2:NOTE「その探偵、依頼を受ける」
「まあ、どうぞ。座って」
応接用ソファーの背もたれを押しつぶさんばかりに寄りかかりながら、先生は古びたキセルを依頼人に突き出しました。
私は、先生とテーブルを挟んで置かれている椅子を静かに引き、本日の依頼主……
「どうぞ、こちらに」
「え、ええ。ありがとうございます」
小顔で、
女性の私でも、思わず見とれてしまうほどに、美しい方です。長く
先生が、少しガスマスクを上にずらし、すぐに元に戻しました。
「
先生の何気ない一言に、
男性で、しかも一瞬にして香水の種類を当てることができるのは、先生が
ここで止めておけば、先生の
「何よりバカみたいに高価だから、金持ちが自分の財力を宣伝するにはうってつけだ」
「申し訳ありません。先生は昨日事件を解決したばかりで、2時間も寝ていないのです。少々頭が回っておりませんので、若干無礼な物言いをしてしまうかも知れませんが、ご容赦ください」
「何を言ってるんだ、
「そうですよね。先生」
私は、先生の反論を
「ああ、そうだね。うん、そうだった」
それだけ言って、静かに
先生は他人との会話が
端的に言ってしまえば、空気が読めないのです。
先生が依頼人の応対をすれば、たいていの依頼人は回れ右をして帰ってしまうでしょう。だから、依頼人からご依頼を聴取するのは、助手である私の最も大切な仕事です。
私は、机に先生と
「かの『
違います。
実は、こういったことは珍しくないのです。
そして、わざわざ訂正していたら、悪名高い先生の事務所には、なかなかお客さんが来ないのです。
「先生は、ご多忙でいらっしゃいます。ご用件は、私が
否定もせず、肯定もせず。先生は若干不満そうですが、ガスマスクのおかげで表情はわかりません。非常に好都合です。
「
既存の概念にとらわれない数々の珍作、奇作を発表したため、彼の作品は大変な高値が付くものから、ただのゴミにも劣ると言われるものまで、評価にムラがありました。
しかし、つい2週間ほど前に病気で急死してから、収集家は
「芸術家は、死んでからじゃないとその価値に気づかれない。ゴッホの時から、何も変わらないんです」
だから、
「その『
「
「
「
その次の日、
先生は以前、依頼人と握手をしたときに「すっごい手汗だね。ぬめっとして気持ち悪い」と発言し、依頼がご破算になったことがありました。今回も、何か失言をしてしまうのではないかと、気が気ではありません。
「私自身がその作品を手に入れたいという気持ちも、もちろんあります。しかしそれ以上に、
人類の芸術の進歩のためにも、どうかお願いします
まあ、
しかし、先生に関しては全く反応が予測できません。以前大人の女性が好みだと聞いたことがありますが、鼻の下を伸ばしてくれていれば御の字です。もしここで、罵倒を吐くなどの失礼を働いたら、せっかくの依頼を失ってしまいます。
先生の表情は、ガスマスクの所為で伺えません。私は、先生が何か言いだす前に話を進めようと、「あの」と声を出します。
しかし、私が取り繕う前に、先生は伏し目がちにしていた顔を上げ、色のついたレンズで
「それで結局、あなたは僕に何を依頼したいのだね」
「は?」
「い、いや、それを今説明したのですが……」
「長いんだよ。
先生が
先生は、人の話を聞くのが何よりも苦手です。知人友人の話はまだ聞けるのですが、初対面の依頼人の話など、あんまり長いと集中力が持たなくて、途中から耳の右から左に抜けてしまうのです。
私を雇う前は、どうやって依頼を受けていたのでしょうか。それは、1年ほど勤めた今もって謎のままです。
私は、先生に耳打ちをします。
「先生。要するに、『
「なんだ、そういうことか。それならそうと、最初から言いたまえ。よくわからない無駄話ばかりしてからに」
最初から言っていました。
結局、ことの経緯も、
「それでは、お受けしてくださるのでしょうか」
「ふん、そうだなあ」
そう言いながら、先生がガスマスクを外しました。
先生の細長い、猫のような目が
先生の鼻が、何度かヒクヒクと動きました。と思うが早いか、
「ゲホッ! ゲッハゲハゲハ! オエッ!」
勢いよく咳き込みました。すぐに、ガスマスクをつけ直します。私が先生の背中をさすると、先生は「大丈夫」と右手を上げて応えました。
