するのを抑え込まんことには、人が近寄るのもままならんだろう」


 確かにそれは事実だった。魔法で炎の出力を上げるだけでなく、それらを扱えるようにきっちりと温度管理をしながら、作業しやすい環境を整えるのは魔法があってこそだ。しかしその魔法というのは『トバイアスの魔法』あってこそという意味であって、誰の魔法でもいいというわけではない。

 もし神が魔法をもたらしたならば、こんな理不尽なものは作らないだろう。人の営みに対して魔法はあまりにも距離が遠すぎる。決して社会に寄り添った形で発現しないから、無理やりピースを嵌めるようにして持ち込む他ない。

 それでも、オーガスタスは魔法の力を信じていた。神がもたらしたなどという安易な考えは嫌いだが、魔法が存在する意味はちゃんとあるだろうと信じていた。そしてそれを解き明かしたいとさえ、思っているのだ。

 仕事に忙殺されている今は難しいが、将来的にはヴィンスと同じようにこの街へ戻って研究をしたいと考えている。オーガスタスも魔法使いだから、自分に与えられた才能の限界が、目的が、価値が、知りたいのだ。

 と、唐突にテーブルに衝撃が訪れた。


「使い魔かね?」ヴィンスが二杯目のワインに手をつける。


 テーブルにはオーガスタスのワインの中に浸かるようにして足を休める鷲が、何一つ怯える様子なく、飄々と佇んでいた。

 上から飛んできた、オーガスタスの使い魔だ。


「首尾は?」


 鷲が足に括られた紙を一枚差し出す。くるくると巻かれた羊皮紙には、地図が書かれている。海のような青い線で囲まれている一部分は大闇影森と隣接した村だ。

 そこで何かを見つけたというのが、すぐに分かった。


「急ぎか?」


 鋭い瞳をオーガスタスに向けたまま、鷲は大きく頷いた。


「すいません先生、また会えた時はもっとゆっくり食事をしましょう」


「気にするな」


 子豚にかぶりつくヴィンスがオーガスタスを見もせずに鷲を撫でる。翼を振るわせて甘く鳴いたのを笑い、オーガスタスは音もなく姿を消して、金貨が数枚テーブルに残るのみになった。


「全く、せっかちなところは一つも治ってないな」


 鷲が飛び立って暗い空の中へ溶けた。


 **


 オーガスタスが降り立ったのは柔らかい土の上だった。地図の上でしか把握できていない場所へ飛ぶのは彼の魔法でも難しく、バランスを失った身体が地面へ投げ出された。幸いにもそこは畑の中で、柔らかい土は耕された跡だった。畝と畝の間に身をうずめた体勢で辺りを見渡すと、叫び声と炎の唸り声が遠くから聞こえた。

 肩から地面に落ちた彼は横倒しになった光景を見て思わず息をのむ。

 村のある方角らしきところからは、煙が噴き上がり、森の木々よりも高い炎が逆巻く波飛沫のようにうねっていた。

 顔が熱い。炎の温度が高すぎて、ここまで熱が達しているのだ。

 身体を起こしつつ、水を手元へ呼び寄せる。顔を湿らせて、酔いを覚ます。そうして、騒動の最中へ飛び込む準備を整えるときに恐るべき何かはやってきた。

 五感が危機を訴えた。全身が危険を察して鳥肌がぶわりと立ち、森の奇妙な静けさにようやく気づく。動物の遠吠えどころか虫の羽音すら聞こえない異様な静けさの中で村の人々の叫び声と炎の唸りだけが耳朶を打つ。

 腰を低く構えて、オーガスタスは風景の中に溶けて、消えた。正確に言えば、消えたように見せかけた。周囲の空気がオーガスタスの魔法によってレンズのような役割を果たし、代わりに圧力に端を発する過剰なまでの熱を放出した。魔法のつじつまを合わせようと自然の理が歪んで空気の異常を引き起こしたのだ。

 畑の中心で、オーガスタスが消える。それで敵も動きを見せた。

 森の中から顔を出したのはエルフだった。耳の長い端正な顔立ちは、怒りを隠さない表情によって歪められている。よくしなる弓を片手に携えつつ、傍らには蜘蛛の一種のように見える、大人の男の腰ほどまでありそうな巨大な生物を従えている。

