3:NOTE「その探偵、灰皿で遊ぶ」

「ええと、犬飼いぬかい探偵様で、よろしいのですよね」


 井下田いげた先生の奥様は、特別にあつらえたのでしょう、シックながらに質のいい布を使った上物の着物で、私たちの前に現れました。ゴチック風の内装が施された客間で、ソファーに並んで座る私と先生に、不審げな視線を向けます。

 探偵と名乗って現れた客人がガスマスクをつけていたら、それはそうだろうと思います。


「申し訳ありません、奥様。先生は気管支炎きかんしえんわずらっておりまして、ガスマスクが手放せないのです」


「ははあ、それはそれは。ご苦労なさっているんですねえ。本日は、わざわざご来訪いただきまして、ありがとうございます。綾辻あやつじさんに、ご高名な探偵様とお聞きしておりますよ」


 奥様が、深々と頭を下げました。この程度の説明で納得してくださる方は、まれです。私は、ほっと胸をなでおろします。

犬飼いぬかい先生はもちろんどこ吹く風で、浅くソファーに腰かけながら、机の上に置かれていたガラス製の灰皿をくるくると弄んでいました。

 私たちは、綾辻あやつじ様が帰ってすぐに、『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』が置かれていたというアトリエを調査すべく、アトリエの鍵をお借りするため、井下田いげた先生の奥様に連絡を取りました。

 また、『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』を見たのは、奥様だけですから、何はなくとも奥様からお話を聞かなければなりません。

 ですが、綾辻あやつじ様との会話でもお分かりのとおり、先生は人との会話が滅法めっぽう苦手です。ですから、このような対人折衝たいじんせっしょうを主に進めるのは、助手である私の役目です。


「おめのお言葉、ありがたく頂戴ちょうだいいたします。犬飼いぬかい先生も、この通り喜ばれております」


「ん……? や、どうも」


 先生は、奥様に顔も向けずに、灰皿をもてあそびながら気のない返事をしました。

 先生には、最低限私が話を振った時は、適当でも何でもいいので反応を返すよう言い含めております。これは、私たちが人から話をうかがうときの、基本スタイルでもあります。


綾辻あやつじ様からも、丁重なご挨拶あいさつたまわりました。奥様は、綾辻あやつじ様とは懇意こんいにされていらっしゃるのですか」


「ええ、主人の死後、作品の売買などについて、何かと力になってもらっております。多くの美術商さんがいらっしゃっているのですが、その中でも綾辻あやつじさんは幾度いくども足を運んでくださいまして、公私ともに色々なご助言をしていただいておりますの。

 綾辻あやつじさんは大変な才女ですから、ご助言はいつも的確でしてねえ。書類関係も全く不備ふびがないもので、最近はほとんど内容を見ずにサインだけさせていただいておりますの」


 ほほほ、と奥様は口元を隠して笑いました。

 それは、少し危ないことなのではないかとも思いますが、他人の信頼関係に苦言をていすのも、野暮やぼというものなのでしょう。

 井下田いげた先生のご自宅は、大変豪奢ごうしゃなお屋敷でございました。綾辻あやつじ様のお話では、井下田いげた先生の評価は没後ぼつご跳ね上がったということでしたが、生前からご活躍されていたことは疑いようがありません。

 しかし、それに対して井下田いげた先生の奥様は、決して格式高いお方という印象ではなく、住宅街の一角に住むご婦人のような、昼下がりの日溜まりのような優しさを持つお方でした。


「奥様は、ご主人の生前に一度、『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』をご覧になられたと聞いています。警察にも何度かされていると思いますので恐縮ですが、その時の話を聞かせていただいてもよろしいでしょうか」


 ガスマスクをずらして紅茶を飲む先生を横目に、私は奥様に問いかけます。奥様は、ほほに手を添え、目を細めました。


「ええ、ええ。あれは、大変美しいものでした。私の体ほどもある、大きな白い、まあるい彫刻。主人は、左右対称さゆうたいしょうと言うものにこだわっておりましたから、最後に行きついたものは、丸だったのでしょう。

 どのように作ったのか、あわく光って……。今でも目に焼き付いておりますわ」


「それを見たのが、アトリエだったのですね」


「ええ、ええ。そうです。アトリエは、主人の実家である平屋を改装したもので、この家からかなり離れたところにあるのですけど。

 あの日、主人は朝からアトリエにこもっていたんです。夜の8時くらいだったかしら。突然帰ってきて、見せたいものがあるからすぐに来てくれ、と。

 もう夜も深まっていたのに、手を引っ張られて、小一時間かけてアトリエまで。ふふふ、あの人、子どもっぽいところがあるから」


 子どもっぽいところと言う言葉を聞いて、ついつい隣に座る先生に目線が行きました。そう言えば私も、先生に「ものすごく大きいアリの巣があったぞ」と言われ、安孫子町あびこちょうの外れまで手を引かれたことがあります。


「ん。なんか、言った方がいいかい」


「いえ、大丈夫です。先生は、引き続き灰皿で遊んでいてください」


「これ、もう飽きたよ」


 不満げな声をらす先生を放置して、奥様に向き直ります。


「アトリエまで小一時間とは、また随分遠いですね」


「ええ、ええ。主人が小さなころから暮らしていた実家でして、思い出が詰まっていたそうです。だから、どうしてもそこをアトリエにしたいと。滅多めったなことではわがままを言わない、土を触らせておけば満足する人だったのに、それに関してだけはゆずりませんでしたのよ。

