Last:NOTE「その探偵、乾杯する」

 私は、用意していた珈琲粉に熱いお湯を注ぎ、先生と綾辻あやつじ様にお出しします。綾辻あやつじ様は軽く会釈をして、珈琲をゆるりと口に運び、一つため息を吐きました。

 その顔には、如実に疲労の色が見られます。無理もありません。

 私も以前、先生と論を交わしたことがありますが、その独特の倫理観と、決して折れない信念の強さに疲弊ひへいし、最後はこちらがヘトヘトになって終わるのです。


犬飼いぬかい探偵、あなたに依頼したのが間違いだったということですか。自分の見る目のなさが、嫌になりますね」


 目を瞑り、首を横に振る綾辻あやつじ様。その姿に、私は少し胸を痛めます。

 先生は、決して折れない信念をお持ちです。それ故に、時に容赦ようしゃなく他人を傷つけることがあります。

 推理ができない先生には、自分の意志を押し通すことが、他者を押しのけることに繋がることを、理解していません。

 けれど、それが先生です。

 真実の意思を優先し、依頼を失敗されることは、先生以外には決してできないこと。先生がすべきことは、全て果されたのです。


 ここから先は、私の仕事です。


 私は、綾辻あやつじ様の横に立ち、視線を合わせるように腰を落としました。


「そうでもないですよ。奥様は、井下田いげた先生が地下室に残した作品以外については、売買関係の全てを綾辻あやつじさんに一任するとおっしゃっておりました」


 綾辻あやつじ様が、珈琲を若干口から吹き出しました。ゲフゲフと咳き込み、目を剥きます。

先ほどよりも数倍焦ったような態度に、先生はゲラゲラと笑いを隠そうともしません。依頼人に対して、大変失礼なことです。

 

「な、な、なんですって」


「私から、奥様にお伝えさせていただきました。綾辻あやつじ様は決して善人ではありませんが、その分自分の利益を裏切ることはしない方です。あなたに作品の管理を任せれば、それは丁重に扱ってくれるでしょう、と。

 もちろん、奥様に相談せずに売却するのはよろしくありません。きちんと書面で契約を交わすよう、進言させていただきました。契約書の案文も奥様にお渡ししておきましたので、後程のちほど奥様にご確認ください。

 ちなみに奥様は、井下田いげた先生の遺作に関しては、今後もご自身で守っていきたいとおっしゃっていましたが、それ以外の作品が世界に広がることについては肯定的です。これについては、綾辻あやつじ様のビジネスチャンスと思われます」


 綾辻あやつじ様はあっけにとられています。人を刺し殺すかの如き鋭さを持った目はただ丸く開かれ、口はぽかんと開かれています。

 先ほどまで般若はんにゃの様だったその表情からはけんが取れ、今ではまるで年若い乙女のようです。


「なぜ、そんなことを」


 色々と疑問はあったのでしょうが、口から出たのはその一言だけ。

 私は、軽く目を伏せるように、こうべを垂れました。


僭越せんえつながら、その答えは綾辻あやつじ様がおっしゃっていた通りでございます。すなわち、依頼主のために働くのが、探偵の正しさだからです。

 奥様には、綾辻あやつじ様が井下田いげた先生の未発表作品を手に入れるために交わした契約のことを、委曲いきょくを尽くしてお話しいたしました。奥様ははじめ落胆らくたんされていらっしゃいましたが、それでも、今まで井下田いげた先生と奥様のために尽くしてくれた綾辻あやつじ様に感謝の念をお持ちでしたし、これからも頼らせていただきたいとおっしゃっていました。

 実際、奥様はとてもお優しい人格者ですが、それだけに人に騙されやすい一面をお持ちだと感じます。その点、海千山千うみせんやません綾辻あやつじ様が奥様の力になっていただけるならば、それほど心強いことはないでしょう」


「私が、今後も奥様のお力になるかなんて、分からないわ」


「わかります。この形をとるならば、綾辻あやつじ様にも奥様にも不利益がなく、利益があるだけです。私は、綾辻あやつじ様がこのような採算性さいさんせいの高い話をふいにする、程度の低い商売人とは思っておりません。その点では、妙な言い方になりますが、信頼させていただいております。

 それに……」


 視界の端に映る先生は、それはもう暇そうに、右手に乗せたペンをくるくると回しています。すっかり興味を無くしてしまっているようです。もちろん、それでいいんですけど。

 先生の仕事は、謎を解き、真実を見つけ、その意思を叶えることです。

 そして、その後の雑務は、犬飼いぬかい探偵事務所随一かつ唯一の所員である、この私の役目なのです。


「みんな幸せになれる方法があるなら、それに越したことはないじゃないですか」


 綾辻あやつじ様が、先ほどよりもさらに大きなため息をついて、肩の力を抜きました。


「完敗、ですね」


綾辻あやつじ様が敗北した、などと言う事実はございません。依頼を失敗したのは私ども、犬飼いぬかい探偵事務所です」


 私は、綾辻あやつじ様に正対し、深々と頭を下げました。


「この度は、大変申し訳ありませんでした」


 これにて、犬飼いぬかい探偵事務所の依頼失敗は完了しました。



* * *



「終わったかい」


 先生は、すっかり冷めてしまった珈琲を口に運び、一口飲んですぐに机に置きました。

 失礼な人です。

 綾辻あやつじ様の表情からはけんがとれ、どこか不貞腐ふてくされた女学生のような幼さが見えます。これが、綾辻あやつじ様の商売人としての仮面をいだ、素顔なのでしょうか。


