3:NOTE「その探偵、幽霊を語る」

 そこかしこに【温泉削岩中おんせんさくがんちゅう】の看板が立てられる、東京都榊原区さかきばらく。帝都15区6郡の外れに位置するこの区は、もともと木々に囲まれた山中でした。

 別荘地として開発され始めたのは、つい最近。温泉がくことが知れ、帝都で唯一源泉による湯治とうじができる地とし、人気が高まりました。

 急速に観光地化は進められ、山は削り取られつつあります。自然主義の方々は声高に榊原区さかきばらくの開発を非難ひなんし、経済促進派けいざいそくしんはの方々はそのような批判ひはんは気にも留めません。住民間の剣呑けんのんな雰囲気故か、榊原区さかきばらくの治安は決して良くないのです。


 そんな、時代の変化を生きうつす区の中心に、水島みずしま様のお屋敷は所在しておりました。

 決して大きすぎない、2階建ての小ぢんまりとした洋風屋敷。そこを囲む小さな庭園はよく手入れされており、花壇かだんには紫色のアジサイが整然と咲き並んでいます。

 可愛らしい木造の白壁。玄関上に取り付けられたバルコニーもまた真っ白で、明るさに満ち溢れた雰囲気をかもし出します。屋根は角度の急な三角屋根に、小さな煙突がそそり立っております。築年数ちくねんすうっているのでしょう、外観はところどころがれて痛んでいますが、だからこそにじみ出る風格があります。

 決して豪奢ごうしゃではありませんが、長い間この区を見守ってきた存在感が感じられる、素敵なお屋敷です。もし将来家庭を持つならば、このような家がいいと素直に思わせてくれるものです。


「小汚い屋敷だな」


 先生が、一刀の下に断ち切るかの如き発言を繰り出しました。私の憧憬どうけいが音を立てて崩れるようで、思わず苦言くげんていします。


「先生、決して依頼主様の前では、そのような発言はなされませんよう」


「ふん。わかっているさ。さあて、幽霊如何いかがするものぞ、だ。薄雪うすゆき君。鍵を開けてくれ」


 私は、水島みずしま様から預かった鍵を手に取り、玄関扉の前に立ちます。先生は、その3歩ほど後ろに立ち、鍵が開くのを見守っているようでした。

 10秒ほど、そうしていたでしょうか。

 鍵を持ち、立ちすくむ私に、ついに先生が声をかけました。


「入らないのかい」


 先生が、幽霊なんて言葉を出すからです。せっかく、忘れかけていたのに。

 金縛りは睡眠麻痺すいみんまひが原因でしたが、それ以外の現象についてはまだ謎のままです。もし、本当に幽霊の仕業だったらと思うと……。


「その。少々、勇気が必要でして」


「なるほど。確かに、これほど古い家に入るのは勇気が必要だ。恐ろしいかび臭さと、ほこりっぽさに襲われることだろう。だが、僕たちは負けてはいけない。幽霊と言う真実を、突き止めなければいけないからな」


「ああ、もういいです。大丈夫です。入りましょう」


 こうして、屋敷の調査は始まりました。

 玄関扉を開けると、靴ベラがかけられた大きな下駄箱が目に飛び込んできました。中には、いくつもの草履ぞうり下駄げたが並べられています。

 次に注目したのは、奥で右に折れている、細く長い廊下です。電気がついていないため薄暗く、端々はしばしほこりが溜まっています。周囲に立ち込める異臭は、かびほこりが混じった臭いでしょうか。


「ああもう、物凄く鼻が苦い。依頼主の悪臭といい、今回はガスマスクが手放せないな」


 幽霊の匂いを嗅ぎたいのに、とぶつぶつおっしゃっている先生を横目に、私は廊下を進みます。

 廊下の両辺には襖扉ふすまとびらが付いています。洋風なのは外観だけで、中は暮らしやすいよう、日本の伝統建築様式でんとうけんちくようしきが使われているのでしょう。2、30年前の、海外文化が流入し始めてきたころの建築には、よくある形です。

 一番近いふすまを開けると、そこは大きな洋室でした。カーテンが取り払われた広い出窓の前に、傷だらけの洋卓テーブルや、くたびれた寝椅子ソファが置かれています。


「どうやら、この部屋は客間として使われていたようですね。となるとこの寝椅子ソファが、木梨きなし様が仮眠をしていた寝椅子ソファということでしょうか」


「ということは、あれが顔の正体か」


 先生は、天井のある一点を見つめていました。そこにはかびか染みか、何やら黒い汚れが三つほど、寝椅子ソファから見るとちょうど逆三角形の形についておりました。

 どうひいき目に見ても、とても顔には見えません。


「あれが顔、ですか」


「シミュラクラ現象というものだ。人間は、3つの点が集まっている形を見ると、顔と認識してしまうように、脳が設計されている。木梨きなし某は、起き抜けで目に入ったあの汚れを、顔と誤認したのだろう。ばあさんと言っていたが、多分しわは木目だな」


