第325話 飯をたかりに1万km(1)

「必要なのは杖だけで、財布もいらないです。だから準備はいいですね」


 詩織ちゃんがそう言うと同時に平衡感覚が失われる。

 無重力というか、落ちている気配のない自由落下というか。


 以前拉致事件時に経験して以来だ。

 だが前は確か風景が瞬いたりしていたのにそれが見えない。

 ただひたすら灰色の世界が続くだけ。

 詩織ちゃんも理奈ちゃんも見えない。


「ちょっと遠いんで時間かかるですよ」


 詩織ちゃんの声は聞こえる。

 でも姿は見えない。


「修先輩も理奈もこっち方向の視覚は無いと思うので何も見えない筈なのです。ただ私は位置も状態も把握しているので心配いらないです。到着まで1曲歌うつもりで待って欲しいのです」


 どうも怪しい空間を移動中らしい。

 しかし、こんな何もない空間に長居したら、人によっては気が狂うぞきっと。

 そういう意味では確かに歌を歌うなんてのはいいかもしれないな。

 そんな事を考えていると。


「間もなく到着なのです」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに辺りが明るくなる。

 足の裏が何か踏みしめる感触とともにあたりの風景が明らかになった。


 石っぽい素材の壁、古めのデザインの窓。

 そして……


「まさか本当に来るとはね」


 若干呆れたような、それでいて嬉しそうな見知った顔。


「え、奈津季さん?」

「メール通り無事到着なのです!」


 って、まさか……


「奈津季さんですよね」


 思わず俺は阿呆な質問をしてしまう。


「本人だよ。ついでに言うとここはフランスのルーアン。僕のアパートさ。

 という事は詩織、修には何も話さず連れてきたって訳か」

「修先輩は石頭なので論より証拠がてっとり早いのです。理奈は犯行現場を目撃されそうだったので口封じなのです」


「本当にフランスなんだ、ここ……」


 理奈ちゃんは辺りを見回している。

 窓の外にちらりと見える建物もも日本のものと大分異なる。


「という事で、とりあえずはお土産なのです」


 詩織ちゃんはスーパーの白ポリ袋や紙袋等雑多なものを奈津希さんに渡す。

 見覚えのあるスイーツの紙袋も見える。

 この為に詩織ちゃんは買った訳か。


「まあ今回はいいけどあまり無茶はするなよ」


 と言いつつ奈津希さんは嬉しそうにお土産を受け取る。

 この人甘いものに目がないからな。

 詩織ちゃんもその辺よくわかっているようだ。


「という訳で奈津季先輩、飯プリーズなのです。私はお腹が空いて倒れそうなのです」


 ちょっと奈津希さんは不審気な顔をする。


「修采配の旅行中だろ。そんなに貧しいメニューにはしないと思うけどな」

「昨日と今朝が旅館の健康重視な地産地消メニューで、今日の晩御飯が精進料理なんです」


 理奈ちゃんの説明で奈津希さんは苦笑する。


「確かに朱里先輩や風遊美なら好きそうだけど若向きじゃないな。ちょうど昨日食材研究に色々買って在庫があるんだ。簡単なものしかないけどな」


 奈津希さんは棚の向こう側に消える。

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