2:NOTE「その探偵、依頼を受ける」

「まあ、どうぞ。座って」


 応接用ソファーの背もたれを押しつぶさんばかりに寄りかかりながら、先生は古びたキセルを依頼人に突き出しました。

 私は、先生とテーブルを挟んで置かれている椅子を静かに引き、本日の依頼主……綾辻あやつじ美里みさと様をうながします。


「どうぞ、こちらに」


「え、ええ。ありがとうございます」


 綾辻あやつじ様の年の頃は、25を過ぎたあたりといったところでしょうか。身長が男性のように高く、小奇麗こぎれいな桃色のワンピースがよく似あっております。言葉になまりもないので、育ちの良いお嬢様なのでしょう。

 小顔で、鼻筋はなすじもすっきり通っていて、とても整った顔をしています。大きなうるんだひとみは、見た男性を一瞬で魅了みりょうしてしまうことでしょう。

 女性の私でも、思わず見とれてしまうほどに、美しい方です。長くつやのある黒髪を夜会巻やかいまきでまとめた綾辻あやつじ様が、椅子に座るために体を揺らすと、ふうわりと華やかな香りが立ちます。

 先生が、少しガスマスクを上にずらし、すぐに元に戻しました。

 

晴賛堂せいさんどうの新作か。良い趣味だ。あそこの香水は、華やかさの中にも落ち着きがある」


 先生の何気ない一言に、綾辻あやつじ様は目を丸くしました。晴賛堂せいさんどうは決して一般的な会社ではありません。私も、社名は音声宣伝で耳にしたことはあるものの、高価なので実物を買ったことはないのです。

 男性で、しかも一瞬にして香水の種類を当てることができるのは、先生が鋭敏えいびん嗅覚きゅうかくと深い知識を持っているからこそ。綾辻あやつじ様の目が、尊敬の念に彩られていくのがわかります。

 ここで止めておけば、先生の威厳いげんは保たれたのでしょうけれども。


「何よりバカみたいに高価だから、金持ちが自分の財力を宣伝するにはうってつけだ」


 綾辻あやつじ様の表情が固まりました。すかさず、私が割って入ります。


「申し訳ありません。先生は昨日事件を解決したばかりで、2時間も寝ていないのです。少々頭が回っておりませんので、若干無礼な物言いをしてしまうかも知れませんが、ご容赦ください」


「何を言ってるんだ、薄雪うすゆき君。うちの事務所は最近暇すぎて、昨日も15時間はたっぷりと」


「そうですよね。先生」


 私は、先生の反論をさえぎるように言葉を重ねます。先生は、「あ」と一声出した後、思い出したかのように首を縦に振りました。


「ああ、そうだね。うん、そうだった」


 それだけ言って、静かにうつむきました。私との、余計なことは言わないという約束を思い出してくれたのでしょう。

 先生は他人との会話が滅法めっぽう苦手です。初めて会う人と話すときは、口数が少ない上にぶっきらぼう。口を開けば、当人が意識していないのに失礼なことを言ってしまいます。

 端的に言ってしまえば、空気が読めないのです。

 先生が依頼人の応対をすれば、たいていの依頼人は回れ右をして帰ってしまうでしょう。だから、依頼人からご依頼を聴取するのは、助手である私の最も大切な仕事です。

 私は、机に先生と綾辻あやつじ様の珈琲を置いた後、先生が座る一人掛けソファの隣に立ちました。ここが、先生の失言をカバーしやすい、私の定位置なのです。

 綾辻あやつじ様は珈琲を一口すすり、一応は平静を取り戻した様子で、ゆっくり口を開きました。


「かの『雪流ゆきながれ山荘殺人事件』を解決した、高名な塚地つかじ先生と見越して、お伺いさせていただきました」


 違います。

 雪流ゆきながれ山荘などというところには行ったことがないし、殺人事件を解決したこともありません。犬飼いぬかい先生には良い意味の高名などないし、そもそも塚地つかじ先生ではありません。綾辻あやつじ様は、完全に来る事務所を間違えてしまったようです。

 実は、こういったことは珍しくないのです。安孫子町あびこちょうは、通称探偵街と呼ばれるほど、探偵事務所が多い町です。その上、犬飼いぬかい探偵事務所は事務所名を外に掲示していないから、探偵違いで来所される方も、少なくないのです。