 最初は元の間取りのまま使っていたのですけど、7,8年程前かしら。主人が突然、このアトリエも自分の作品にしたいと言い出しましてねえ。重機屋じゅうきやさんなんかも入って、随分ずいぶん大掛かりな改装をしておりました。

 お二人は、この後アトリエに行かれるのでしょう。一目見れば、すぐわかりますわよ」


 そう言って、口元を押さえてコロコロと笑う姿は、まるで年頃の女学生の様です。歳にすれば熟年じゅくねんと言って差し支えない方ですが、気難きむずかしさは全くありません。最初の印象通りにかわいらしい方の様です。

 奥様は、「あらやだ、いけない」と照れくさそうにほほに手を当て、お茶を一口すすりました。


「話がれましたわね。それで、主人に手を引っ張られてアトリエまで行き、『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』を見せてもらったんですの」


「そしてその夜、奥様はご自宅に帰られたと伺っています」


「ええ、ええ。主人は、もう少し仕上げをしたいから、帰って寝ていてくれと言っておりましたわ。自分が連れて来たのに、本当に勝手な人です。まったくもう」


 奥様の笑顔がかげり、視線が地に落ちました。

 奥様と別れた後、井下田いげた先生がどうなったか、私も新聞などで存じております。どのようなお言葉が、今の奥様には必要でしょうか。私も言葉をあぐねて逡巡しゅんじゅんし、数瞬沈黙ちんもくが落ちます。

 重苦しい空気の中、先生が灰皿をことりと置きました。


「そして、井下田いげた氏は死んだんだね」


 奥様が、うつむいたまま唇を噛みます。

 私は、思わず先生を見やりました。しかし、先生は先ほどまでと打って変わって、足を正し、背筋を伸ばしています。その顔色はガスマスクの所為せいうかがえませんが、おそらくはまっすぐに奥様を見つめているのでしょう。

 先生は、人との会話が滅法めっぽう苦手です。しかし、感情の機微きびにはひどく敏感なお方です。だからこそ、自ら言葉を発したのでしょう。

探偵である以上、誰かを傷つけることもあります。ならば、その役目は自分がになおうと。先生は、そう考えるお方です。

 奥様が、目に薄く涙を溜め、ゆっくりと顔を上げました。

 胸がキュッと、締め付けられました。私の母と同年代の方の涙は、心臓に悪いです。


「日が回っても帰ってこないので、おかしいと思いましたわ。アトリエを見に行ったら、玄関の前で倒れている主人を見つけましたの。その時は、まだ息をしていたのですが、救急車の中で旅立ちました」


 奥様は「申し訳ありません」とらし、ハンカチーフで目を拭いました。先生は、変わらずその姿を見つめ続けます。

 私はといえば、こんな時なんとお声をかければいいのかわからず、聞こえるか聞こえないかわからないような声で「ご愁傷様しゅうしょうさまです」とつぶやき、頭を下げるしかありませんでした。


「その後……確か、3日くらいったかしら。葬儀そうぎがひと段落した後、遺品の整理をするため、アトリエの掃除をしたのです。もちろん多くの作品が置かれていたのですが、不思議なことに、『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』がどこにもなかったのです」


 先生は、自分の役目は終わったとばかりに、また背もたれに深く沈み込みました。私は、奥様に質問をします。


「アトリエ以外に、作品を保管できる場所はありませんか」


 奥様は、ゆっくり首を横に振りました。


「ええ、ええ。ないと思います。それに、主人は靴を脱ぎ散らかす癖があるのですが、私が2回目にアトリエを訪れた時、靴は前に来た時と同じように散らかっておりましたわ。靴箱に引っかかって斜めになっていたので、よく覚えています。ですから、主人はアトリエを出ていないはずですわ」


「盗まれた、という可能性もないと考えてよろしいですね」


「主人が倒れているのを発見した時は、鍵がかかっておりましたし、主人が亡くなってからは、宅の使用人がアトリエに常駐じょうちゅうしておりましたの。窓が割れている様子などもなかったので、盗まれたというのも考えづらいですわ」


「それでは、ご主人の様子で、何か気になるところはありませんでしたか。アトリエと、真珠にまつわることでなくても、どんなことでもよろしいのですが」


「気になることですか」


 奥様が、困ったように息を吐きました。


「そうねぇ。強いて言うなら、地震が起こった時、とてもアトリエのことを気にしていましたわ。地震があるたびにソワソワして、アトリエは大丈夫か、と。ふふ、子どもみたいでしょう。アトリエに業者さんを入れてからは、落ち着いていたんですけどね。

 あとは、左右対称さゆうたいしょうにすごくこだわっていましたわね。これは、作家性でもあるのでしょうけど。ああ、あと……」


 奥様は、少し物憂ものうげな視線を彷徨さまよわせた後、私に向き直りました。


「主人は亡くなる直前に、何かうわ言のようにつぶやいていましたわ。“しか”だか、“いか”だか……。よくは、聞き取れなかったんですけれど」

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