 怒りに燃え盛る何対もの瞳がオーガスタスのいた場所を舐める。息を潜めたオーガスタスは音を立てないように水で宙に浮きながら、徐々に高空へ飛び出し、さきほど彼がいた場所を包囲しつつあるエルフの集団を見下ろす。

 なぜエルフが突然村を襲い始めたのか知るためには、今彼らを倒すよりもやるべきことがあると判断して、そのまま炎の踊る村の中心まで飛ぶ。沸騰しかける水を適宜入れ替えながら、風景に溶けたままオーガスタスは空を飛ぶ。


「ああああああああっ!!」「やめてくれえええ!!」「俺達の村がああああああああっ!!」


村にたどり着いたオーガスタスが見たのは地獄に他ならなかった。そこにあるのは最早抵抗する余地すらない村人が虐殺されていく光景だ。炎が渦を巻きながら丁寧に一軒一軒焼き尽くしていく。逃げ惑う村人たちをエルフの矢が襲う。頭を穿たれるのはまだ良い方で、足や腰を撃たれた者たちはさらに悲惨だった。死に損なった者たちが垂れ流す血が地面に染み込む前に蜘蛛のような生物が馬乗りになった。強い毛が生えた脚でがっしりと獲物を押さえつけて大きな顎で肉を噛みちぎっている。絶叫が止むころには皮膚のあらゆるところが食い破られ、骨がむき出しになっていて、痛みと恐怖に覆われた表情の影もなくなっていた。エルフは村を包囲する形で攻め立てており、森から離れる方向に走って逃げる女子供さえ容赦なしに一人ずつ狙いを定めて仕留めていた。そのエルフたちの一人ひとりには呵責なき怒りが漲っており、もはや戦いは避けられないことが一目で理解できた。


「こっちだ!」


 オーガスタスは痩せた老人が攻め立てられて森の方へ逃げつつあるのを大声で呼び止めた。血走った瞳で老人を追いかけ、奇怪な叫び声を上げつつ蜘蛛とともに駆け抜けるエルフが月の光から滲むように姿を現したオーガスタスを見つける。一層叫び声が大きくなるのを誰もが察する前に高速で放たれた水がエルフの喉へ突き立ち、地面に倒れるまでの間にさらに七人のエルフと彼らに従っていた蜘蛛たちの首が落ちる。老人は安堵で意識を手放し、ふらりと地面に倒れた。

 流石に意識のない老人を担いで戦うことはできない。氷のような水を老人の顔にあてて起こす。


「なにがあった?」


「エルフが突然村を襲い始めて……向こうにまだ孫娘と息子がいるんじゃ! はよう行かないと間に合わん!」


 足首から血を流す老人は幾度もぬめる地面を掴み損ねながら立ち上がる。よたよたと足を運んで炎の渦が空へのぼる村の中心へと向かおうとしている。しかしオーガスタスは止めた。もう彼の孫娘と息子が生きているとは思えなかった。


「あなたは今すぐここから向こうの湖のほうへ逃げてください。お孫さんと息子さんはわたしが助けますから」


「あんた誰じゃ!?」


「魔法議局の者です。事態は速やかに解決しますので、安心してください」


 それは老人を安心させるための嘘に過ぎなかった。実際もうこの状況では何もできないと言っても良かった。エルフたちが逃げるまで攻撃し続けたところで被害はあまりにも大きすぎるし、エルフのほうもこれだけの戦果があれば満足だろう。

 違和感が走る。

 戦果? 満足? エルフはそもそもなぜこの村を襲っている? もしオーガスタスと同じ目的だとすれば、この襲撃の目的は虐殺ではないということだ。たった一人を狙って虐殺の形を取っているだけならば、まだ目的は達成されていない?

