犬飼探偵の芳しき失敗
無知園児
”彫刻家の遺作”ノート
First:NOTE「その探偵、登場する」
雑居ビル街に張り巡らされた
ガタついた窓から流れ込む石炭の臭いに巻かれて、目をこすりながら布団から身を起こしました。寝間着を枕元に放り捨て、着物に
季節は早春。早朝の冷えた空気が足元から入ってきて、まだまだ肌寒い、と実感しました。お気に入りの
最後に忘れ物を確認して、これまたお気に入りの下駄をつっかけ、アパートの扉を開けました。今朝がた感じた石炭の臭いと共に、肺の中に染みわたる外気。今日はラジオの天気予報通り、雲一つない青空です。
夜から朝に変わりつつある空の下を、カランコロンと小気味よい音をたてながら、アパートの階段を下りました。
道路を挟んで、向かい側。古びた雑居ビルの1階入り口に掲示されているのは、[激安:相談料なんと5円から]と描かれた、私お手製の宣伝チラシ。
それを横目に、共同ポストから郵便物を取り、狭苦しい階段を上って、3階のさびれた鉄の扉を、コンコンと2回ノックします。
「おはようございます」
返事がないのは、いつものこと。
通勤時間約2分。こうして、私と
室内がピカピカになったら、今度は事件記録の整理や会計業務と言った事務作業です。作業の合間に、
ちなみに、コギクちゃんの名付け親は私です。なかなかいい名前だと思うのですが、先生には「菊にコギクはどうかと思うが」と不評です。少々、納得がいきません。
日が高くなると、そこいらのビルから労働者の皆様が、
窓の外から聞こえるざわめきを
ドアが、ガチャリと音を立てて開きます。
「おはようございます、先生。今日も、いいお天気ですよ」
先生は、不機嫌そうに手で額を押さえながら、ふらふらと頭を振ります。
「どこがだい。薄暗い、
「それは、先生がつけているガスマスクのレンズに、色が入っているからじゃないですか」
私が先生に進言すると、先生はペタペタとガスマスクのレンズを触り、「ああ」と声を上げました。先生は非常に鼻がよく、匂いに
「そうだった。すっかり忘れていた。ふん。もう、このガスマスクを注文するのはやめよう。目に映る景色が真っ暗だと、朝と言うだけで最悪な気分なのが、さらに悪くなる」
先生が、事務所の棚から
シューコーと、蚊の鳴くような呼吸音。低血圧の先生は、朝はいつもこんな調子です。
私は、インスタントの珈琲粉に、沸かした熱いお湯を入れて、先生の事務机の上に置きました。先生は、背を丸めながら大きな手で小さな珈琲カップを持ちます。
ガスマスクを頭上にずらして、くんくんと匂いを嗅ぐ姿。見慣れたものですが、ちょっと動物っぽくてかわいいかもしれないと思っているのは、先生には内緒です。
「またインスタント珈琲かね、薄雪君。そろそろ、本格的な入れ方を覚えるのもいいんじゃないか。以前、この僕が直々に教えてあげただろう」
「はい。先生に飲ませていただいた、下水から流れて来た泥水を煮詰めて香草を混ぜたような味の珈琲は、忘れられません。私はあれを飲んで、インスタントを買い置きしようと決意しました」
「……そうだったかな。いや、あれはあれで、いい味が出ているんだよ。僕は好きだな。うん」
私に問題の珈琲をふるまった後、先生もまた、一口も飲まずに捨てていたのを私は知っています。フーフーと鳴らない口笛を鳴らす先生を横目に、私もお昼休憩にしようと思い、珈琲と
その時です。珈琲の匂いを嗅いでいた先生が、突然入り口扉に顔を向けました。
「どうされましたか、先生」
私の問いに、応えは返ってきません。先生は、珈琲をぐびぐびと一気に飲み干すと、勢いよくカップを置き、そのまま立ち上がりました。背筋がピンと伸び、目は……よく見えませんが、恐らくぱっちりと開かれていることでしょう。
そのまま、勢いよく入口に歩を進め、中開きの鉄扉を、
扉の向こうには、目を見開いて右腕をすくめる
「ようこそ、我が探偵事務所へ。さあ、中に入るがいい。この僕が、君の持つ謎の真実を解き明かして見せよう」
先生が高らかに叫びました。扉の向こうの女性は、「あ、あの……」と状況を理解できないご様子。無理もありません。
私は、なるたけ依頼人らしき女性を落ち着かせるため、ゆっくりと頭を下げました。
「先生は、たぐいまれなる
こうして、
申し遅れました。私の名前は、
そして、世間には『変態ガスマスク』『態度が大きいヘボ探偵』『未解決率100%』と
さて、本日の事件記録は、幻の芸術作品『
その
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます