7:NOTE「その探偵、失敗する」

皇極こうぎょく真珠しんじゅ』を見つけてから、2日後。

 先生は、犬飼いぬかい探偵事務所の応接間に鎮座ちんざするソファーに、相も変わらず浅く腰を掛け、足を組んで座っていました。ガスマスクをつけた上、マスクを少しずらして煙管キセルを吸いながら、ぼんやりと天井を仰いでいます。

 私もまた、これからいらっしゃるお客様にお出しするため、珈琲粉をカップに入れ、お湯を沸かすなど、応接の準備を進めておりました。

 人と話すのが苦手な先生ですが、依頼完了の報告だけは、先生から依頼主に説明を行います。それが、探偵としての最低限の務めだと、先生はおっしゃいます。真実を話すことができるのは、真実を嗅ぐことができる自分だけだと。

 コンコンと、事務所の扉がノックされました。どうぞ、と声をかけると、扉がゆっくりと開きます。

 綾辻あやつじ美里みさと様が、来訪されました。


「やあ、どうも。わざわざ来てもらって、すまんね」


「いえ、『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』が見つかったとあれば、当然です。しかも、依頼からまだ4日と経っていないのに。報酬は、ふんだんに色を付けさせていただきますね」


 綾辻あやつじ様は、前回と同じように、私が引いた椅子に、たおやかに座りました。その姿は、落ち着いた淑女しゅくじょそのものです。

 しかし、そのお顔は紅潮し、若干ながら息を荒げております。いかにも興奮冷めやらぬ、と言った様相でした。


「それで、『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』は、今どこに」


「ふん。そのことなんだがね」


 先生は、ふところに手を入れ、掴みだした30円札を、どさっと机の上に放り投げました。

 綾辻あやつじ様の表情が固まります。理解できないご様子で、先生と30円札を何度も見比べました。

 先生は、右手を胸に当てゆっくり頭を垂れます。

 ガスマスクの下では、にやりと笑っていることでしょう。


「弁明の余地もない。この依頼は、完全な失敗だ」


「……ご説明を、お願いします」


 綾辻あやつじ様は、その丸く大きな目を細め、先生を静かに見据みすえました。室温が下がったかのような冷たい視線に、はたから見ているだけでもぞっとしてしまいます。

 しかし、そんな綾辻あやつじ様と対峙している先生は、飄々ひょうひょうとした態度を全く崩しません。笑いながら、手を大きく上げます。


「いや、簡単な話さ。あの作品は、誰がどう見たって、井下田いげた氏から井下田いげた夫人にささげられたものだ。

 名声のためでも、金のためでもない。ただ、井下田いげた夫人のためだけに作られた、井下田いげた氏渾身の傑作。素晴らしい話だろう。あの作品には、井下田いげた氏から井下田いげた夫人に対する、意思があった。愛という、意思がね。

 この世で最も大事なのは、意思だ。だから、あの作品は井下田いげた夫人に渡すべきものさ。あんたに渡すことはできない。それ故に、この依頼は失敗だ」


「であれば、私から奥様にお渡しすればよろしいでしょう。何故、今この場で私の依頼を破棄はきされるのですか」


「いやあ、だってねえ。あんた、井下田いげた夫人に作品を渡す気がないだろう」


 先生は、ふところから一枚の紙片を取り出し、机に広げました。

 先生の動作を見下すように追っていた綾辻あやつじ様は、その紙片が何なのかを理解した瞬間、目を見開きました。

 それは、一枚の契約書でした。

 綾辻あやつじ様と奥様の署名がなされた契約書。内容は非常に言葉を尽くして難解なんかいに書かれていますが、かいつまんで言えばこういうことです。

 井下田いげた先生の作品の中で、まだ世間に発表されていないものが発見された場合、所有権は綾辻あやつじ様に帰属する。


「信頼は、実に得難えがたい財産だ。井下田いげた夫人から、内容を理解しない書類にサインをもらうほどの信頼を得るのに、あんたがどれほど尽力じんりょくしたのか。僕には見当もつかないな」


「これを、一体どこで手に入れたの」


「拾ったんだよ。たまたまね」


 当然、嘘です。

 先生は、『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』を見つけた次の日、つまり昨日。綾辻あやつじ様のお屋敷に忍び込んで、この契約書を手に入れたのです。

