第117話 出発

 部屋を出ていった一行の足音が聞こえなくなったあたりで、奈津希さんが個室の扉を閉めた。


「それでどうするんだ。パイプ椅子は並べても寝るには不向きだぞ」


「バレてましたか」


「ほぼ全員に、ですね」

 風遊美さんが肯定する。


「ならちょっと香緒里ちゃんの様子を見ていていただけますか。ちょっとグッズを取ってきますので」

 俺はそう言って立ち上がる。

 あ、ちょっとくらっと来た。

 とっさに誰かに支えられる。


「無理するなよ。貧血気味なのは本当だろ」


「ざまないですね」

 俺は座り直す。


「なら奈津希さんお願いします。この部屋を出て左3部屋目の、プライベートと書いた扉を開くと用具室になっている筈です。そこに付き添い用の簡易折りたたみベッドがあるんで持ってきてもらっていいですか」


「3部屋目のプライベートだな。わかった」

 奈津希さんは部屋を出て行った。

 残ったのは寝ている香緒里ちゃんの他は俺と風遊美さんだけ。


「直接、香緒里さんの自我に会いにいくつもりなのですね」

 風遊美さんは静かな口調でつぶやくように言う。


「会える自信はあるのですか」


「そんな魔法も方法論も何もないけれど、多分会えると思うんです。昔からそうだったし。いや、昔はそうだったと言うべきですか」


「危険性はわかっていますよね。自分の意識が戻れなくなる可能性も」

 風遊美さんの口調はあくまで冷静だ。


「知ってはいるけれど、多分理解は出来ていないんです。

 行くのが当たり前と思っているし、危険だという実感はまるでないですね。

 由香里姉もそうだけど、香緒里ちゃんはある意味親よりもずっと近い存在でしたから。ある意味3人で全世界を敵にしていたような時期もありましたし」


 本当はそれより更に自分に近い存在だった。

 少なくとも小学校低学年の頃の俺にとっては。

 実はその頃の記憶は俺自信の記憶と香緒里ちゃんの記憶が混ざってしまっている。

 まだ自分という枠が完全に固まる前に、お互い夢の中で全てを交換し合ったから。


「だからこそ危険だって事も知っているんですよね、きっと」


「知識の上では」


 そこで部屋の外からカラカラという車輪の音が聞こえて、そして奈津希さんが簡易ベッドを押して部屋の中に入ってきた。

 俺が椅子を持って少し下がったところに、奈津希さんが簡易ベッドを入れる。

 奈津希さんは素早くシーツを敷いて、枕を香緒里ちゃんと同じ位置に置いた。


「あと、向こうへ行く前に水分補給だ。飲んでいけ」

 スポーツドリンクのペットボトルを渡される。

 思わず勢いで全部飲んでしまって、ふと気づいた。


「これでトイレ行きたくなったら不味いですよね」


「その時は僕がちゃんと世話してやるから安心しな」

 さらっと下な話になる。


「って、まさかそれを言うためにペットボトルを買ってきたんですか」


「他にも風呂入れない代わりに全身拭いてやるから覚悟しとけよ。特に下半身は念入りにサービスしてやるから。何なら小便以外の物が溜まっても抜いてやるよ」


 こんな時にもここまで下な話になるとはある意味恐れ入る。

 やはり奈津希さんは只者ではない。

 でもこの気楽さはある意味助かる。


 俺はペットボトルを置いて立ち上がった。

 ベッドに両手を着く。


「何なら寝る姿勢を取るまで介助しようかい」


「大丈夫です」

 靴を脱いでベッドに横になる。

 ちょうど横が香緒里ちゃんの顔。


「それでは、行ってきます」


「さっさと帰ってこいよ。そうしないと下の世話するからな」


 そして風遊美さんはあえて何も言わない。

 そんな2人に見送られ、俺は香緒里ちゃんの手を握って目を瞑った。

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