 そして、わざわざ訂正していたら、悪名高い先生の事務所には、なかなかお客さんが来ないのです。


「先生は、ご多忙でいらっしゃいます。ご用件は、私がうけたまわりますので手短にお願いできますか」


 否定もせず、肯定もせず。先生は若干不満そうですが、ガスマスクのおかげで表情はわかりません。非常に好都合です。

 綾辻あやつじ様は、静かに頷きました。


井下田いげた晋作しんさく遺作いさく、『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』。これを探し出して、私に渡していただきたいのです」


 綾辻あやつじ様曰く、井下田いげた晋作しんさくは明治の末期から現在に至るまで数々の風変わりな彫刻を発表した、奇才の彫刻家です。

 既存の概念にとらわれない数々の珍作、奇作を発表したため、彼の作品は大変な高値が付くものから、ただのゴミにも劣ると言われるものまで、評価にムラがありました。

 しかし、つい2週間ほど前に病気で急死してから、収集家は躍起やっきになって井下田いげた作品を集め、価値が急激に高騰こうとうしていると言います。


「芸術家は、死んでからじゃないとその価値に気づかれない。ゴッホの時から、何も変わらないんです」


 綾辻あやつじ様は、物憂ものうげに目を伏せました。聞けば、彼女は生前から井下田いげた先生のファンであり、その作品を積極的に集めていたそうです。

 だから、井下田いげた先生が最期に完成させた作品、『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』の存在を知った時は、居ても立っても居られなかったとのことでした。


「その『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』の情報は、どちらで入手されたものなのでしょうか」


井下田いげた先生が亡くなる直前に、先生の奥様が『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』を見せてもらったと。奥様ご本人からお聞きしました」


井下田いげた先生の奥様も、『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』がどこにあるかは知らないのですね」


井下田いげた先生のご自宅とアトリエは幾分距離が離れているのですが、奥様はアトリエで一目『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』を見た後、井下田いげた先生を残して、先にご自宅に帰られたそうです。

 その次の日、井下田いげた先生はアトリエで亡くなられていたのですが、アトリエ内には『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』は見当たらず、どこにしまってあるかはわからないとのことでした。

 井下田いげた先生は人間嫌いで有名なお方でしたし、奥様を何よりも大切にされていました。奥様以外の方に、作品をお渡ししたとも思えないのです」


 綾辻あやつじ様は、突然前のめりになり、終始黙って聞いていた犬飼いぬかい先生の手を握りました。私は一瞬、硬直します。

 先生は以前、依頼人と握手をしたときに「すっごい手汗だね。ぬめっとして気持ち悪い」と発言し、依頼がご破算になったことがありました。今回も、何か失言をしてしまうのではないかと、気が気ではありません。


「私自身がその作品を手に入れたいという気持ちも、もちろんあります。しかしそれ以上に、井下田いげた先生の作品をこのまま埋もれさせることは、芸術界の損失と強く考えております。

 人類の芸術の進歩のためにも、どうかお願いします塚地つかじ先生。お金はいくらでもお支払いしますので、依頼をお受けください」


 まあ、塚地つかじ先生ではないのですが。

 綾辻あやつじ様は、目を潤ませて、上目遣いで先生を覗き込みました。そんじょそこらの殿方ならば、その魅力にふらついてしまうでしょう。

 しかし、先生に関しては全く反応が予測できません。以前大人の女性が好みだと聞いたことがありますが、鼻の下を伸ばしてくれていれば御の字です。もしここで、罵倒を吐くなどの失礼を働いたら、せっかくの依頼を失ってしまいます。

 先生の表情は、ガスマスクの所為で伺えません。私は、先生が何か言いだす前に話を進めようと、「あの」と声を出します。

 しかし、私が取り繕う前に、先生は伏し目がちにしていた顔を上げ、色のついたレンズで綾辻あやつじ様の目を見つめました。


「それで結局、あなたは僕に何を依頼したいのだね」


「は?」


 綾辻あやつじ様が、気の抜けた声を出した。


「い、いや、それを今説明したのですが……」


「長いんだよ。簡潔かんけつに言いたまえ。なんだね。さっきから、芸術家がどうとか、奥さんがどうとか、挙句の果てには人類のためとか。さっぱり話が分からない」


 先生が綾辻あやつじ様の手を振り払い、芝居掛かった仕草で大きく手を上げます。私は、ある程度予想していた、最悪よりも幾分か良い展開に、思わず息を吐きました。

 先生は、人の話を聞くのが何よりも苦手です。知人友人の話はまだ聞けるのですが、初対面の依頼人の話など、あんまり長いと集中力が持たなくて、途中から耳の右から左に抜けてしまうのです。

 私を雇う前は、どうやって依頼を受けていたのでしょうか。それは、1年ほど勤めた今もって謎のままです。

 私は、先生に耳打ちをします。


「先生。要するに、『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』という、井下田いげた晋作しんさくなる芸術家の遺作を見つけて、綾辻あやつじ様に渡してほしいという依頼ですよ」


「なんだ、そういうことか。それならそうと、最初から言いたまえ。よくわからない無駄話ばかりしてからに」


 最初から言っていました。

 結局、ことの経緯も、綾辻あやつじ様の芸術に対する熱い情熱も、先生の中では『よくわからない無駄話』ということで処理されてしまったようです。綾辻あやつじ様も若干困惑気味でしたが、気を取り直すかのように弾んだ声を上げました。


「それでは、お受けしてくださるのでしょうか」


「ふん、そうだなあ」


 そう言いながら、先生がガスマスクを外しました。

 先生の細長い、猫のような目があらわになります。漆黒しっこくひとみに見つめられた綾辻あやつじ様は、少し落ち着かなそうに視線を泳がせます。それを先生は気にも留めず、じっと見つめ続けました。

 先生の鼻が、何度かヒクヒクと動きました。と思うが早いか、


「ゲホッ! ゲッハゲハゲハ! オエッ!」


 勢いよく咳き込みました。すぐに、ガスマスクをつけ直します。私が先生の背中をさすると、先生は「大丈夫」と右手を上げて応えました。

 綾辻あやつじ様が、不安げに先生を見つめます。先生は、まだ少し咳き込みながら、声を出しました。


「ゲホッ……、いや、失礼。僕は少し、汚れた空気に弱くてね。ガスマスクが手放せないんだ。しかし、これからしばらくのお付き合いになるんだから、きちんと目と目を合わせないと、信頼は生まれないと思ってね」


 綾辻あやつじ様が、ぱっと顔を明るくした。


「それでは」


「ああ。この依頼、引き受けたよ。薄雪うすゆき君」


「はい、先生」


 先生に呼ばれた私は、すかさずふところにしまっていたそろばんをズルリと出し、机の上に置きました。


「願いましては」


 パチパチと子気味良こぎみよい音を立てながら、そろばんのたまを弾きます。依頼の基本料金、日にかかる調査費、私と先生の時給換算、アトリエや井下田いげた先生宅までの交通費。暗算を交えながら、計算を進めました。

