第2話
「おかーさーん、わたし先行くから!」
玄関から大声で家の中に叫ぶ。
「はーい。気をつけてねー」
間延びした返事が返ってくる。たぶん、いつもより気合を入れてお化粧をしているのだろう。いつもなら数分で終わらせることなのに、娘の晴れ舞台に娘より気合を入れてしまっている。
でも、その浮き上がるような気持ちはわたしだってそうだ。
今日の入学式で、わたしは晴れて高校一年生になる。ぴかぴかの一年生だ。
中学生の間は高校生を見るとすごい大人に感じてしまっていたけれど、こうして高校の制服である紺のセーラー服に袖を通してみると、わたしもその仲間入りができたような気がする。というか、実際に仲間入りできたのだ。
そしてまた、このセーラー服がかわいらしくて、わたしはこれを着るためだけにこの高校を志望したと言っても過言ではない。
傷ひとつない革鞄を手に提げ、真新しいローファーを履いて玄関を飛び出す。四月の朝はまだまだ冬服のセーラー服でも涼しくて、でも、朝日が私のことを祝福してくれているようでとても気持ちがよかった。
わたしはるんるんと鼻歌を歌いながらスキップしてバス停へ向かう。そこで友達と待ち合わせをしているのだ。
約束の時間より三分くらい早くバス停には着いたけれど、バス停にはすでに同じ制服を着た人が何人も並んでいて、その中に見慣れたひとつくくりの髪の後姿があった。
「ごめんさやちゃん! 待たせちゃった?」
「あ、かなめ。そんなことないよ、いま来たとこ」
にこりと笑っているけど、彼女の性格的に十分前には来ていたのだろう。ほんの少し申し訳ないなと思う。
さやちゃん――安藤さやかはわたしの小学生のときからの友達だ。中学校も一緒で、ついには高校まで一緒になってしまった。わたしが吹奏楽部に入ったのも彼女の影響だった。それからわたしはすぐに部を辞めてしまったけれど、仲良くしてくれている。
おっとりしたたれ目がチャームポイントだが、別に彼女自身おっとりしているということはなかったりする。
「さやちゃん、制服似合ってるよー。すっごいかわいい」
「え、ほんと? なんか照れちゃうなあ」
右手を口元に当ててはにかむさやちゃんの頬は少し紅色がさしている。
「でも、かなめもかわいいよ。なんか大人っぽくなった感じ」
「えへへ、そうかなぁ」
大人っぽいと言われたのが嬉しくて、わたしは照れて頭をさすった。今日は髪も気合を入れて編んできた。
そんな話をしているうちにバスが来た。
わたしたちはタラップを踏みながらICカードを通して車内に入る。椅子はもう埋まっていたので、わたしたちは入り口のそばのポールに掴まった。
バスは駅方面とは反対に走る路線のため社会人の人は全然おらず、乗客のほとんどが同じ高校の生徒だ。そんな中にわたしが混じっているという事実が、高校生の仲間入りができたんだという実感を抱かせる。
「さやちゃんは部活どうするの?」
「わたし? うーん、やっぱり吹奏楽かなあ。結局三年間続けたし、せっかくだから高校でもやりたいかな」
「だよねえ」
たった半年で吹奏楽部を辞めてしまったわたしにとっては、さやちゃんの言葉はなんだか心にぐさっと刺さるものがある。もちろん彼女に悪意はないのだけれど。
でも、そう。わたしはもうそんなことで落ち込まないのだ。
さやちゃんや他のみんなのように、熱中できるものを見つけることができた。
まだ手に入れることはできていないけれど、ロードバイクがそうだ。
あの日、走り去っていくロードバイクを目にしたときからずっと、わたしの心は躍りっぱなしだ。こんなことはいままでなかったから、今回の熱意は本物なのだと思う。
「かなめはどうするつもりなの?」
さやちゃんがカウンター気味に尋ねてくる。
「うーん、まだ決めてないかなあ。バイトはしようと思ってるんだけど」
