紅色の手紙

ひこ(桧子)

紅色の手紙

 僕は車を運転していた。会社からの帰路だ。

 薄くじめついた夕闇、冬ならば暗闇だろう。

 夕立に濡れた木々を右手に、山裾のゆるやかな道をゆく。


 いつも通る歩道橋の下。くぐる直前にふと上を見た。普段はそんなふうに視線を動かさないのに。


 一瞬だったので、詳しくは描写できない。

 歩道橋の上に女性が立っていた、少女かもしれない。長い髪を垂らして、身を乗り出していたのはわかった。変だな。車通りも少ない田舎みちだ。黄色い帽子の小学生でさえ、車道を駆けてわたってゆくのに。歩道橋は廃墟、どうしてあんなところに。


 飛び降りるかもしれないと、僕はふと嫌な想像をした。だったら見なければいいのに、人は罪深いものだ。思わずバックミラーを覗いた。


 戦慄。


 僕の車の後座席には女性が乗っていた。なにせ夕闇、顔が見えない。長い前髪が邪魔だ。ろくに疲労もなく、寝不足でもない僕が、見間違いなどしない。

 そうか、あの歩道橋の女か。僕はとっさに判断した。


「きみ、せっかく空いてるんだから、助手席にでも座ったら?」


 ひとまずそう言って、運転のため視線を前に戻す。すうっと冷気が左腕から左頬へと忍び寄る。

 ――助手席だ!

 目だけでそちらを伺うと、歩道橋の女が座っていた。薄汚れた黒髪、泥色の肌、白だか灰だかわからない古めかしいワンピース。生気などなにもない。僕はいつか見たゾンビ映画を思い出していた。


「きみ、なんであんなところにいたの」


 答えはない。


「BGM、メタルは嫌い?嫌なら止めるよ」


 僕が触るまでもなく、ギギっと音がしてオーディオが止まった。


「言えば僕が止めるのに、まあいいや。よくもまあ、こんな見ず知らずの男の車に乗ったねえ。男、好きなの?」


 ザザザとオーディオが復活したと思いきや、不吉な歌声で『シネ』と聴こえた。気がした。


「冗談、ごめんよ。きみ、喋れないのか。言葉がないって不便なんだね」

「……う…あ………」

「ありがとう。まあいいよ、僕はしゃべり上手じゃないしね。ところで、どこか行きたいところでもあるの?」


 彼女はゆさゆさと首を横に振った。まだ顔は見えない。どことなくその顔は黒ずんでいるように感じる。


「じゃあ、どうして僕の車に乗ったの?僕より会いたい人がきっといるだろう?」


 同じように、ふたたび彼女は首を振る。

 気付けば外は暗闇に包まれていた。夜の山道、他に車はない。僕のヘッドライトが照らすだけの視界。


「うそだろ。赤の他人よりも、会いたい人がいないなんて」

「うう……ああ………」


 軽く笑って彼女を見ると、そこには言葉にしがたい素顔があった。ひとまずここで彼女が死人だと仮定して、どんな様態で死んだのかがすぐわかった。

 ギリギリ判断できる両目から血が流れ出す。いや、こんな描写じゃグロテスクすぎる。紅の涙だ。女の頬を濡らす、紅の涙。


「……そうか。寂しかったんだな」

「…ああ………あああ………」


 どろどろと流れる涙。ああ、やっぱりあれは血だ。いけない、ワンピースが汚れてしまう。


「ほら、ティッシュ。使っていいよ」


 彼女は手を動かさなかった。仕方ないのでティッシュを1枚、彼女の膝の上に置く。

 だめだ、置けなかった。僕には彼女に触れることができなかったようだ。ティッシュは助手席の上に乗る。

 それを見て、彼女はようやく僕の方を見て、申し訳なさそうに小さく首を振った。まるで、どこにでもいる普通の女のようなしぐさだ。やや心臓に悪いのを覚悟で彼女の顔をもう一度覗くと、さらに血がどろどろ流れている。僕はため息をついて、ティッシュを箱ごと助手席に置いた。


 さて、僕はどうしたらいいだろうか。

 じきに家についてしまう。いくらなんでも、ろくに会話のできない彼女を家にあげて住み着かれたらどうする。猫なら飼ってもいいと思っていたが、元人間となれば扱いも違う。それに正直、彼女を見るたび寿命が縮みそうだ。


「きみ、実家どこだい。帰りたくないの?」

「あう……」


 頷く彼女。なんだか会話っぽくなってきた気がする。

 僕はまっすぐ家に向かわずに、裏の山道を登ることにした。夜景を眺められるということで、ちまたではデートコースでもあるようだ。


「はは、僕も実家が嫌いでねえ。とはいえ、母はものごころつく前に死んだし、父も去年死んだから無いようなもんだけどさ。高校くらいから、ろくに家には帰んなかったよ。それで、適当に就職して、1回転職して、今もなんだかわからないまま生活してるっての?もうちょい都会に住みたいんだけど、今はそんな金もないしね」