 オーガスタスは老人が足を引きずりながら湖のほうへ逃げていくのを確認してから、村の中心へ走った。炎へ近づくごとに熱気が顔を炙り、汗が背中を伝っていく。

 そうして中心へたどり着くと、複数の攻撃が一度に襲った。十数人のエルフが一斉にオーガスタスのほうを向いたのだ。蜘蛛の細い糸がオーガスタスの身体へ絡みつこうと飛んでくる。エルフが作った精緻な木の矢が先を毒で濡らして、風を切る。怒りで目を剥いた彼らは一気に距離を詰めてくる。オーガスタスを中心に円状封鎖網が完成して、あっという間に囲まれたオーガスタスはそれでも一切焦りを見せないまま、炎の中心で黒焦げになった死体を抱きしめて泣きじゃくる女の子を見つけた。

 頭が沸騰しそうなくらいの怒りが沸いた。

 誰よりも早く円の外へ出たオーガスタスがエルフの誰もが彼に気づく前に蜘蛛たちを氷の中に閉じ込めて粉々に砕いた。一斉に放った正確無比な毒矢は対象を見失って互いに刺さり、絶叫とともに身体に水ぶくれが広がる。痛みに耐えながらオーガスタスへ向かう数人が喉を抑えて地面へ倒れ込んだのは彼が水を肺に直接注ぎ込んだからにほかならず、そうして一人として立つものがいなくなったエルフの全てを等しく無視して、オーガスタスは女の子のほうへ歩いていった。


「大丈夫か?」


「……やめて、近づかないで!」


 ヒステリックに叫んだ少女はまだ、十歳にも満たないような子どもだった。煤で汚れた顔で必死に二人分の死体を抱く彼女は、渦巻く炎をほとんど無意識に魔法で避けつつ、泣き喚いていた。


「とりあえずこれを飲んで」


 オーガスタスはコップに注いだ水を彼女に手渡して、なおも泣きやまない彼女の顔を冷たい水で綺麗に拭った。

 焼けた髪の毛の先がくすぶった彼女は、拭った顔の下に激しい悲しみの瞳を宿らせていた。


「なんで、こんなことになったの……」


 君の魔法の才能ゆえかもしれない、とは口が裂けても言えなかった。

 と、炎がぶわりと風になびいて揺れた。少女の髪の毛どころか身体が吹き飛ばされるような激しい風が山の向こうから降りてきた。山の木々が激しくざわめいたのと同時、王都の方で太陽のように強い光がカッと照る。まるで昼間のように村全体が明るくなって、森の隅々までが照らされたような錯覚に陥る。

 数秒遅れて、轟音が地面をかすかに揺らして地鳴りの様相を呈した。怯えた彼女が泣くのをやめる。


「なにが……」


「分からない。わたしは魔法議局の者なんだが、君に用があってここまで来たんだ。王都に来てくれないか?」


 王都の方角で起きたことだった。オーガスタスは王都に何か異変があったとほとんど確信をもっていた。神を信じるような荒唐無稽な感覚ではなく、より確かな根拠を持って。この村から王都までの直線を結んだところには他に主要な街はない。だからこそ、何か起きるとしたら王都しかなかった。

 くたびれて力の入っていない細い腕を掴んで、オーガスタスは王都へ飛ぶ。村の風景へ二人が溶け出して霧のように消えた。

 そして次の瞬間には王都へ戻っている。城の内部に無断で入るのは憚られて、少し外にある楼門の屋上へ二人は現れた。その判断は、間違っていなかったといえる。

 城は、城下に広がる街並みは、そこに住む人々は、煉瓦造りの家々は、轍の残る整備された道は、全て炎の中に包まれていた。

 激しい熱気が渦を巻き、空気すら歪むような光景が広がっている。城の大部分は高温に伴う爆轟で激しく損壊しており、空気を伝わりながら広がった激しい熱は街全体を炙り、一気に大火災へと変貌していた。

 もはやどこを消火するといった段階は過ぎており、逃げ惑う人々の大半は皮膚が焼けただれて真っ赤になっていた。大聖院も例外ではなく、かろうじて堅牢な建物は形を保ってはいるものの中から出てくる人影は喉を高温のガスで焼かれて、息もできない様子だった。

 体の周囲に絶えず水と空気を送り、周りの空気と隔絶したオーガスタスはその中に少女も取り込みつつ、ゆっくりと一人に近づいた。一番近いところで倒れていたのは、今日知り合ったばかりの男、大聖院のギルヴァードだった。