ロードバイクに乗れる部活があったらよかったんだけど、うちの高校にはそういうのはなさそうだった。だからロードバイクを買えたとしても、それはあくまで趣味として乗ることになる。
さやちゃんが両眉を上げる。
「バイトかあ。わたしもしたほうが良いかなあ。でも部活が忙しいと無理だよね」
「無理にしなくても良いと思うけど。わたしは買いたいものがあるからやるだけだし」
「欲しいもの?」
さやちゃんが首をかしげる。
「うん、ロードバイクって知ってる?」
「自転車だよね、変わった形の。それが欲しいの?」
「そう。でも高いんだぁ。調べてみたら安くても十万円くらい」
「十万円!?」
あんまりびっくりしたのか、さやちゃんは声を上ずらせて小さく叫んだ。周りの人たちの視線が集まり、彼女は肩をすぼめた。
「……わたしだったら自転車にそこまで出せないなあ」
「でも、すっごくかっこいいんだよ!」
「あ、その気持ちは分かるかも」
うんうんと頷くさやちゃん。やっぱりあのハンドルの形とか、すごく前傾になる乗り方をかっこいいと思うのはわたしだけじゃないんだ。
ちなみにわたしのお小遣いは月三〇〇〇円だ。とてもじゃないが、それを貯めて買えるようなものではない。わたしの中でロードバイクは、それでも欲しいと思えるようなものになっている。
「あれ、そうじゃない?」
窓の外をさやちゃんが指差す。その延長線に視線をやると、そこには路肩をバスと併走するロードバイクの姿があった。
「わ、わ、ほんとだ」
まさかこんな日にも見られるとは思わなかった。しかも、乗っているのは同じ高校の制服に身を包んだ女の子だ。スカートを翻しながら風に乗っている。
「同じ制服だね、新入生かなあ」
「わかんない。でも、ロードバイクに乗ってる人うちの学校にもいるんだ……」
わたしには、その事実がとても嬉しかった。もし学校で会えたら友達になっていろいろなことを教えてもらいたい。
あれ。
よく彼女の乗っているロードバイクを見てみると、見覚えがあった。白をメインにピンクのラインが入ったフレーム。乗っている彼女の服装がまるっきり違うから気づかなかったけど、間違いない。あのときの女の子だ。
わたしがロードバイクに夢中になるきっかけを作った女の子は、わたしが入学する高校の生徒だったのだ。
信じられないくらいの偶然。
世の中に奇跡というものが存在するのだとしたらこういうことなのだろうなと、わたしは思った。
バスの速度が遅いこともあってか、ロードバイクの女の子は付かず離れず併走している。
ヘルメットからはみ出した髪がなびく様子、まっすぐ前を見て一心不乱にペダルを回し続ける姿、一見ロードバイクに乗るにはミスマッチにも見えるセーラー服のどれをとってもかっこいい。
憧れという感情をはじめて知った子供のように、わたしの心はそれだけでわくわくしてたまらなくなる。
バスが交差点にさしかかり右折していくが、ロードバイクの女の子はそれにはついてこなかった。自転車だから二段階右折をしなければならず、次に信号を変わるのを待っているようだった。わたしの視界から彼女がフェードアウトしていく。
もっと見ていたかったという残念な気持ちを抱くと同時に、彼女と学校で会うことを期待しているわたしがいた。
*****
「クラス、違ったねえ」
「うん、残念」
校舎前に掲示されたクラス分け表を見て、わたしとさやちゃんは落胆していた。
わたしは二組で、さやちゃんは一組だ。教
室は隣だけど、仲のいい友達と離れ離れのクラスになるのはやっぱり不安だ。地元の公立校ではあるけれど同じ中学校から上がってきた子は少なく、その中でわたしが仲のいいのがさやちゃんだけなのだ。
わたしたちはああだこうだ言いながら教室の前まで来て、一緒に帰る約束をしてからそれぞれの教室に入っていった。
