7:NOTE「その探偵、失敗する」
『
先生は、
私もまた、これからいらっしゃるお客様にお出しするため、珈琲粉をカップに入れ、お湯を沸かすなど、応接の準備を進めておりました。
人と話すのが苦手な先生ですが、依頼完了の報告だけは、先生から依頼主に説明を行います。それが、探偵としての最低限の務めだと、先生はおっしゃいます。真実を話すことができるのは、真実を嗅ぐことができる自分だけだと。
コンコンと、事務所の扉がノックされました。どうぞ、と声をかけると、扉がゆっくりと開きます。
「やあ、どうも。わざわざ来てもらって、すまんね」
「いえ、『
しかし、そのお顔は紅潮し、若干ながら息を荒げております。いかにも興奮冷めやらぬ、と言った様相でした。
「それで、『
「ふん。そのことなんだがね」
先生は、
先生は、右手を胸に当てゆっくり頭を垂れます。
ガスマスクの下では、にやりと笑っていることでしょう。
「弁明の余地もない。この依頼は、完全な失敗だ」
「……ご説明を、お願いします」
しかし、そんな
「いや、簡単な話さ。あの作品は、誰がどう見たって、
名声のためでも、金のためでもない。ただ、
この世で最も大事なのは、意思だ。だから、あの作品は
「であれば、私から奥様にお渡しすればよろしいでしょう。何故、今この場で私の依頼を
「いやあ、だってねえ。あんた、
先生は、
先生の動作を見下すように追っていた
それは、一枚の契約書でした。
「信頼は、実に
「これを、一体どこで手に入れたの」
「拾ったんだよ。たまたまね」
当然、嘘です。
先生は、『
「なるほど。こんな契約書があるんじゃあ、自分で依頼に来るわけだ。不思議に思っていたんだよ。何故、
これはただの後付けでしかありません。先生にとって最も信頼がおけるのは、
先生は、推理が苦手です。だからこそ、匂いと言う真実に
「これでは、
なので、あの品はいったん僕が所有者として申告させてもらった。現在は、
「ふざけないで」
しかし、このような
先生の鼻の前に、仮面など無力なのです。
「あなたを、窃盗の犯人として訴えます。後悔は、牢屋の中でするといいわ」
「いやあ、そいつは無理だね。先ほど申し上げた通り、僕は拾ったんだ。盗んだというならその証拠がないと、良くて不起訴、悪くて告訴不受理だろうよ。
何なら、
「しゃあしゃあと」
カラカラと笑う先生を
「仕事を放棄した上で、その
いますぐに、これまでの
賢明な判断をしなさい。これ以上、私を怒らせないことです」
しばしの沈黙の後、先生がガスマスクを取りました。少し鼻を動かした後、くつくつと笑います。
「ふん。そんなことをする気もない癖に、よく言うよ」
先生は、自信に満ちた表情で、堂々と言い放ちました。
先生相手へのブラフは、先生の鼻がある限り、意味を成しません。先生はガスマスクを外して匂いを嗅ぐことで、
しかし、
「確かにあんたならば、何も証拠を残さないような連中を雇うことは可能だろう。
しかし、そういった連中を使ったという事実だけでも、クリーンな商売人で通っているあなたにとっては、『
「メンツと言うのは、
「僕を、脅しているつもりかい。刺す気もないナイフをちらつかせて」
「そう解釈して頂いても結構です。刺す気がないかどうかは、いずれわかることですから」
「僕を、
先生の、怒りに満ちた
「探偵とは、真実を追求するために動くのだ。その真実が存在する意味に耳を傾けなければ、それはただの
僕自身の倫理に外れた行動をとった時、直ちに僕は死ぬのだ。誰が、金や保身などの為に真実を裏切るものか。
先生は、脅迫されたことに怒ったのではありません。脅迫ごときで、先生を
先生にとって、真実のためならば、社会倫理や法など何の価値もありません。自分が世間的に
ある意味では、あまりにも純粋な人間性と言えましょう。
「あなた自身や、かわいい助手さんを害すことになっても、あなたはあなたの倫理観を貫くというのですか」
「ご心配なく。僕自身も
先生は、ある種の狂人です。自らの信念に全生命を預けることなど、普通はできません。
ですが、先生はできるのです。人並み外れた能力に裏打ちされた自信と、信念と共に準ずる覚悟を、常に持っているから。
そんなもの、狂人と言わずしてなんと言いましょうか。
「『
例え僕が数え切れないほどの間違いを犯して、志半ばに倒れたとしても、『
「あ、あなたは」
それとも、話の通じない狂人に対する恐怖でしょうか。
「あなたは、依頼人を、仕事と言うものを、なんだと思っているのですか」
職業倫理の話にシフトしたのは、
しかし先生は、そんな
「ふん。確かに、依頼主のために働くというのが、探偵という仕事の正しさなのだろうな。だが、覚えておけ」
先生は、
「真実は、正しきを挫く」
先生は、ケホケホと咳き込みながら、ガスマスクを装着します。私を
「
これが、事実上の決着の合図でした。
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