第19話 月の光の下で彼女とともに走れば

「どこに行くのだ、晶?」


 フレアの声が、ポケットのなかの宝石から聞こえてくる。

 晶が歩いているのは、学校近くの細い道だ。時刻は夜になっていて、あたりはすっかり暗くなっていた。


「まあ、着けばわかるよ」


 ようやく口をきいてくれたフレアにほっとしながら晶は答えた。フレアは、どういうわけか今日は一日中ずっと不機嫌で、口をきいてくれなかったのだ。

 不機嫌……いや、違うな、と晶は思い返した。

 塞ぎこんでいる、だ。

 

 瑠砂に用があるということで、放課後の集まりは中止になった。そのまま家に帰ったが、帰り道も帰ってからも宝石のなかでフレアは何ごとか考え込んでいるようで、声をかけても黙っていた。


「ほら、着いたよ」


 腕を広げながら晶は言った。

 そこは、高校の隣りにある小さな森だった。

 フレアに、ここならばひとが来ないから、宝石から出ても大丈夫だと告げる。

 一瞬後には、フレアが隣に立っていた。


「どうしてここに?」

「まあ、たまにはさ。こういうところで思いっきり羽を伸ばしたほうがいいかなって」


 晶たちの住んでいる街は、東京に接してる県にしては田舎すぎると言われるところだ。

 だが、おそらくそれでも充分に都会なのだ――フレアたちの世界に比べれば。

 地面はほとんどアスファルトだし、住居はコンクリートである。


 晶は、できるかぎり家ではフレアを呼び出している。宝石のなかに閉じ込めておくのは可哀想だったし、フレアは、外に出てくるたびに嬉しそうな顔をするのだ。少なくとも晶にはそう見えた。

 おそらく宝石の中というのは、住みかとしては快適でないに違いない。

 食事も、できる限りふたりで食べることにしていた。

 寝るときは、父の部屋を使ってもらうことに。

 母の部屋は仕事部屋なので晶と言えども迂闊に入ると怒られる。十年前から行方知れずの父の部屋は、当時と変わらず残っているから丁度よかった。


 朝になり晶が目覚めるを待っていたかのようにフレアは晶の部屋の扉を叩く。

 朝食を食べて登校前には宝石のなかへと戻るが、晶は夢魔の宝石をペンの飾りのようにしてポケットの外に出すことに成功していたので、フレアは宝石のなかから外の世界を見ることだけはできた。

 そして、晶に盛んに質問の雨を降らせるのだ。

 晶にとっては当たり前の日常だ。でも、フレアにとってはここは異世界なのだ。

『晶たちの世界については我らは昔から知っていた』

『知っていた……?』

『それどころか昔からけっこう行き来もしていたようだぞ。記録も残っている。それらの記録はひと通り読んできたのだがな……』

 それでもフレアの瞳には、晶たちの世界のあらゆるものが驚異と映るらしい。

 

 予想外に驚かなかったのが携帯電話で、フレアの世界には「相手の姿を映し出す魔法の遠話器」が普及しているのだという。携帯電話のカクカクした映像通信を見て「遅れている」とダメだしされたときには、文明ってなんだろな、と晶は少し悩んでしまったものだ。

 異世界は意外と侮れない。


 ……それはともかく。

 こちらの世界に来る前にフレアも地球についてだけでなく日本という国についても幾らか学んできたらしい。だが、それでも分からないことは多く、晶にとっては当たり前のものでも、観察し、尋ねまくるのだった。


 しかし、それも今日までだった。

 明日には温泉旅行から帰ってくると母から連絡があった。

 宝石の外に出ることは叶わなくなるかもしれない。


 晶はふと思ったのだ。

 そうなったとき──異邦の地に対する物珍しさからくる高揚が過ぎ去ったとき、フレアはどうなるんだろう。

 もし、晶が海外でずっと暮らすことになったとしたら。

 故郷が恋しくはならないのだろうか。


 晶とフレアがやってきた小さな森は、木々の葉がすっかり濃い緑色になっていた。

 もうすぐ黄金週間で、それが過ぎれば梅雨の季節、それから夏がやってくる。

 湿った草の匂いがたちこめ、昼の熱気が落ち着いたとはいえ、まだ森の中は息苦しいほどだった。

 アスファルトの地面とはちがう緑の匂いがふたりを包み込む。

 このあたりではもっとも緑の濃いところだった。


「ほんとは、グラウンドの北にある緑化地域になってる畑のほうが広いけど、あそこだと見通しがいいから、誰かに見つかっちゃうかもしれないし」


 そうなると、余計な騒動が起きかねない。


「ここなら、ちょっとくらい走りまわっても、周りから見られる気づかいはないしね。フレアの故郷って、どんなだかわからないけど……。でも、ぼくたちの世界よりたぶん自然とか多いんでしょ? ここなら、いくらか似ているかなって」