「…う、う」

「だから、死にたいと思ったことは何度もあるよ。そうだな……中学校でいじめられたときには、すでに思ったかな。でも、卒業して全然違う高校に行ったらなにもなくて、なーんだって希望がわいたんだ。高校生になったら、厳しかった父との距離もつくれるようになってね、気が楽になったらまた少し希望がわいたんだ。

 最初に就職したときも、辛くて死にたくなったけど、1回やめてみたら、世の中結構ほかにも仕事あるなあって希望わいてね。だから、今もまた、なにか八方ふさがりに感じることがあっても、その外には広い世界があるって信じてる」

「あう…」

「そりゃ、死ぬのが一番の脱出だけどね。その前に世界ってきっと何層もあるんだよな。その層をすっとばして最終地点まで行っちゃうのは、なんだかもったいないって今は思ってる。

 ……っと、こんな話になって悪かったね。気分を悪くした?」


 ふるふると彼女は精いっぱい首を横に振った。目を閉じて、流れる紅の涙を両手で懸命にぬぐっている。


「ね、今だってこの車内はきみと僕しかいない、狭い狭い世界だよ。ちょっと脱出してみようか」


 車を脇に止めて外に出た。空には満天の夏の星。ガードレールのむこうには、まばゆい光の粒。家庭の光か、労働の光か。

 気付けば音もなく、少し離れた所で彼女も夜景を眺めていた。


「あー、綺麗だねえ」


 返事はないがそれはそれでいい。ムードは間違っちゃいない。

 それにしてもここからどうしよう、と再度悩む僕。ふうっと山の風がふく。鳥肌がたつ。

 今さらになって恐怖心が目覚めてきた。自然のざわめきが、いちいち人の無力さをささやく。そうだ、下手したら僕はこの歩道橋女に連れていかれるかもしれない。焦れば焦るほど、彼女を再び見ることができなくなっていた。こんな夜の山で死人を見るなんて、肝試しも度を超えている。


 視線を夜景から動かせないでいると、背後から静かな声を感じた。おいで、と。人を裁くような低い声。

 いや、それは早すぎる。僕はまだ人生半ばだ。たしかに今はなんだかわからないまま生きてるけど、でも!でも!根拠はないけど、まだもったいない。そうだ、都会にだってまだ住んでない。こんな夜景が広がるほど、たくさんの可能性が、外側の世界が広がってるのに終わるわけにはいかない!


 けれど、声に「ええ」と答えたのは歩道橋女だった。柔らかな声、聞き覚えのあるような。


 ちくしょうどうにでもなれとヤケクソに振り返ると、不気味なほどに何もなかった。慌てて周囲を伺うものの、誰もいない。歩道橋女さえも、こつぜんと消えていた。

 そんなばかなと車に飛び乗る。きっとまたバックミラーに映るだろう。下山の方向にアクセルを踏んだが、いつまでも彼女は映らない。僕は不自然なほどに、目の前と助手席を交互に何度も見た。けれどいつまでも現れない。


 帰ったのか、なんとなくそう思った。

 僕も帰ろうと、続けて思った。

 爽やかな風が抜けてゆく暗闇。

 夜風に揺れる木々を左手に、山裾のゆるやかな道をゆく。


 自宅の駐車場に着き、ティッシュ箱に目をやった。そういえば1枚だけ出したんだった、と手にとる。そこには血文字が綴られていた。いや、紅色の手紙だ。


「イキテ、イキテ、イキテ」


 いつだったか読んだ詩を思い出した。言霊の話で、死ぬと1度口にしたら、生きると3回口にするようなものだったと思う。

 彼女が残したのだろう。彼女が遺したのだろう。彼女の言霊。見ず知らずの僕にどうして。

 仏壇も神棚も持たない僕だったが、生前の父にもらった数珠入れに手紙をしまった。


 いくど歩道橋を見上げても、もう彼女はいない。

 誰もこの話を信じないと思う。それでいい。手紙はいずれ朽ち果てるけれど、彼岸の果てからイキテと謳われたことは忘れない。

 ありがとう、本当は近ごろだって何度も死にたかったよ。きみを見た、その瞬間も。あの夜景を見せられたのは、僕のほうだったのかもしれない。彼女が何を思っていたのかはわからない。

 でもきっと、僕が大往生したあとにまた、彼女に会えることだろう。

 だからその日まで、さようなら。ありがとう。

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