「しかし、いくら何でもそのような勘違いをするものでしょうか」


「幽霊の正体見たり枯れ尾花、というだろう。怖がっているときは、ただの花すら人に見える。幽霊に怯えていた木梨きなし某には、あの染みはさぞ恐ろしい老婆の顔に見えただろうさ」


 さあ、次の部屋に行こうときびすを返す先生。私は、少々疑問に思います。


「先生は、幽霊の存在を確かめたくて来たのではないのですか。そんなにもあっさり物理現象と片付けてしまって、よろしいのでしょうか」


 先生は、驚いたように首をすくめた後、くつくつと笑い始めました。


薄雪うすゆき君がそんなことを言うなんて、意外だね。いつも言っているだろう。探偵とは、真実を追求するためにあるのだ。幽霊が真実ならば当然面白いが、それが真実でないならば、虚偽きょぎに覆われた真実を暴かねばならない。見せかけの希望に、価値はないのさ」


 愉快そうな声を上げる先生。いい機会です。私は依頼を受けた時から気になっていたことを、先生に問いかけました。


「今更ですが、先生が幽霊を信じていることも、意外です。そう言った怪奇現象オカルトは、信じていないと思っておりました」


「それを言ったら、僕の鼻も十分に怪奇現象オカルトだよ。別に、皿を一枚二枚と数えている奴がいるとか、一つ目小僧がいるとか思っているわけではない。そこに幽霊がいると、感じるだけの何かがあった。それが重要なのさ」


「感じるだけの何か、ですか」


 先生がおっしゃることは、たまによくわからないことがあります。

 いぶかしげな顔をしていたのでしょう、私の顔を見た先生が、うずうずと説明したそうにします。

 こうやって一緒に事件を解決していく中で気付いた事なのですが、先生は、案外お話し好きなところがあります。


「そもそも、人はどうやって存在というものを感知しているのか。それは、五感の作用に他ならない。

 像を映す、視覚。耳で聞く、聴覚。硬軟こうなん温冷おんれいを感じる、触覚。匂いを感じる、嗅覚。味覚も、他者がそこにいると判断するのに有用な材料となるだろう」


「味覚」


「他者を認識する為の味覚」と言う言葉に口付けを連想してしまい、思わず自分の唇を押さえました。つまり先生は「口付けさえも、他人を認識する五感の一つである」と言いたいようです。

 なんというか、先生の言いぐさにはまるで浪漫ロマンがありません。


「このように、人は五感で認識して初めて、存在を知覚できる。では、幽霊とはなんだ。視覚に感じ取れないものが“いる”とき、人は何を感じ、どのように認識するのか。そこに、僕はとても興味が引かれるんだ」


 なんとなく、想像がついてきました。

 目で見えないものが“いる”時、何をもって“いる”と感じるのか、と言う話なのでしょう。


「つまり幽霊といえども、五感が通常ではありえない捉え方をする存在のことであり、一つの物理現象に過ぎない、ということでしょうか」


「僕はそうにらんでいる。その現象に意志があったとしたら、それは紛れもなく幽霊と呼ばれるものだろう。

 そして、僕の鼻は通常ではありえない捉え方をすることができる。何しろ、死者の残した匂いを嗅げるくらいだからな。もちろん、死者の臭いは残り香だから、今その場にいる匂いの方が鮮烈に感じるけどね」


 私は、以前の事件を思い出しました。

皇極こうぎょく真珠しんじゅ』という、井下田いげた先生の遺作にまつわる事件。この時も、先生は『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』についた井下田いげた先生……死者の真実の意志を守るため、動いたのです。


「そんな僕ならば、幽霊の臭いなんてものを嗅げるかもしれない。実におもしろそうだと思わないか」


 先生は、どこまでも先生です。

 おっかなびっくりしている私が、馬鹿らしいような気持ちになってきました。胸をなでおろし、少しほっとします。

 その時です。どこからか、視線を感じたのは。

 後ろを振り向きますが、なにもありません。しかし、確かに感じました。染みなどではない、確実な意志を持った、“何か”の視線を。

 私は、先生のそでを引きました。


「先生」


 私が先生に向き直る頃には、既にガスマスクを取り払い、スンスンと鼻を引くつかせていました。しかし、すぐに咳き込み、またガスマスクを被ってしまいます。


「苦い臭いが強すぎるな。ある程度当たりをつけないと、それ以外の臭いの出所は探しようがない。しかし、何かがいることは間違いなさそうだ。やっぱり、幽霊かなあ。ふふふ」


「で、でも、まだ決まったわけでは……」


 嬉しそうにほくそ笑む先生。私は、幽霊と言う見解を払拭ふっしょくしたい一心で抗議します。

 いくら物理現象かもしれないという話を聞いても、よく考えたら私に捉えられない現象が存在するという恐怖は変わりません。


「いや、一つ気になっていることがあるんだ」


 なのに先生は、そんな私の心算しんさんなど歯牙にもかけず、得意げに指を立てます。

 その後の言葉を聞いた私は、さぞ絶望的な顔になっていたことでしょう。


「この屋敷のどこかから、苦い臭いを貫いて、強烈な匂いがするのさ。この屋敷を守りたいという、真実の意志の匂いがね」

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