4:NOTE「その探偵、住居侵入する」

 その後私たちは、奥様から井下田いげた先生に関するお話を3時間ほどお聞きした後、屋敷を離れました。

 奥様は、もともと彫刻家井下田いげた晋作しんさくのファンであったそうです。ファンとして、妻として、井下田いげた先生を一番近くで見守ってきた奥様だからこそ語り得る、波乱と苦労に満ちた人生を、熱を込めてお話されていらっしゃいました。

 犬飼いぬかい先生も奥様の演説えんぜつ大層たいそう心動かされていたようで、頭をガクッガクッと上下に振ったり、幾度いくどもお手洗いに立たれて何事かをうめいておられました。

 終盤には感動のあまり、「あの、その話はもうどうでもいいんで」などと口走りそうになったところで、私が肘鉄ひじてつを先生のわき腹に打ち込む場面もありました。

 何はともあれ、そのような苦労の甲斐あって、私たちは奥様の信頼を損なうこともなく、アトリエの鍵を借り受けたのです。


「ああ、腰が痛い。僕には、あの家のイスは硬すぎる」


 先生が、アトリエまでの道すがら、呑気な声を出してとんとんと腰を叩きました。

 先生ほどではありませんが、私も少し膝が固まってしまっています。ぐるぐると柔軟体操をしながら、少し傾き始めた太陽の下を、先ほどの話を先生に要約しながら歩きます。

 ぐぐっと背伸びをしながら空を見やると、3機のプロペラ飛行機が、ぶるるんと音をたてながら、帝都の空を廻っています。。連隊は、綺麗に横一直線に並びながら、華麗な宙返りを決めておりました。

 新人飛行士による、飛行バスの運転訓練研修でしょうか。このような光景を見ると、春が近づいていると感じます。


「アトリエには、何か手掛かりがあるでしょうか」


「『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』が最後にあった場所がアトリエなのだから、何かしらの痕跡は残っているだろう。少なくとも、井下田いげた夫人に“嘘の匂い”はなかった。彼女、本当に井下田いげた氏を尊敬していたようだね。欲や駆け引きのために、僕らを騙すということはあるまい」


「確かに。外見からも、見るからに善人といった風体の奥様でしたね」


「見るからに善人、ね」


 先生は、ほんの少しだけむっとしたような顔をしました。私の言葉は、何やら先生のご機嫌を損ねたようです。


「それは違うな、薄雪うすゆき君。外見なんかでは、人の人格など判断しようがない。言葉だってそうだ。口にする言葉など、いくらでも取りつくろえる。結局、匂い以上に信頼できるものなんて、この世にはないのさ」


「その価値観も、先生以外には通用しないと思います」


 歩き続けること小一時間。

 井下田いげた先生のアトリエは、東京都小石川区とうきょうとこいしがわくの外れに所在します。周辺には田畑たはたが敷き詰められ、馬や鹿を飼育していると思われる小さな牧場がまばらに建てられておりました。

 汽車きしゃから出る黒煙こくえんが、遠くにうっすらと見えます。小規模丸型飛行機停留所しょうきぼまるがたひこうきていりゅうじょなども付近にはなく、交通の便は良くはなさそうです。見るからに、土地価が安いところといった様相でした。

 そこに建てられた平屋建てのアトリエは、左右が対象であること以外は、見た目の構造に取り立てて変わったところはありません。しかし、その外壁は建物の中心を起点に、赤と青の二色で真っ二つに塗られており、井下田いげた先生が芸術家であるということを思い起こさせるような作りになっていました。

 犬飼いぬかい先生は、大げさに額に手を当て、ふらふらと頭を振りました。


「これが、感性の違いってやつなのかね。目が痛くなるだけのように思うのだが。僕のような凡人には、芸術なんてのは理解できないのだろうか」


「私は、嫌いではないですね」


 綺麗に整理された本棚だとか、整然と並んだビル街だとか、そう言ったものに感じる美しさと、どこか似ている気がします。

 そもそも私からすれば、日常的にガスマスクをつけ続けている先生も結構なものだと思いましたが、それは言わぬが花なのでしょう。

 私は、玄関に歩みを進め、重そうな木製の片扉に、夫人から預かった鍵を差し込みました。


「おや」


 奥まで行かず、妙に手前で止まった鍵は、左右に回そうともうんともすんとも言いません。


「どうした、薄雪うすゆき君。鍵が回らないのかい」


「ええ。この鍵、鍵穴と合いません」


 よく見れば、鍵穴と鍵は、中腹からの大きさが明らかに違います。

 おそらく、奥様が間違えて渡してしまったのでしょう。先生の鼻は確かです。わざわざこのような嫌がらせをする人では、ないでしょうから。


「仕方ないですね、先生。一度お屋敷に戻って、本物の鍵を受け取りに行きましょう」


 私は扉に背を向け、元来た道を戻ろうとします。

 しかし、先生はそんな私を横目に見やり、無言で扉の前まで歩みを進めました。


「先生」


 私が、振り向きざまに先生を見た、その時でした。

 先生は、ゆっくりと右手を持ち上げ、鍵穴に手を近づけました。数瞬、少しばかり肩を揺すりますと、カチン、と甲高い金属音がしました。

 そして、開くはずのないアトリエのドアが、ギギギギと重たい音をたてながら、その口を開けたのです。

 先生は、目を丸くする私に、事もなげに声をかけました。


「さて、入ろうか薄雪うすゆき君。」


「いやいやいや、先生。また、勝手に開けましたね」


 鍵を使わず、針金を鍵穴に差し込み開錠する技術、“ピッキング”は、先生の得意技の一つです。探偵業には大変便利なのだと普段からおっしゃっており、簡単な鍵であればものの数秒で開けてしまいます。

 ですが、鍵のかかっている場所を勝手に開けるのは、当然に犯罪です。


「せっかく鍵をお借りできるんですから、奥様から鍵を受け取ってきた方がいいと思います」


「全く、相変わらず薄雪うすゆき君は頭が固すぎるな。前から言っているだろう。この世で最も大事なことは、形式ではない。人の意思だ」


 先生は開けたドアを閉めるでもなく、そのまま入っていき、靴を脱ぎながら言いました。


井下田いげた夫人は僕たちにこの家の鍵をたくし、僕たちはそれを行使する意思がある。重要なのは、それだけだ。手元に鍵があるかどうかは、大した問題ではないのさ」


 こうなると、先生には何を言っても無駄です。

 確かに奥様から許可は受けているので、一応罪に問われることはないと思います。私は渋々、井下田いげた先生のアトリエへと入っていきました。



 室内は先ほど奥様から聞いた通り、平屋を丸ごとち抜き、大きな一つの広間になっているようでした。

 白い壁の一部にエスニックながらの壁紙が貼られていたり、作りかけの作品や、彫刻ちょうこくの作成に使うであろう道具が無造作に置かれています。

 何よりも特徴的なのは、室内もやはり左右対称さゆうたいしょうであるということでした。作業用の道具などは当然ある程度雑然ざつぜんとしていますが、壁に取り付けられている調度品ちょうどひんや、柱、窓、扉の構造などは、入口扉を中心として、全てが左右対称さゆうたいしょうになっていたのです。

 

「ここまでくると、執念ですね」


「実家を改装したなどという話だったが、これはほぼ新築しんちくだな。確かに、『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』がないことなど、一目でわかってしまう」


 素足でペタペタとフローリングの床を歩き、私と先生はアトリエの中に踏み込みました。

 アトリエの構造を調べると、ここはまさに1部屋しかないと言える家屋でした。

 寝室もなく、部屋の隅っこにざつに毛布が数枚置かれているだけ。入口扉から見て、両側の壁に取り付けられた扉も、片方はお手洗い、片方は風呂場であり、余計なスペースはありませんでした。強いて言うなら、構造を左右対称さゆうたいしょうにするために、お手洗いが浴室と同じくらい広いということくらいでしょうか。


「奥様が言うには、作品は完成したものから自宅に運び込んでいたという話でしたね」


「なるほど、ここに置いてある作品が少ないのはそのためか。ふむ。井下田いげた氏は、一体どこに『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』を保管したのか」


 先生が、あごに手を当て思索しさくを始めます。私も合わせて、壁にもたれかかりました。私は目をつむり、思考の深みへと潜ります。

 暗闇の中、私しか存在しない空間で、ふところから想像のそろばんを取り出し、たまを揃えました。これが、私にとって最も落ち着く思考方法です。


「願いましては」


 ぼそりと、呟きました。




 まず、井下田いげた先生本人が、『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』を持って外出し、どこかに隠したという可能性。これは、現時点では考慮こうりょしない。

 奥様の話によると、井下田いげた先生のくつの位置は変わっていなかった。井下田いげた先生がわざわざ靴を履かずに外に出る理由が見当たらない。奥様の勘違いの可能性は、ここでは一度排除する。

 ぱちと、そろばんのたまが一つ鳴る。


 次に、誰かに『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』を運ぶことを依頼いらいし、どこかに隠してもらった可能性を考える。しかし、井下田いげた先生は人間不信にんげんふしん気味であり、作品を自宅に運ぶ時も常に決まった業者しか頼まず、必ず井下田いげた先生自身と奥様が立ち会っていた。これも、可能性は低い。

 ぱちと、そろばんのたまが一つ鳴る。


 ならば、『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』はやはり、このアトリエの中にある可能性が高い。では、それはどこか。私は、奥様から聞いた井下田いげた先生の話を思い出す。


重機屋じゅうきやさんなんかも入って、随分ずいぶん大掛かりな改装をしていました』

 この建物は、実家を改装してち抜いたという。しかし、室内の改装に、重機屋じゅうきやは果たして必要だろうか。


『地震が起こった時、凄くアトリエのことを気にしていましたわ。地震があるたびにソワソワして、アトリエは大丈夫か、と』

 作品は大丈夫か、ならばわかる。しかし、その対象がアトリエと言うのもおかしな話だ。このアトリエ全体が、揺れに弱いのか。それは、何故か。


『救急車の中でうわ言のように呟いていましたわ。“しか”だか、“いか”だか……』

 改装に重機屋じゅうきや。揺れに弱いアトリエ。そして、“しか”。


 最後のたまが、弾かれた。




「ご破算です」


 目を開き、意識が浅瀬あさせへと浮かび上がります。脳を使ったからか、少し頭がくらくらします。先生に向き直りました。


「先生。井下田いげた先生は、もしかしたら……」


「ふむ、君もわかったかね、薄雪うすゆき君。僕も今ちょうど、結論に達したところだよ。井下田いげた氏が、どこに『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』を隠したのか。既知きちの情報を整理すれば、簡単な話だったのだ」


 先生が、私の言葉に被せるように、声をはずませます。遅かった。私はついつい、そう思ってしまいました。

 先生は、意気揚々いきようようと右手の人差指を窓へと突き付けました。


「『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』は、鹿が持って行ったのだ」


 ただでさえくらくらする私の頭に、さらなる痛みが襲いました。

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