 2秒ほどかけて、私は最後のたまを弾きます。


「ご破算はさんです。

 それでは、前金で30円。成功報酬として、後金で60円。その他諸経費の全額負担といったところで、いかがでしょうか。

 もちろん、長引けばその分経費は掛かりますが、ご安心ください。先生は非常に優秀な探偵です。一週間もあれば十分な結果を出せるでしょう」


 綾辻あやつじ様からは、なんの返答もありません。見やると、目を丸くして、小さく拍手をしておりました。


「素晴らしい、ですね。こんなにも計算が早い者は、私どもの従業員にもおりませんわ」


 突然のお褒めの言葉に、少々面食らいます。懐にそろばんをしまいながら、「ありがとうございます」と返しましたが、少々声が上ずってしまったかもしれません。

 先生が、すかさず口を挟みます。


「当然さ。彼女は、そろばん弐段の腕前だからね。金勘定かねかんじょうに関して、右に出る者はいないよ」


「先生。その褒められ方は、あまり嬉しくありません」


 綾辻あやつじ様が、口を押えてクスリと笑います。先生をジトリとにらみ付けるも、カンラカンラと高笑いを上げてどこ吹く風。全く、腹立たしいところです。

 綾辻あやつじ様は手を膝に揃え、深々と頭を下げた。


「依頼料については、それで結構です。なにとぞ、よろしくお願いします」


 その後は早いものでした。綾辻あやつじ様が契約書を書き終わると、鰐皮わにがわの長財布から30円札をどんと出し、最後にもう一度頭を下げて事務所を後にしました。

 現金で30円もの大金を持っていて、それを惜しげもなく出していくとは、やはり相当なお金持ちだったのでしょう。質のいい財布からも、それはうかがえます。

 綾辻あやつじ様が帰った後、先生は事務机に足を乗せ、契約書類をパラパラと眺めていました。時たまペンを手に取り、なにがしかを書き込んでいます。

 滅多に吸わないキセルをガスマスクの端から伸ばして、ぷかぷかと煙を浮かせているあたり、なかなかにご機嫌のようです。


「それで、先生。どうだったんですか」


 綾辻あやつじ様が置いていった札束を整理しながら、私が、先生に問いかけます。先生は、事もなげに答えました。


「ああ、下水から流れて来た泥水を煮詰めて、香草を混ぜたような匂いだったな」


「良い匂いだったと」


「なんでそうなるんだ」


 先生は、朝にした珈琲の話をすっかりお忘れのようです。


「ひどい下衆の臭いがしたよ。聡明さもプライドもあるのに、全てを欲で上塗りしている。あれは、自分の利益のことしか考えていない女の臭いさ。なにが人類の進歩だか」

 

 そう言って、先生はくつくつと喉の奥で笑いました。

 先生は、とても鼻が利きます。その人知を超えた嗅覚で、どんな匂いも嗅ぎ分けることができるのです。

 珈琲がインスタントかどうかも、香水の種類も。

 そして、人の“魂の匂い”までも。

 先生は、その人がどのような人間かも、こと虚実きょじつも、想いも、全て匂いで分かってしまうのです。

 私は、新しい珈琲を入れるため台所に向かいながら、先生に声をかけました。

 

「それなら、どうして依頼を引き受けたんですか」


「ああいう手合いは利益で動いている分、信用が大事な資産であることもよくわかっている。成功報酬をケチることはまずないのさ。その分、信用の切り時も心得ているんだけどな。

 それに、最近はほとんど収入もなかったからね。大家も焦れているだろうし、そろそろ仕事をこなしてやろうかと思ってさ」


「それはどうでしょう」


 先生に珈琲をお出しし、私は先ほどまで綾辻あやつじ様が座っていた、対面の椅子に座ります。


「本当は、綾辻あやつじ様がお綺麗だから、依頼を受けたのではないですか」


「おいおい、なんだそれ。どうしてそうなる。僕は、仕事に私情は挟まないよ」


 心の底から嫌そうな声を出す先生に、私は心の奥でほくそ笑みます。

 先ほどの、そろばんの下りの仕返しです。


「だって、先生。以前、好みの女性は大人っぽい女性だって言っておりました。綾辻あやつじ様は、ピッタリなのではありませんか」


「あの女が僕好みだって。冗談を言わないでほしいな。

 あいつは、世界の全てが自分を中心に回っていると思っているようなガキだ。中途半端にさかしいと、そういう大きな子どもになってしまうのさ。好みだなんて、とんでもない」


「でも、手を握られてもなすがままでしたし。本当は、鼻の下を伸ばしていたとか」


「失礼をするなと言ったのは、薄雪うすゆき君だろ。ああ、なんという理不尽な疑いだ」


 まるでこの世の終わりのように、頭を抱える先生に、私はついにクスクスと声が漏れました。溜飲りゅういんが下がるとは、まさにこのことでしょう。

 ふと、先生がじっとこちらを見つめてきました。私は、突然の注目に、少し身を引きます。


「な、なんですか」


「いや、大人っぽいという意味では、薄雪うすゆき君は実に大人の匂いがするよな。自分にない価値観も認めることができる、度量の広さがある」


「え。わ、私ですか」


「そうだとも。少なくとも僕は、今まで君ほど人間として成熟せいじゅくした匂いは嗅いだことがないね。僕は君よりもずっと歳を重ねているが、たまにどちらが保護者かわからなくなる時があるよ。本当、尊敬するね」


「……それは、ありがとうございます」


 先生は、端的に言って空気が読めません。

 ですから今も、本当に今思いついたことを言っただけなのでしょう。実に、厄介やっかいな方だと思います。

 私は、珈琲を乗せていたお盆を洗うため、再度台所に歩を進めます。先生はインスタント珈琲を入れたカップを、ガスマスクを少し上げて口に運びながら、私の背に一声かけました。


「あれ、薄雪うすゆき君。インスタント珈琲の粉を変えたかい。なんだか、随分甘い匂いが漂っているけれど」


「先生が、変なことを言うからです」


 熱がこもる顔を先生に向けずに、私は先生の言葉をさえぎりました。

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