 綾辻あやつじ様のお屋敷は相当に警備が厚かったようですが、先生曰く、「袋の中から物を取り出すくらい、造作ぞうさもないことだった」そうです。


「なるほど。こんな契約書があるんじゃあ、自分で依頼に来るわけだ。不思議に思っていたんだよ。何故、井下田いげた夫人の代理人としてではなく、綾辻あやつじ美里みさととして僕に依頼をしたのか。

 井下田いげた夫人の依頼ということにすれば、経費なんかは井下田いげた夫人持ちだ。それをわざわざ肩代わりするというのは、少し気になった。調べてみれば、どんぴしゃりだ」


 これはただの後付けでしかありません。先生にとって最も信頼がおけるのは、綾辻あやつじ様から『欲深く聡明』な匂いがしたという事実であり、そんな匂いのする方が、『人類の未来のため』に実費じっぴを出すとはとても思えないという不信感だからです。

 先生は、推理が苦手です。だからこそ、匂いと言う真実にもとづいた行動には、迷いがありません。推理が苦手ということ自体が、先生の強みでもあるのです。


「これでは、井下田いげた夫人に『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』をお渡しするわけにはいかない。その時点で、あんたのものになってしまうわけだからね。

 なので、あの品はいったん僕が所有者として申告させてもらった。現在は、井下田いげた夫人に『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』を貸与たいよしている状態だ。あんたが、先の契約を無効にする手筈てはずを整えた段階で、井下田いげた夫人に『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』他もろもろの作品をお返しするつもりだよ」


「ふざけないで」


 綾辻あやつじ様は、契約書をひったくりました。その顔を見て、私は息を飲みます。先ほどまでのたおやかな淑女の仮面ががれ、怒りと憎悪の炎が燃えた、般若はんにゃの如き表情。これが、綾辻あやつじ様の商売人としての、真のお姿なのでしょうか。

 しかし、このような豹変ひょうへんを見てなお、先生はおどけて肩をすくめます。まるで、驚いた様子はありません。先生には、綾辻あやつじ様にこのような一面があることなど、合切承知がっさいしょうちなのでしょう。

 先生の鼻の前に、仮面など無力なのです。


「あなたを、窃盗の犯人として訴えます。後悔は、牢屋の中でするといいわ」


「いやあ、そいつは無理だね。先ほど申し上げた通り、僕は拾ったんだ。盗んだというならその証拠がないと、良くて不起訴、悪くて告訴不受理だろうよ。

 何なら、邸内ていないの監視カメラでも何でも調べてみるといい。僕は絶対に映っていないと、100%断言できる。指紋も足跡も、期待しない方が良い」


「しゃあしゃあと」


 カラカラと笑う先生を威嚇いかくするかのように、綾辻あやつじ様が机に手を叩きつけました。

 清閑せいかんな事務所に響き渡る轟音ごうおん。私はびくっと肩を震わせましたが、先生はそんな私を一瞥いちべつもせず、ゆっくりと組んでいた脚を外しました。


「仕事を放棄した上で、その不遜ふそんな態度。あまつさえ、依頼人に弓を弾くなんて。警察なんて、関係あるものですか。私にかかれば、この事務所を一夜にして灰にすることもできるのですよ。そう、ちょうどあなたと同じように、一切の証拠も無く、ね。

 いますぐに、これまでの失礼至極しつれいしごくな態度を謝罪し、『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』を渡しなさい。ならば、あなたの無礼はこの場限りのこととしましょう。

 賢明な判断をしなさい。これ以上、私を怒らせないことです」


 綾辻あやつじ様の、害虫を見下すか如き冷酷な目。そこには、いくつもの修羅場を潜ってきたことが容易に想像できるような、凄みがありました。

 綾辻あやつじ様の手法は、確かにあくどいものと言えましょう。しかし、そうやって生き抜いてきた綾辻あやつじ様には、生半なまなかな極道ですら一蹴されてしまいそうな、確かな迫力がありました。