教室の中にいる生徒は二十人くらいで、クラスのちょうど半分程度だった。さすがに入学式とあって女子はみんな、校則に違反しない範囲でおめかししてきているし、男子でもある程度髪を整えたりしている。もちろんわたしだって美容室に行ったりはしたけれど、やっぱりかわいい子たちに比べると見劣りしてしまう気がする。
さっそく浮かない気持ちで、黒板に貼ってある座席表を確認する。おおよそ横六縦七で机が並んでおり、わたしは後ろから二列目の席だった。どうせなら一番後ろがよかったという不満は心の中に留めておいて、自分の席に座る。かばんを机の横にかけて一息つく。教室を一通り見回してみたけれど、同じ中学の子はひとりもいなかった。せっかく朝から気分がよかったのに、登校してきてからはなんだか残念なことばかりだ。
「ね、あなたどこ中?」
ほとんど不意打ちのように後ろから声を掛けられたので振り向いてみると、後ろの席にいつの間にか女の子が座っていた。すごく大人びた感じの子だ。一五五センチのわたしよりもひと回りくらい背が高そうで、制服の上からでもわかるくらい細身。ゆるくパーマがかかっている長い髪はほんのり茶色みがかっているが、染めるのは校則で禁止されているから天然なのだろう。高校生を通り越して大学生っていう感じがする。
わたしが面食らった様子でいると、彼女は申し訳なさそうに苦笑を浮かべた。
「あ、ごめんなさい、先に自己紹介するべきだよね。わたしは
「ううん、大丈夫だよ。わたしは早坂かなめ、かなめでいいよ」
「かなめちゃん……うん、いい名前!」
「そ、そうかなあ……」
今日はなんだか褒められることが多くて、朝から照れっぱなしだ。
「あ、中学だよね。わたしは一中だけど、ええと、野暮さんは?」
言うと、野暮さんは眉の間にしわを寄せた。
「瑞樹って呼んで。野暮ってヤボって読めるからあんまり好きじゃないの」
気にしなかったけど確かにそう言われればそうで、呼ばれる側からしたら嫌なのだろう。
「じゃあ、瑞樹ちゃんで」
「うん。ちなみにわたしは
「山中って、遠くない? バス通学?」
山中というと、その名前の通り山のふもとあたりにある中学校だ。面積の広いこの市では、山中の校区から遠く、比較的駅のほうに近いこの高校に進学してくる子は例年少ない。確か去年は三人だったはずだ。
わたしの問いかけに瑞樹ちゃんはうんと頷いてみせた。
「しばらくはそうだけど、少ししたら自転車にしようと思ってる」
「え、自転車って、あっちのほうからだと一時間くらいかからない?」
しかも坂道があるから行きは楽だが帰りは相当しんどいはずだ。正直、自分が通ることは考えたくないくらい。それなのに、瑞樹ちゃんはそのことを全く意に介していないような表情だ。
「ママチャリだとそれくらいかかるけど、わたしのはロードバイクっていう自転車だから、四〇分くらいかな」
「ロードバイク!?」
その言葉は、いまのわたしが最も過敏に反応する単語だ。
「う、うん……知ってるの?」
引き気味に尋ねてくる瑞樹ちゃんに対して、わたしは強く頷きを返した。
「もちろん! わたし、ロードバイクが欲しくてバイトして買おうと思ってるの!」
「そうなの?」
瑞樹ちゃんが少しだけ身を乗り出した。
「珍しいよ、女の子でロード乗りたいって」
「やっぱり?」
「うん。だって始めるのにまず高いロードバイク買わないと駄目だからね。男子なら無理して買おうって子がいるかもしれないけど、女子はなかなかそこまで決断できないし、親がなんて言うかもあるしね」
実際、最低でも十万円というのは中高生にとってはそうそう出せる金額ではない。そんな自転車を買いたいと言っても買ってくれる親なんてそうそういないわけだし、結局この年齢でロードバイクに乗っている人間自体が珍しいという話になる。
「でも、かなめちゃんはもう買うって決めてるんだよね?」
「うん! お母さんに反対されても絶対買うよ!」