「噂は本当だったんですね、犬飼いぬかい先生。変態ガスマスクで、未解決率100%の、態度の大きいヘボ探偵。依頼は必ず失敗して、依頼主の思惑と外れた解決をするという」


 その言葉には無数の棘が含まれています。けれど、なぜか不快感はありません。まるで、友人同士のじゃれ合いを見ているかのような、不思議な距離の近さを感じます。


「今度からは、わざわざ名前を間違えてくる必要はないよ。失敗したら、詐欺さぎ不正契約ふせいけいやく辺りで前金を取り返そうと思ったのだろうが、この通り僕は自分の失敗に不寛容ふかんようでね」


 先生は、机の上に放置されていた30円札を、あごで指しました。綾辻あやつじ様は、無言でお金をふところにしまいます。


「もっとも、そんなこと絶対できなかったけどね。契約書もばっちり改竄かいざん済みなので、悪しからず」


「あなた、本当にむかつくわ」


「ありがとう。褒め言葉だ」


 綾辻あやつじ様が、すそを払って立ち上がりました。

 私は玄関口で、帽子掛けにかけられていた綾辻あやつじ様の小物をお出しします。綾辻あやつじ様は、ありがとう、と柔らかい笑顔を見せながら受け取りました。

 その次の瞬間には、笑顔を皮肉っぽい、憎々しげな薄笑いに変えます。ソファーの背もたれにあごを乗せて綾辻あやつじ様を見送る先生に、振り向きました。


「それでは、名探偵様。依頼失敗ありがとうございました。この事務所の発展を願っておりますので、どうか電気などを止められることのなきよう」


「お気遣い、ありがたく頂戴ちょうだいいたします。私の心の電気は、いつでもピカピカ100ワットですので、ご安心を。愛と信頼の犬飼いぬかい探偵事務所は、またのご来訪をいつまでもお待ちしております」


「来るわけないでしょ、バーカ」


 綾辻あやつじ様は、子どものように舌を出しました。

 一瞬、時が止まりました。

 綾辻あやつじ様が勢いよく鉄扉を閉める音で、ようやく正気に戻ります。そのころには、事務所の階段をカツカツと早足で下る音だけが聞こえました。

 まさか綾辻あやつじ様が、あんな子どものようなことを。あまりの衝撃にぽかんと立ち尽くします。


「だから言っただろ。あいつ、子供ガキなんだよ」


 先生が、鼻で笑いながらソファーに深く沈み込みました。私は冷えた珈琲カップを回収し、温かいものに入れ直します。

 先生は、大きくため息をつきました。


「ああー、しかしどうするかなあ。また大家に家賃の支払いを待ってもらわないと。実際、あいつの言ったことは当たっているよ。このままでは電気が止まる」


「大家さんはお優しいですから、誠心誠意せいしんせいい頼み込めば、なんとか」


「とは言え、既に3か月は待ってもらっているからなあ。何だったら、今のうちに『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』を売り払ってしまうか。何せ、人類芸術の進歩に寄与きよする大作だ。家賃1年分くらいにはなるんじゃないか」


 先生は大きな笑い声を上げますが、私は少し背筋が冷えました。冗談なのはわかっていますが、本気で言っている可能性も捨てきれないお方です。

 私は、先生の分と、私の分。二人分の珈琲を、机の上に置きました。


「それでは先生、お疲れ様でした」


「ああ、ありがとう。お疲れ様」


 珈琲カップで、チンと鳴らして乾杯かんぱいをします。

 これが、犬飼いぬかい探偵事務所で一つの事件が終わったことを意味する、儀式のようなものでした。

 こうして、私たちの『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』をめぐる事件は終わりました。



 読者の皆様にどれほど伝わったかはわかりませんが、私はこのように、並外れた能力を持ちながら、子どものように笑い、真実を何よりも大切にする先生を、心から尊敬しております。

 今後も、先生のご活躍を皆様にお届けできればと思いますので、また筆を取ることがありますれば、どうぞよろしくお願いいたします。

 また、何か困ったことがありましたら、お気軽に犬飼いぬかい探偵事務所をご来訪ください。

 依頼は必ず失敗しますが、あなた様も予想だにしない解決を提供させていただきます。


 それでは、よしなに。

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