中出し羅生門
田中はいつものようにバイトに出かけた。
田中にとって連日のデパート勤めも苦ではなかった。田中はそのデパートで、入荷された商品の陳列をするバイトをしていた。
田中はもう若くはないが、ブルーワーカーの矜持を片時も忘れたことがない。自らの肉体が資する労働環境に最適なコンディションを常に整えている。今日もそれは変わらない。
「おはようございます」
仕事場につくなり挨拶をする。今はもう夕方だが、シフトの変わり目の従業員は皆同じ挨拶をする。「おはようございます」と目の前にいた眼鏡オヤジも挨拶を返してきた。互いに浅き目礼をする。眼鏡オヤジは同じ時刻で働く同僚である。
「そう言えば知ってる? 田中くん」
挨拶ののち、眼鏡オヤジが人懐こい顔で声をかけてきた。バイトリーダーは田中であるが、眼鏡オヤジは馴れ馴れしく話しかけてくる。田中はバイトの制服に着替えながら振り返った。
「何をですか」
「今日、新入りが来るそうだよ」
「へー、そうなんですか」
どうやらその新入りは別部門に配属されたらしいのだが、腰痛持ちで重たい商品をもつことができず、この部門、つまり田中と同じところに配属される運びとなったらしい。
バイトリーダーの田中に話が通ってなかったのは、急遽決まったことと、眼鏡オヤジの面目を慮ってのことだろう。かつて商社に勤めていた眼鏡オヤジは妙にプライドが高いところがあり、蔑ろにされるとすぐに不貞腐れてしまう。おまけに銀歯だらけで、そこにも面倒臭い葛藤を抱えている。だから眼鏡オヤジに会社の情報を先に流し、田中との立場における優越性を認識させているのだ。そういった会社の薄っぺらい姦計が働いている。とは言うものの、出勤時に新たな情報が入った程度で田中が驚くこともないので、問題はまったくなかった。所詮眼鏡オヤジごときは、安手の餌に食いつく哀れな犬畜生に過ぎない。
「もうすぐ来るらしいよ」犬畜生が嬉しそうに囀った。「あ、そうそう。何だか腰だけじゃなく、耳も少し悪いらしいよ」
眼鏡オヤジが新入りの追加情報を伝えてくる。すでに着替え終えた眼鏡オヤジは作業場に向かっていた。どうやら仕事を教えるのはバイトリーダーの田中に任せた、ということのようだ。
田中にとって別に問題はない。
もとより教えるのに難しい仕事ではない。 入荷された商品を出すだけなのだから。
ここで仕事の簡単な説明をしておこう。
まず第一段階。入荷した商品を指定の売り場に運んでいく。この際に用いる会社仕様の台車がある。続いて運んだ商品を陳列する。仕事時間は主にここで割かれる。
そして第二段階。並べた商品及び入荷しなかったが売れた商品の陳列を整える。理路整然とした売り場は利用者の継続的な消費を促すのである。
以上である。
第一段階を『品出し』と呼び、第二段階を『前出し』と呼ぶ。
無論、細かな作業の注意点などはあるが、それはやりながら覚えてもらえばいい。何より会社から配属移転の話があったのなら先の説明如きはすでに聞き及んでいるはずである。だから問題など起こりようがなかった。
部屋のドアが開いた。
「失礼します」
見たことのない男が入ってきた。いつもの挨拶を把握していないあたり、この人物が新入りで間違いないだろう。一見して冴えない中年男性でしかない新入りだった。田中が挨拶を返すと、男ははきはきとした声で述べてきた。
「今日から『中出し』をするよう言われてきました」
「え」
「今日から中出しを――」
「え」
「……中出し――」
田中は手を払い、相手の発言を遮った。
どうであれ、新入りは太い男のようである。
とはいえ、せっかく来てくれたのだ。ひとつ、ここの仕事を体験してもらうことにしよう。
田中は制服に着替えるよう促し、すぐに作業場に向かわせた。
「ここの商品を売り場で陳列されているところにもっていってもらいます」田中は説明した。「初めは売り場の位置がわからないと思いますが、他の従業員に聞くか、おいおい覚えて下さい」
「わかりました」新入りは律儀に頷いた。
田中も頷いた。どうやら中出しはしないようである。従業員には女性も少なくないが、概ねお局万歳な有様である。少子化極まれりといえど、考えものであろう。
その後、田中は眼鏡オヤジに話にいった。
「新入りさん、何か勘違いしてませんか」
作業中であったが、眼鏡オヤジは気さくに応じてくる。離れた位置の新入りを見ながら笑っている。歯に嵌れた鈍き銀の色を見せていた。
「耳が悪いって言っただろ」と眼鏡オヤジ。「ポンコツだよ」
田中は首を振ったが、眼鏡オヤジの言葉を裏付けるようなことがおこった。
新入りが運んだ台車を置いてこちらに近づいてくる。まだ十分ほどしかたっていないが、沈痛な面持ちを伏せながら、息を喘がせて寄ってくる。そして目の前まで来ると要件を述べてきた。
「すいません。腰が」
どうやら腰を痛めたようである。
「もうちょっと無理かも……」
ぐずぐずと愚にもつかぬことを漏らし出した。
田中は新入りを帰らせた。
新入りはとぼとぼと歩きながら、出口へと向かっていく。
気づけば眼鏡オヤジが田中のすぐそばまで来ていた。下卑た笑みを浮かべている。
「ははは。どんだけ中出ししたんだよ」
ケラケラと笑いながら、眼鏡オヤジは愉快そうだった。
新入りは二度と来なかった。
彼の行方は誰も知らない。
思弁雑記A レモンちゃんです。 @lemontyan
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