そう言うと、瑞樹ちゃんはなにか思いついたように手をぽんと叩いた。
「じゃあ今度、わたしのお世話になってるお店紹介してあげる。買わなくても試乗とかさせてもらえるよ」
「ほんと!? ありがとう!」
実はわたし、まだ自転車屋に行って実際にロードバイクを見たことがない。いままで乗っていたママチャリは全国チェーンの量販店で買ったものだし、本格的なスポーツタイプのものに興味を持つことはなかった。買うと決めたからには店に赴かないといけないのだけれど、やっぱりわたしひとりで行くにはハードルが高い。
わたしが喜ぶ様子を見て、瑞樹ちゃんはにこりと笑った。
「いいよいいよ、わたしもロード仲間が増えるのは嬉しいし」
さっき言っていたように同年代でロードバイクに乗る子が少ないから、同じ趣味の友達ができるのが嬉しいのだろうか。
ふと、あまり興奮していたせいで忘れていたことがあるのを思い出した。
「あ、そうだ。瑞樹ちゃんにひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
瑞樹ちゃんが首をかしげる。
「瑞樹ちゃんのロードバイクってどんなの?」
「わたしの? デローザのカーボンだよ」
「でろーざ?」
カーボンのほうは炭素素材で作られたロードバイクのことを指すというのはネットで見て知っていたけど、でろーざというのがよくわからない。
わたしが小難しい顔をしていると、瑞樹ちゃんが付け足すように言う。
「あ、デローザっていうのはメーカーの名前ね。写真見せてあげようか?」
「見せて見せて!」
わたしがせがむと、瑞樹ちゃんはスカートのポケットからスマホを取り出してちゃっちゃと操作をしてから画面をわたしのほうに向けた。
「はい」
画面に映っていたのは、白いサイクルジャージに身を包んだ瑞樹ちゃんが身体の前にロードバイクを置いてピースサインをしている写真だった。ロードバイクは黒をメインカラーにして白をはさんでピンクをフレームの目立つ部分に置いたデザインだ。『DE ROSA』と書かれているのが、彼女の言っていたメーカーのロゴらしい。
わたしは感動してかぶりつくように画面を見つめた。
「おおお、すごい……! かっこいいしかわいい!」
「ポイントはロゴね。Oのところがハートになってるのが好きなんだあ」
得意げになって話す瑞樹ちゃん。
「うん、わたしもそれ好き!」
実際、このロゴのデザインはかわいい。これに乗っていると、なんだか自分がおしゃれさんになった気分になれそうだ。
「でも、違うなあ……」
色味は似ているけれど、黒がメインの色になっているこれと、わたしが見たあのロードバイクとは別のものだ。そもそも瑞樹ちゃんは、今日はバスで来たと言っていたのだから今朝見たあの女の子な訳がないのだ。
「違う? なにが?」
どうやらわたしの心の声は口に出ていたらしく、瑞樹ちゃんが怪訝そうな顔でわたしの顔を覗き込んでいる。わたしは慌てて口を開いた。
「あ、ええとね、実は登校中にうちの制服を着てロードバイクに乗ってる子がいて、もしかしたら瑞樹ちゃんじゃないかなあって。いや、違うのはわかってるんだけど……」
言うと、瑞樹ちゃんははっとしたような顔をして、考え込むようにスマホを持った右手を顎に当てた。
「ね、そのロードってどんなのだった?」
「どんなの……ええと、色は白とピンクで瑞樹ちゃんのと似てたけど」
なるべく伝わりやすいように簡潔に説明したつもりだけど、本当はメーカーの名前とか分かったほうがよかったのだと思う。
しかしそれを聞いた途端に、瑞樹ちゃんの目がなにかを悟ったように開かれた。
「その子、わたしの友達かも」
「え」
かなめヒルクライム! だいふく @guiltydaifuku
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