祝福と呪い

緑茶

祝福と呪い

 高校を卒業して数年経ったある日、三年生の時に担任だった先生が急死したという報せが入った。そして私たちクラスメイトは、彼女の葬式の日に顔を合わせた。


「あの人は、俺達にいろんなものをくれたよな」


 ある一人の言葉に、誰もが頷いた。

 優しくて、強くて。生徒一人ひとりの将来を、誰よりも真剣に考えてくれていた。それが、皆の覚えている操緒先生の在り方だった。


「先生のおかげで、わたしは保育士になれたもの」


「僕は先生が進路指導で尻を叩いてくれたお陰で、図書司書になれたんだ」


 誰もが皆、先生の言葉と行動の先に未来を作っていた。だから、その集まりの中で語られるのは悲しみでも怒りでもなく、あの優しい先生の思い出についてだった。


「私が――」


 しかし、彼女だけは違っていた。


「私が先生から受け取ったのは。そんな良いものじゃないよ」


 翔子。当時と変わらない暗い表情で、ぽつりとそう言った。皆、静まり返り、そこからどんな悲嘆の言葉が語られるのだろうと思った。


「私が受け取ったのは、『呪い』なの」


 そう言うと彼女は、ずっと手元に持っていた一冊の本を、ぎゅっと抱きしめる。


「私はね、あの頃ずっとイライラしていた。誰に対しても怒りとか、いらだちを抑えられずに。今思えば、みんなに迷惑をかけていたと思うわ。

 でもあの時の自分は、なぜ自分がこんな状態で、誰に怒っているのか。まるで分からなかったの。そこで私に声をかけてきたのが、あの先生だったっていうわけ」


 皆が口を挟まず聞いていると、彼女は少しだけ声を大きくして、続けた。


「はじめは、すごく戸惑ったの。だって、いきなり――『あなたが何故そんなにつらそうなのか、私が一緒に考えてあげましょうか』なんて言ってきたんだもの。

 私は当然、驚いたわよね。それで、なかば無理矢理に、私は先生と将来について話すことになったのよ」


 皆、その光景をありありと想像していた。数年前に戻ったようだった。


「私は言ったの。『自分は何に対してイライラしているのかわからない』って。

 すると先生は言った――『それは、あなた自身が、この先何をしていいか分からないからじゃない』って。何か、詰まっていたものが急に抜け落ちたような気持ちだったわ。

 私がその時ずっと感じていたのは、漠然とした将来の不安だったのね。私はたぶん、人一倍いろんなことに敏感だったから……有る事無い事をたくさん考えて、いっぱいいっぱいになっていたんだと思う。

 先生には、それを見事に見抜かれていた。だから私は聞いたの。『先生、私はこれからどうすべきなんですか。何をしなければならないんですか』って。

 すると、こう言ったの……『あなたを作っているあなた自身の要素を、許してあげることよ』って。私は、意味が分からなかった。それについて聞いたら、先生は……これを、指差したの」


 そして翔子は、抱えていた本を皆に見せた。

 ぼろぼろになった、手書きのノートだった。表紙には、小さく、控えめな字で『わたしの書く物語-タイトル未定-』とある。


「皆は、知らなかったかもしれないわね。私が、小説を書くことが好きなことを。

 それで、私はちょっと恥ずかしくなって……これをしまっちゃおうとしたの。

 でも先生は、その行動を許さなかった。

 先生は、言ったわ。『あなた、これを書いているとき、楽しかった?』って。

 私は……頭の中に色々浮かべたけど。結局、言った。『そうだ』って。

 『他のことをしていてもまるで満たされないけど、これに物語を綴るときだけ、私は生きている気がするんだ』って」


 ――知らなかった。

 翔子のことを、何も知らなかった。ただ、暗い女の子としか思っていなかった。事実はそうではなく、彼女にも好きなこと、やりたいことがあったのだ。それは皆に驚きを与えると同時に、彼女への関心にもなった。


「先生は……言ったの。『なら、その書くことを、これから先の礎にして生きていきなさい。たとえ、作家になったりは出来なくとも。あなたのノートを、これからも物語でいっぱいにしていきなさい』って。私は……私はそれに、逆らったわ」


 翔子は言葉を切って、少しの間だまっていたが、やがてまた話しだした。


「そんなこと、私には出来ないって。だって私、急に不安になったんだもの。これから先、小説を書くなんてことが、どれだけ自分の世界に通用するかどうかわからないんだもの。ましてやそれをずっと続けていくなんて、酷なことだって。

 だから私、言った。『先生。どうせなら、そんなものやるな、って言ってください。私がどこかで、この先も書くことを続けていられるってことを希望として持っているから、こんなに苦しいんです』って。

 でもね……先生は首を横に振って、言ったのよ。

『私はね。生徒一人ひとりのやっていることを、心から愛しているの。だから、サッカー選手になりたい子の試合は、なるべくなら全部応援するし。勉強のことだって、時間が許す限りサポートしたい。そして私は……あなたの書いている物語のことが、本当に大好きなのよ』って。

 そうだ……先生は、私の小説の、最初の読者だった……私は、そのことを頭からすっかり振り落としちゃってたんだ」


 翔子は黙り込んで、更に俯いた。


「私、本当は分かってた。私は小説家になりたい。それで、色んな人に物語を届けたい。分かってたけど、目を背ければ、傷つかなくて済むから……そうしていた。実際はずっと苛立ってて、生活さえままならなかったのにね。

 でも先生は私の顔を上げさせて、前を見させてしまったの。そして、他の皆にそうやったように、背中を押したのよ。『あなたなら出来るわ』って。ほんとに、いい加減にしてよ……この先、どれだけ長い人生が待ってるって言うのよ。この先、どれだけ大変な道が待ち受けてるか、知ってるはずなのに。先生は私に希望を与えてしまった。

 そんなの、逆らえるわけないじゃない……私だって先生のこと、大好きなんだから。あんなこと言われて、嬉しくないわけないじゃない。

 そうして私は、物語を続けていくことになったのよ……私、こんなにボロボロになって、何度もうんざりして……こんな苦しい人生、もう嫌だって思ってきたのに。その恨みを、ちょうどぶつけようと思っていたところなのに。私はもう、永遠に呪いを解くことが出来ない……」


 そう言って、言葉を切った。

 下を向いた顔から、静かに水滴がこぼれた。


 翔子は現在、人気作家として執筆活動を続けている。

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