犬飼探偵の芳しき失敗

無知園児

”彫刻家の遺作”ノート

First:NOTE「その探偵、登場する」

 東京都銀崎区とうきょうとぎんざきくは、安孫子町あびこちょう。雑居ビルが所狭しと立ち並び、日の光が届きづらいこの町で、私の一日は始まります。

 雑居ビル街に張り巡らされた高架橋こうかきょうを走る、始発の汽車が放つ轟音が、線路脇の安アパート4階角部屋に住む私の目覚まし代わり。

 ガタついた窓から流れ込む石炭の臭いに巻かれて、目をこすりながら布団から身を起こしました。寝間着を枕元に放り捨て、着物にそでを通します。

 季節は早春。早朝の冷えた空気が足元から入ってきて、まだまだ肌寒い、と実感しました。お気に入りのひとえ羽織はおりを着た上に、キャスケットで防寒対策をします。

 最後に忘れ物を確認して、これまたお気に入りの下駄をつっかけ、アパートの扉を開けました。今朝がた感じた石炭の臭いと共に、肺の中に染みわたる外気。今日はラジオの天気予報通り、雲一つない青空です。

 夜から朝に変わりつつある空の下を、カランコロンと小気味よい音をたてながら、アパートの階段を下りました。

 道路を挟んで、向かい側。古びた雑居ビルの1階入り口に掲示されているのは、[激安:相談料なんと5円から]と描かれた、私お手製の宣伝チラシ。

 それを横目に、共同ポストから郵便物を取り、狭苦しい階段を上って、3階のさびれた鉄の扉を、コンコンと2回ノックします。


「おはようございます」


 返事がないのは、いつものこと。ふところから合鍵を取り出して、かちりと扉を開けます。入るときに、扉にかけられた『閉店御礼へいてんおんれい』と書かれた札を、くるりと回して『開店御無礼かいてんごぶれい』に変えました。これも、私の大事な業務です。

 通勤時間約2分。こうして、私と犬飼いぬかい探偵事務所の朝は始まります。

 犬飼いぬかい探偵事務所随一の……というか、唯一の従業員である私にとって、朝は忙しない時間です。まずは、お掃除。先生の自室と、事務室兼応接室の二部屋しかない狭い事務所といっても、手を抜くわけにはいきません。大きな所長机も、応接用に置かれたソファーとイスも、念入りに手入れをします。

 室内がピカピカになったら、今度は事件記録の整理や会計業務と言った事務作業です。作業の合間に、観葉植物かんようしょくぶつである菊のコギクちゃんに水をあげるのを忘れてはいけません。

 ちなみに、コギクちゃんの名付け親は私です。なかなかいい名前だと思うのですが、先生には「菊にコギクはどうかと思うが」と不評です。少々、納得がいきません。

 日が高くなると、そこいらのビルから労働者の皆様が、昼餉ひるげのために大通りに出てきます。

 窓の外から聞こえるざわめきを環境音楽BGMに、私が収支表を見て予算のやりくりに四苦八苦していると、先生の部屋からガサゴソと音がしてきました。ようやく、お目覚めになられたようです。

 ドアが、ガチャリと音を立てて開きます。犬飼いぬかいかおる先生は、よれよれになった木綿のワイシャツにベストを合わせ、手には革の手袋。そして、顔には硬質感のある鈍色にびいろのガスマスクをつけるという、いつも通りの姿で登場しました。


「おはようございます、先生。今日も、いいお天気ですよ」


 先生は、不機嫌そうに手で額を押さえながら、ふらふらと頭を振ります。


「どこがだい。薄暗い、陰鬱いんうつな天気だ。見たまえ。部屋の中まで真っ暗じゃないか」


「それは、先生がつけているガスマスクのレンズに、色が入っているからじゃないですか」


 私が先生に進言すると、先生はペタペタとガスマスクのレンズを触り、「ああ」と声を上げました。先生は非常に鼻がよく、匂いに過敏かびんな反応をします。ですので、ガスマスクが手放せません。