 しばしの沈黙の後、先生がガスマスクを取りました。少し鼻を動かした後、くつくつと笑います。


「ふん。そんなことをする気もない癖に、よく言うよ」


 先生は、自信に満ちた表情で、堂々と言い放ちました。

 先生相手へのブラフは、先生の鼻がある限り、意味を成しません。先生はガスマスクを外して匂いを嗅ぐことで、綾辻あやつじ様の真実の意思を嗅ぎ取ったのでしょう。

 しかし、綾辻あやつじ様は少なくとも表面上一切動揺することなく、険しい表情で先生を見つめ続けます。


「確かにあんたならば、何も証拠を残さないような連中を雇うことは可能だろう。

 しかし、そういった連中を使ったという事実だけでも、クリーンな商売人で通っているあなたにとっては、『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』と天秤てんびんにかけられないほどの不利益だ。信頼は、財産だからね」


「メンツと言うのは、天秤てんびんにかけられないものなのですよ。顔に泥を塗られたら、塗った相手をきちんと排除しないと、また泥を塗ってもいいと思うやからが出ますからね」


「僕を、脅しているつもりかい。刺す気もないナイフをちらつかせて」


「そう解釈して頂いても結構です。刺す気がないかどうかは、いずれわかることですから」


「僕を、めるな」


 先生の、怒りに満ちた極黒ごくこくひとみ綾辻あやつじ様を見据えます。綾辻あやつじ様の瞳に、一瞬動揺が生まれました。


「探偵とは、真実を追求するために動くのだ。その真実が存在する意味に耳を傾けなければ、それはただの傲慢ごうまんになる。だから探偵は、己の心に刃を突きつけなければならない。倫理観と言う、刃を。

 僕自身の倫理に外れた行動をとった時、直ちに僕は死ぬのだ。誰が、金や保身などの為に真実を裏切るものか。貴様如きさまごときの物差しで、僕をはかるな」


 先生は、脅迫されたことに怒ったのではありません。脅迫ごときで、先生を懐柔かいじゅうできると思っていた綾辻あやつじ様に、憤怒ふんぬしたのです。

 先生にとって、真実のためならば、社会倫理や法など何の価値もありません。自分が世間的におとしめられようがどうということはないし、手を汚すことも一切いといません。たとえ自分が危険な目に合ったとしても、知ったことではないのです。

 ある意味では、あまりにも純粋な人間性と言えましょう。


「あなた自身や、かわいい助手さんを害すことになっても、あなたはあなたの倫理観を貫くというのですか」


「ご心配なく。僕自身も薄雪うすゆき君も、僕が守る。必ずね。僕には、それだけの力がある」


 先生は、ある種の狂人です。自らの信念に全生命を預けることなど、普通はできません。

 ですが、先生はできるのです。人並み外れた能力に裏打ちされた自信と、信念と共に準ずる覚悟を、常に持っているから。

 そんなもの、狂人と言わずしてなんと言いましょうか。


「『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』に託された、井下田いげた氏の真実の意思は、井下田いげた夫人と共にありたいと僕に訴えていた。僕は、決してそれを裏切らない。

 例え僕が数え切れないほどの間違いを犯して、志半ばに倒れたとしても、『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』は決してあなたの手に下ることはない。それが、僕の誇りだ」


「あ、あなたは」


 綾辻あやつじ様は、ひとみを惑わせ、くちびるを震わせます。その震えは、怒りでしょうか。

 それとも、話の通じない狂人に対する恐怖でしょうか。


「あなたは、依頼人を、仕事と言うものを、なんだと思っているのですか」


 職業倫理の話にシフトしたのは、賢明けんめいと言えましょう。先生に対して、懐柔かいじゅうも脅迫も無駄です。ならばあとは、探偵という職業の倫理を持って、先生に訴えるしかありません。

 しかし先生は、そんな綾辻あやつじ様を鼻で笑います。


「ふん。確かに、依頼主のために働くというのが、探偵という仕事の正しさなのだろうな。だが、覚えておけ」


 先生は、綾辻あやつじ様を見下すように、得意げに言い放ちました。


「真実は、正しきを挫く」


 綾辻あやつじ様は、何か信じられないものを見るような目を先生に向けた後、力なくソファーに背中を預けました。

 先生は、ケホケホと咳き込みながら、ガスマスクを装着します。私を一瞥いちべつし、軽く右手を上げました。


薄雪うすゆき君。僕と綾辻あやつじさんに、珈琲をお願いしてもいいかな」


 これが、事実上の決着の合図でした。

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