幕間 霧島十歩の再定義

 その瞬間、何かに切り離される感覚があった。


 ぷつんと糸が切れ、網目がほどけ、緻密に織り込まれた布の中から墜落する感覚だ。


 事実、俺は墜落していた。滝を覗き込んだ隙をつかれて、葉桜二子に突き落とされたのだ。


 猛烈な勢いで景色が上に通り過ぎていき、それに従って俺の体は滝壺めがけて墜落していく。


 ――銀色の鱗と牙が見えた気がした。






 目が覚めた時には俺は、滝壺近くの川岸に打ち上げられていた。


「うえっ、げほっ」


 何度も咳き込み、肺に入った水を吐き出す。下半身が浸かっている川の水が冷たい。体の下にあるごつごつの石が痛い。俺はやっとのことで川から這い上がって、そのまま起き上がろうとし――失敗して、仰向けに転がった。


 ぜえぜえと荒い息をなんとか整えようとする。

 だが、何かがおかしい。


「あ?」


 そこで俺はようやく違和感の正体に気がついた。


「地の文があいつじゃなくなってる……?」


 いつもいつもうるさかったアイツの声はどこにも聞こえなくなっていた。代わりに聞こえるのは自分の声だけだ。いまや、俺が、俺自身が『地の文』だった。


「そうか」


 唐突に納得した。情けない間抜けな声が出た。


「俺は『あの物語』からはもう弾きだされちまったんだな」


 ぼんやりと呟いた言葉が轟々と流れ落ちる滝の音にかき消される。俺は数秒、崖の上にある青い空を見上げた後、くっくっと笑い出した。


「まあいいか。これであいつのうるせえお小言を聞かずに済むようになったんだ」


 ざまあみろとゲラゲラ笑ってみる。お世辞にも上品とは言えない笑い声が崖下に響く。だが――


「……クソッ」


 俺は笑みを消すと、顔をしかめ、拳を地面にたたきつけた。


 これで俺は解放されたんだ。なのに、どうしてこんなにもやもやする。どうしてこんなに悔しいんだ。


「なんでだ」


 何故。そんなもの決まってる。


「あれは俺の物語だったはずだ」


 ――俺が生きてきた物語だったはずだ。


「あれは俺のものだったはずだ」


 ――俺が俺のために作ってきた物語だったはずだ。


 それを横取りされたのだ。どこの誰とも知れない読者とかいう存在のために!


「このままで終われるかよ……」


 俺はうつ伏せになり、両腕で体をぐぐっと持ち上げた。


「何のための物語だ」


 濡れた髪からぽたぽたと雫が垂れる。膝をつく。


「誰のための物語だ……!」


 よろめきそうになりながらも、両足で踏ん張り、立ち上がる。怒りに満ちた目でここにはいないアイツを見据える。思いきり息を吸い込んだ。


「俺は、俺の物語の! 主人公だっ!!」


 そうやって叫ぶと猛烈に力が湧いてきた。


 いや、正確には違う。『俺がそうやって宣言したから』、力が湧いてきたのだ。


 それを理解した俺は、自分がアレと同じ次元の存在になったことを知った。俺はようやくアイツと同じ土俵に立てることを知った!



 

「待ってろ、地の文! テメエの鼻っ面、叩き折ってやる!」

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