「ゲホッ……、いや、失礼。僕は少し、汚れた空気に弱くてね。ガスマスクが手放せないんだ。しかし、これからしばらくのお付き合いになるんだから、きちんと目と目を合わせないと、信頼は生まれないと思ってね」
「それでは」
「ああ。この依頼、引き受けたよ。
「はい、先生」
先生に呼ばれた私は、すかさず
「願いましては」
パチパチと
2秒ほどかけて、私は最後の
「ご
それでは、前金で30円。成功報酬として、後金で60円。その他諸経費の全額負担といったところで、いかがでしょうか。
もちろん、長引けばその分経費は掛かりますが、ご安心ください。先生は非常に優秀な探偵です。一週間もあれば十分な結果を出せるでしょう」
「素晴らしい、ですね。こんなにも計算が早い者は、私どもの従業員にもおりませんわ」
突然のお褒めの言葉に、少々面食らいます。懐にそろばんをしまいながら、「ありがとうございます」と返しましたが、少々声が上ずってしまったかもしれません。
先生が、すかさず口を挟みます。
「当然さ。彼女は、そろばん弐段の腕前だからね。
「先生。その褒められ方は、あまり嬉しくありません」
「依頼料については、それで結構です。なにとぞ、よろしくお願いします」
その後は早いものでした。
現金で30円もの大金を持っていて、それを惜しげもなく出していくとは、やはり相当なお金持ちだったのでしょう。質のいい財布からも、それはうかがえます。
滅多に吸わないキセルをガスマスクの端から伸ばして、ぷかぷかと煙を浮かせているあたり、なかなかにご機嫌のようです。
「それで、先生。どうだったんですか」
「ああ、下水から流れて来た泥水を煮詰めて、香草を混ぜたような匂いだったな」
「良い匂いだったと」
「なんでそうなるんだ」
先生は、朝にした珈琲の話をすっかりお忘れのようです。
「ひどい下衆の臭いがしたよ。聡明さもプライドもあるのに、全てを欲で上塗りしている。あれは、自分の利益のことしか考えていない女の臭いさ。なにが人類の進歩だか」
そう言って、先生はくつくつと喉の奥で笑いました。
先生は、とても鼻が利きます。その人知を超えた嗅覚で、どんな匂いも嗅ぎ分けることができるのです。
珈琲がインスタントかどうかも、香水の種類も。
そして、人の“魂の匂い”までも。
先生は、その人がどのような人間かも、
私は、新しい珈琲を入れるため台所に向かいながら、先生に声をかけました。
「それなら、どうして依頼を引き受けたんですか」
「ああいう手合いは利益で動いている分、信用が大事な資産であることもよくわかっている。成功報酬をケチることはまずないのさ。その分、信用の切り時も心得ているんだけどな。
それに、最近はほとんど収入もなかったからね。大家も焦れているだろうし、そろそろ仕事をこなしてやろうかと思ってさ」
「それはどうでしょう」
先生に珈琲をお出しし、私は先ほどまで
「本当は、
「おいおい、なんだそれ。どうしてそうなる。僕は、仕事に私情は挟まないよ」
心の底から嫌そうな声を出す先生に、私は心の奥でほくそ笑みます。
先ほどの、そろばんの下りの仕返しです。
「だって、先生。以前、好みの女性は大人っぽい女性だって言っておりました。
「あの女が僕好みだって。冗談を言わないでほしいな。
あいつは、世界の全てが自分を中心に回っていると思っているようなガキだ。中途半端に
「でも、手を握られてもなすがままでしたし。本当は、鼻の下を伸ばしていたとか」
「失礼をするなと言ったのは、
まるでこの世の終わりのように、頭を抱える先生に、私はついにクスクスと声が漏れました。
ふと、先生がじっとこちらを見つめてきました。私は、突然の注目に、少し身を引きます。
「な、なんですか」
「いや、大人っぽいという意味では、
「え。わ、私ですか」
「そうだとも。少なくとも僕は、今まで君ほど人間として
「……それは、ありがとうございます」
先生は、端的に言って空気が読めません。
ですから今も、本当に今思いついたことを言っただけなのでしょう。実に、
私は、珈琲を乗せていたお盆を洗うため、再度台所に歩を進めます。先生はインスタント珈琲を入れたカップを、ガスマスクを少し上げて口に運びながら、私の背に一声かけました。
「あれ、
「先生が、変なことを言うからです」
熱がこもる顔を先生に向けずに、私は先生の言葉を
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