 そう言うと、フレアはしばらく黙ったまま晶を見つめた。

 月光が梢の葉を通して射しこんでくる。

 森の中、黒く染まる木々を背景に、白い光のカーテンが降りていた。

 風で梢の葉が揺れると、月光のカーテンもゆらゆらと揺れる。

 絹のような光のカーテンがフレアをとりまくと、豊かな赤毛のふちが金色にきらめき、つややかな漆黒の毛並みがびろうどのように見えた。

 むっつりとしかめつらをしていたフレアの表情が変わる。

「主殿はよく気がまわる殿方であるな……」

 ふっと肩の力が抜けたように見え、それから晶に向かって笑いかけたのだ。


「よし、では晶、少し走ろう。乗れ!」

「ええ!? い、いやそれはいいよ」


 いちおうは拒否の姿勢を見せてみたが、フレアが言い出したら折れないことは分かっていた。

 いつかの夜のようにフレアの背に乗る。

 前よりはバランスを取るのに苦労はしなかったけれど、それでも、漆黒の馬身から振り落とされないようにフレアのくびれた白い腰に腕を回すときはドキドキしてしまう。

 森の木々を縫って全力で駆けまわると、フレアの額にはすぐに珠の汗が浮かんだ。

「暑い!」

 着せていたセーターを脱いでしまう。

 だが、走っている馬の上ではそれを咎めることもできない。

 月光に白い肌が光り、黒い馬身の上に浮き上がって見えている。

 心臓が倍の速度で鳴り始めたが、フレアが走る速度をさらに上げたので、慌ててお腹に回していた腕でぎゅっとしがみつくことになった。

「も、もう少し……ゆ、ゆっくり……」

 顔に当たる風で晶の息が詰まる。

 背に、かろうじてつかまっている晶は、途切れがちに訴えるがフレアには聞こえていないようだった。あるいは、聞こえていて無視していたのかもしれない。


 もし、夜に森に来た人がいたならば、セントールがその背に少年を乗せながら森のなかを走り回る光景を見て腰を抜かしたに違いない。

 だが、その夜にふたり以外に森を訪れる者はなく。

 情けない悲鳴をあげながら振り落とされまいと必死にしがみつく少年と、彼を振り落とさんばかりの勢いで笑いながら走る裸のセントールの少女の姿は、森の木々と月だけが見ていた。


 晶がフレアと出会ってから、1週間目の夜はこうして更けていった。


  💎 💎 💎


 明けて次の日。

 母が午後から帰ってくることをフレアに告げ、今日からは帰宅しても宝石の外に出せないかもしれないかもと打ち明けた。

 フレアは、「仕方ない」とだけ言った。

 

「なんだかうまくいかないね。伊東さんもなかなか元通りには戻らないみたいだし」

「我らの仲間も見つからない。どこか近くにいるはずなのだが……だが、諦めずに辛抱強くやるしかあるまい。夢喰いの怪物を見つけるためにも、な」

「もしかして、もうとっくに遠くに逃げちゃったなんてことは……」

「瑠砂の心を少々齧ったくらいでは怪物の飢えは収まらないだろう。我らの世界を喰らいつくそうとしたやつなのだからな」


 達成すべきことは山ほどあるのに、なにひとつ進んでいない。

 そんなふうに少しばかり焦り始めたその朝。


 教室に着いた晶に前の席の船山が告げる。

「今日はおまえさんは大丈夫だったか」

「へっ?」

 船山に言われて気づいた。

 教室のなかが妙にざわついている。

「なにかあったの?」

「例のいたずらだ。ほら、前に街の交通管制システムをクラッキングされた──って話をしたろ? 市のなかのあっちこっちの信号機が狂ったやつ」 


 忘れるわけがない。あの日、晶は交通事故で死にかけて、フレアに助けられたのだ。


「今度は性質が悪い。電車だ」

「……で、電車って──」

 電車の信号が狂わされたら大惨事じゃないか。

 船山が重々しく頷いた。

「まあ、幸い事故は起きてないみたいだけど。おかげで上下線とも止まってて、まだ動いてないんだとさ。ただ、クラッキングったって、どこからどうやって、とかがまったく謎だけどな」

「いやそこは何となく分かるんだけど……」

 犯人が、フレアの言っていたとおりに「夢喰いの怪物に喰われた人間」なのだとしたら、人間技じゃなくても可能なのだと思う。

「はあ?」

「あ、いやこっちの話だけど……」


 晶は改めて教室を見渡した。

 クラスの半分以上が来ていない。

 それだけ深刻な影響があったということだ。誰も傷ついたりしていないといいんだけど……。

 もし、フレアがかつて言ったように、そのいたずらをしている人物が、夢喰いの怪物に心を食われた結果として引き起こしているのだとしたら……。


「そっか……ほんとに放っておくと危ないんだね……」


 夢喰いの怪物に心を喰われるということがどういうことか。

 晶はそのとき、ようやく実感できたのかもしれなかった。

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黄昏の夢使いたち はせがわみやび @miyabi_hasegawa

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