「そうだった。すっかり忘れていた。ふん。もう、このガスマスクを注文するのはやめよう。目に映る景色が真っ暗だと、朝と言うだけで最悪な気分なのが、さらに悪くなる」


 先生が、事務所の棚から消臭噴霧器しょうしゅうスプレーをひったくり、空中に振りまきながら、自分で買ったガスマスクにぶつくさと文句を言います。そのまま、木製の大きな所長机に手を着き、倒れ込むように皮張りの椅子に座りました。

 シューコーと、蚊の鳴くような呼吸音。低血圧の先生は、朝はいつもこんな調子です。

 私は、インスタントの珈琲粉に、沸かした熱いお湯を入れて、先生の事務机の上に置きました。先生は、背を丸めながら大きな手で小さな珈琲カップを持ちます。

 ガスマスクを頭上にずらして、くんくんと匂いを嗅ぐ姿。見慣れたものですが、ちょっと動物っぽくてかわいいかもしれないと思っているのは、先生には内緒です。


「またインスタント珈琲かね、薄雪君。そろそろ、本格的な入れ方を覚えるのもいいんじゃないか。以前、この僕が直々に教えてあげただろう」


「はい。先生に飲ませていただいた、下水から流れて来た泥水を煮詰めて香草を混ぜたような味の珈琲は、忘れられません。私はあれを飲んで、インスタントを買い置きしようと決意しました」


「……そうだったかな。いや、あれはあれで、いい味が出ているんだよ。僕は好きだな。うん」


 私に問題の珈琲をふるまった後、先生もまた、一口も飲まずに捨てていたのを私は知っています。フーフーと鳴らない口笛を鳴らす先生を横目に、私もお昼休憩にしようと思い、珈琲と氷砂糖こおりざとうを台所から持ってこようと立ち上がりました。

 その時です。珈琲の匂いを嗅いでいた先生が、突然入り口扉に顔を向けました。


「どうされましたか、先生」


 私の問いに、応えは返ってきません。先生は、珈琲をぐびぐびと一気に飲み干すと、勢いよくカップを置き、そのまま立ち上がりました。背筋がピンと伸び、目は……よく見えませんが、恐らくぱっちりと開かれていることでしょう。

 そのまま、勢いよく入口に歩を進め、中開きの鉄扉を、轟音ごうおんを立てながら勢いよく開きました。

 扉の向こうには、目を見開いて右腕をすくめる妙齢みょうれいの女性。どうやら、扉をノックしようとした瞬間に、先生が扉を開けたようです。外開きの扉でなくて、本当によかったと思います。


「ようこそ、我が探偵事務所へ。さあ、中に入るがいい。この僕が、君の持つ謎の真実を解き明かして見せよう」


 先生が高らかに叫びました。扉の向こうの女性は、「あ、あの……」と状況を理解できないご様子。無理もありません。

 私は、なるたけ依頼人らしき女性を落ち着かせるため、ゆっくりと頭を下げました。


「先生は、たぐいまれなる洞察力どうさつりょくと推理力で、あなた様がいらっしゃることを予期よきしておりました。どうぞ、お入りください。依頼をお聞きする準備は、既にできております」


 こうして、犬飼いぬかい探偵事務所の一日は始まりました。




 申し遅れました。私の名前は、下羽しもはね薄雪うすゆき犬飼いぬかい探偵事務所唯一の従業員にして、所長である犬飼いぬかいかおる先生を敬愛けいあいする探偵助手です。

 そして、世間には『変態ガスマスク』『態度が大きいヘボ探偵』『未解決率100%』と揶揄やゆされる犬飼いぬかい先生の、かぐわしき真実の記録を書き記す者です。

 さて、本日の事件記録は、幻の芸術作品『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』にまつわる冒険譚ぼうけんたんです。芸術家、井下田いげた晋作しんさくの消え去った遺作いさくである『皇極こうぎょく真珠しんじゅ』を、先生がいかにして見つけたのか。

 その顛末てんまつを、不肖ふしょうながらこの下羽しもはね薄雪うすゆきが、つづらせていただきたいと思います。

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