6:NOTE「その探偵、恍惚とする」

 途中で手前に折れた階段の先には、一つの重々しい鉄扉がありました。先生が、持ち手を握ります。


「今度は、取れるんじゃあるまいな」


 先生が、持ち手を静かに回しました。閑寂かんじゃくな空間に、ギイギイと鉄がしなりきしむ音を立てながら、扉が奥へかたむいていきます。

 ドアの先は、温かみのあるオレンジ色の光が満ちていて、暗い階段に慣れた目が、少々くらみました。

 1階の平屋と同じくらい広い、長方形のただ一部屋。コンクリートで固められた灰色の壁には、1階と全く同じ形で、照明や調度品が取り付けられています。

 しかしその内装は、1階のまさに作業部屋と言った雰囲気ふんいきとは、一線をかくします。二人掛けのゆったりとしたソファや、背の低い机。小ぶりな葡萄酒ワインが入りそうな磁力式冷凍貯蔵庫じりょくしきれいとうちょぞうこ等が置かれ、1階に比べて随分と過ごしやすそうです

 ひときわ目を引くのは、窓が存在することです。地下室ですので、当然外など見えません。視点を90度変えれば、1階と地下1階も左右対称さゆうたいしょうです。おそらく、そのためだけに地下に窓をつけたのでしょう。もはや執念しゅうねんと言えます。

 しかし、私は奇妙きみょうな部屋の構造以上に、その部屋の中に並べられた美術品の数々に、目をうばわれていました。


「素晴らしい。井下田いげた氏は、本当に優れた芸術家だったのだな」


 先生が、感嘆かんたんの声をらしました。私も、あまりの迫力に圧倒され、呆気あっけにとられます。

 部屋には、多くの美術品が並べられていました。

 なまめかしい裸婦らふの像や、一言に収まらないような奇奇怪怪ききかいかいな形をしたオブジェなど、種類も多岐たきにわたった作品が、少なく見積みつもっても20点以上はあると思われます。それらがまるで並木通りのごとく、整然せいぜんと並べられていたのです。

 そこに置かれた作品からは、すべてにも言われぬ情念じょうねんのようなものが感じられました。裸婦像らふぞうの、なまめかしくもいつくしみのある表情から。奇怪きかいなオブジェの曲線から。ただの円筒形えんとうけいに見える柱のような美術品から。そのどれもが、たましいを震わす非凡ひぼんな感動に満ちています。

 私は、先生と違ってたましいの匂いも感じられないし、芸術に見識があるわけでもありません。しかし、その私ですら、ここに置かれた作品が、まぎれもなく傑作けっさくであることが理解できました。

 そして、作品が並べられた道の先に、“それ”はありました。


「先生、あれは」


 先生のそでを引きます。視線を向けると、先生は既にガスマスクを外し、りつかれたかのようにゆるりと歩みを進めていました。

 先生は、鼻で息を吸い込み、深く吐き出します。


「素晴らしい匂いだ」


 それは、円筒形えんとうけいの台座に乗せられた、大きな白い球でした。

 左右対称さゆうたいしょうを突き詰めれば、最後は丸に行きつくという、奥様の言葉が思い出されます。

 直径は、私の身の丈ほど。その巨大な真円は、うっすらと淡く白い光を放っていました。中に照明を仕込んでいるのでしょうか。そのような機械的な仕掛けで、これほどまで温かみのある、神々しい光を放つものでしょうか。

 噂にたがわぬ美しさ。これこそが、『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』に相違そういありません。

 私があまりの美しさに呆けている間に、先生は、興奮した様子で、真珠に鼻が付くかと思うところまで近づいていました。


「わかるか、薄雪うすゆき君。この部屋の作品からは、不純物の臭いがしない。ただ一つの、純粋な意志だけが存在する。中でも『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』は格別だ。ああ、なんということだ。こんなにも芳醇ほうじゅんな香り、めったに嗅げるものではない。いつまでも嗅いでいても飽きないぞ、これは」


 先生が、うっとりと真珠しんじゅを見つめます。鼻はせわしなくクンカクンカと動き続け、その度にとろんとした表情が、さらにだらしなく恍惚こうこつへと導かれます。

 見てれがあまり……。いえ、非常にかんばしくありません。

 完全に作品の感動から覚めてしまった私は、先生の上着を掴み、引っ張ります。


「先生。とりあえず、離れた方がよろしいのではないでしょうか。もしも、皮脂ひしでも付けば事かと思われます」


「ああ、もったいない。匂いが、匂いが」


 真珠しんじゅから引き離された先生が、名残惜なごりおしそうに目を細めました。まるで、しかられてシュンとした幼子のよう。

 若干の庇護欲ひごよくをそそられますが、だまされてはいけません。先生は、私より星の巡りが一回る程度、歳を取っているのです。私が容赦ようしゃをする必要は、ないと言えましょう。


「しかし、驚きました。私は今までそれほど彫刻に明るくなかったのですが、これほどまでに心動かされるものなのですね」


 人差指をくわえて『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』を見つめていた先生は、うすらぼんやりとした顔を私に向けて、「ああ、そうだね」と力なく首肯しゅこうしました。

これほどまでに心動かされるものなのですね。


「あまりにも純粋な愛は、全人類に通じる真実の意思だからな。誰であっても心に衝撃を与えるのだろうね」


「愛、ですか」


「ああ。この部屋には、井下田いげた氏から井下田いげた夫人への、慈愛じあいに満ちた匂いだけが充満している。井下田いげた氏は、心から井下田いげた夫人のことを思って、この作品を作ったのだろう。

 聞けば、井下田いげた氏は人間嫌いだったと聞く。口にすれば簡単なことだが、信頼できる他人がいないという孤独感こどくかんは、どれほどのものか。そして、その中に現れた井下田いげた夫人と言う存在が、井下田いげた氏にとってどれほど掛け替えのない存在だったことか。

 井下田いげた夫人こそが、井下田いげた氏の創作の源泉げんせんだったことに、疑いをはさむ余地はない。彼女に喜んでほしいという真実の意思……愛だけが詰まったこの作品。人であるならば、感動しないはずがあるまいよ」


 先生が、寂しそうに目を細めました。そして、私は一つの結論に思い至ります。


「先生。ここに並べられた作品の中で、見たことがあるものはありますか」


「いや、ない。僕は、ここに置かれた作品すべてを、見たことはない」


 先生のその言葉で、私は確信しました。

先生が見たことがないということは、すなわち、ここに置かれた作品は全て、世間に発表されたことがないということです。

もしも美術館に飾られていたり、雑誌や新聞に載ったことがあったりすれば、先生が覚えていないはずがありません。

 多額の工事費を使って作り上げられた、奥様にすら伝えていなかった隠し地下室。そこに並べられた、未発表の作品群さくひんぐん。そして、死のふちにおいて、奥様に地下室の存在を伝えようとした事実。

 そう、この地下室は。


「この部屋は、井下田いげた先生が奥様のために作った、展示場ミュウジアムだったのですね」


 井下田いげた先生は、奥様のためだけに作られたこの部屋で、晩年を奥様と共に過ごすつもりだったのでしょう。なのに、志半こころざしなかばでご逝去せいきょされてしまった。

 奇才とうたわれた芸術家が、その生涯をかけて作り上げた、妻への贈り物。死の間際に、奥様に必死に地下室のことを伝えようとした井下田いげた先生の心中は、如何いかばかりだったのでしょうか。

 しかし、感慨かんがいに浸ってはいられません。早々に、綾辻あやつじ様と奥様にこの部屋のことをお伝えし、奥様に『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』をお見せする。私たちが、逝去せいきょした井下田いげた先生にできる手向たむけは、それ以外にないのです。

 私は、努めて明るく先生にお声をかけました。


「なんにしろ、『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』を見つけられてよかったですね。これで、依頼達成です」

 

 しかし、先生は私の言葉に、黙り込んでうつむきました。あごに手を当て、眉間みけんしわを寄せます。

 それは、目的を達成した探偵と思えないほど、難し気な姿でした。


「……先生」


薄雪うすゆき君。これはだめだ」


 先生は、まっすぐに『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』を見つめます。

 そして、数度鼻をひくつかせた後、ふん、と鼻から息を吐き、ゆっくりと口を開きました


「今回の依頼は、失敗することにしよう」

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