 首に提げた円星位は溶けて胸にはりつき、煙を上げて赤熱している。もはや呼吸することさえ困難な様子だったが、それでも彼は表情を強張らせなかった。正確に言えば、二人が来たのを見て無理やり笑みを浮かべた。黒く焼けて落ち窪んだ顔は一部が炭化しており、表情筋を動かそうとすれば痛みが顔中に響きそうだった。それでもギルヴァードは決して無表情で二人を迎えようとはしなかった。


「逃げ……だ……い」


 喉が焼けてまともに声も出せないのに、ギルヴァードは人のために声をあげた。神を信じている彼は今起きているこの悲劇もまた試練と捉えているのだろうかと、叫び出したくなるような状況の中で考える。オーガスタスはこんな状況でもまだ神を信じているのであろう彼に怒りと悲しみ、哀れみを想起させられる。それ以上に現状への怒りを感じ、さらにはその怒りは神にまで向いた。

 あまりにも街は悲惨すぎた。誰もが苦悶の声をあげて痛みに襲われている。神がいるならば、魔法なんてもたらしたならば、こんな状況もまた救うべきではないかと思う。それをしない以上、神なんてものはいてもいなくても同じじゃないかとすら思う。大聖院の教え通りならば、自然の理を無視してまで生み出されたはずの魔法が今を救うべき奇跡にはなれない理不尽さが恨めしい。


「まだ生き残りがいたか」


 炎が渦巻く中で絶句する二人の前に、一人の影が立った。反射的に氷を突き立てようとしたオーガスタスの攻撃を予想していたかのように炎の壁が立ちふさがる。揺らめく炎が収まってから現れたのは、一人のエルフだった。


「わたしはこの国へ復讐する。森を奪い、同胞を殺したお前たちは絶対に、絶対に許せない」


 そこに立つのは、オーガスタスと同じように怒りを湛えたエルフだった。くたびれたように背中を曲げた体勢の中には苦しみがのしかかっているように見えた。それはオーガスタスたちの国がほとんど勝手に決めた領土に対する怒りだった。オーガスタスとは共有できない怒りが眼前には横たわっており、二人は分かり合うことのできない隔絶の中で対峙していた。

 そして、そのエルフは魔法という強大な、そして一代限りの力を手にしてオーガスタスたち人間への復讐を始めたのだ。それは、魔法が圧倒的で理不尽な力そのものであって奇跡でも何でもないことの証明であるとさえ思えた。才能を持っているはずの少女が霞むほどの強大な力を手にしたそのエルフは、人数の差すら覆して人間への復讐を済ませようとしている。

 魔法が文明と自然、そして人間やエルフの発達さえも拒もうとする、指向性のない力だとオーガスタスは思えた。一国さえも一夜で滅ぼせるほどの力が、どんなに発達して体系化された知恵をも覆す。

 魔法があると感じるのは、体系化されうる自然の理が対とも呼べる形であるからだ。もしかすると、自然の理こそが神のもたらした人への力であり、無秩序な力の塊である魔法こそが、神の力をもって対抗すべきものだったのかもしれないと思えた。

 魔法は社会よりも強大な個人を容易に生み出す。だからこそ神は自然の理を用意して、人やエルフ、様々な種族が住むことの可能な状況を作ろうとしたのではないかとオーガスタスは気づく。

 オーガスタスの国がかつて揃えた剣も眼前に広がる炎のように人の営みを滅ぼす力となっていたのかもしれないと、エルフの瞳を見て思う。彼が携える炎は、彼らにとっては救いの手だ。しかし、それが世界全体にとっても救いなのかは誰にも分からない。少なくとも、今のオーガスタスには魔法がそんな力だとは思えなかった。

 目の前で膨らむ炎が怒れるエルフの手の中に収まり、暴風と激しい風鳴りを立てながら渦を巻く。王都をまるごと焼いた炎を手のひらに乗せるエルフは、その力に全てを委ねて怒りを燃やす。

 小さな楕円へと収縮した炎は、温度を空気に伝わらせないように魔法で固めてある。怒りを漲らせたエルフは二人を睨みつけながら、炎の力を開放した。

 光が満ち満ちて、何もかもが消える。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

クラッシュマジックパニック @72-sh

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